このブログのタイトルでもある「空白」。
空白って一体どんなものなんでしょうか?
なにも「考えない」でいられるか?
空白のお話の前に、
ちょっとひとつ試してほしいことがあります。
それは、1分間なにも考えないで居て欲しいんです。
ぜひ試してみてください。
・・・どうですか?
1分間、なにも考えずにいられたでしょうか?
ほとんどの人は、なにかしらの考えが頭の中にでてきたのではないかと思います。
反対に、1分間、なにも考えずにいられたという人は、
すでに空白がなんなのかを知っている人だと思います。
そうなんです。
なにも考えずにいるっていうのは、
実はものすごい難しいことなんですね。
1日の中でなにも考えずにいる時間ってどれくらいでしょうか?
寝ているときぐらいでしょうか?
考えたくないのに、考えてしまうのはなぜ?
なんで、考えたくないのに、
考えてしまうということが起こってしまうんでしょうか?
その答えを簡単に言うと、
考えというのは自分ではないからです。
ちょっとビックリするかもしれませんが、
頭の中にでてくる考えというのは自分のものではないんです。
例えば、朝、駅に向かっている途中で、
郵便ポストを見かけたとします。
そして、反射的に、投函するべきだった手紙の存在を思いだします。
「あ、手紙を持ってくるの忘れた!」となるわけです。
このときに頭の中に発生した考えって自分のものでしょうか?
勝手に頭が考えたことではないでしょうか?
もうひとつ例をあげてみます。
僕自身の例です。
僕は大学は建築系に進んだのですが、
情報処理系の大学と迷っていた時期があります。
そして、色々と考えた結果、
建築系に進むことにしたんです。
このときに頭の中にでてきた考えというのは自分のものなんでしょうか?
「自分の考えでしょ!」と思うかもしれませんが、
本当にそうなんでしょうか?
建築系と情報処理系を比較して、
「建築系のほうが色々と応用がきくのでは?」という考えが浮かびました。
それって、郵便ポストを見て、
手紙のことを思い出したこととちょっと似ていませんか?
そもそも、なんで建築系が気になったのか?
情報処理系が気になったのか?
突き詰めていくと、
自分自身で考えたというよりも、
頭が勝手に考えた、
反応した可能性が高いのではないでしょうか。
考えは自分の「子ども」のようなもの。
自分ではないものをコントロールすることは難しいです。
言ってみれば、「考え」というのは、
自分の子どものようなものかもしれません。
子どもの動きを自分でコントロールするなんてことはできませんよね。
子どもは勝手に動き回ります。
例えば、子どもと一緒に買い物にでかけたりすると、
目を離したすきにいなくなっていることがあります。
僕の弟はそんな子どもでした。
「目を離すとすぐにいなくなるんだから!」
とよく母親に言われていましたね。
迷子のアナウンスをされていたこともあります。
ちなみに、僕はそんなことはなく、
親の裾をグッと掴んでついていく子どもだったようです。
違う人を親だと勘違いして、
裾をグッと掴んでしまったことはありますが。。
良い悪いではなくて、
子どもの行動をコントロールすることはできないということです。
「考え」は自分ではなくて、
子どものようなものなのだとすると、
自分って一体どこにいるんでしょうか?
自分って一体どこにいるのか?
ここからが本題です。
自分は一体どこにいるのか?
「自分は自分でしょ?なに言ってるの?」
って思う人も多いと思います。
僕だってずっとそう思っていたんですから。
でも、「考え」が自分ではないと仮定すると、
自分は一体どこにいるのか、気になってきませんか?
体が自分だと言う人もいると思います。
でも、心臓はだれが動かしているんでしょうか?
呼吸は?
「腕は自分で自由に動かせるよ!」
という人もいると思います。
たしかにそうです。
腕は自分で自由に動かすことができます。
でも、腕を動かしてみようという「考え」って自分でしょうか?
体が自分だということを肯定するために、
頭の中に勝手にでてきた「考え」なんじゃないでしょうか。
体の5感。味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚は、
体が自分だと思わせるとても強い働きをします。
例えば、殴られたら痛いですよね。
「殴られて痛みを感じているこの体は自分だ!だって痛いもん!」
と思うのは当然とも思えます。
でも、殴られなかったらどうでしょうか?
痛みは感じません。
例えば、長時間正座をしていると、
足がマヒしたりしますよね。
マヒした足。
自分の足じゃないように感じたことはありませんか?
ということは、脳に伝わる刺激が、
体を自分のものだと思わせているだけとも言えます。
極端なことを言えば、すべての神経がマヒしたのなら、
体が自分だとは思えなくなるのではないでしょうか。
ただ、気づいている意識が自分。
そう考えていくと、
自分ってなかなか見つけられないんです。
「これが自分だ!」と確実に思えるものがなかなか見つかりません。
でも、自分ではないものを少しずつ取り除いていくと、
最後には自分にたどり着きます。
例えば、最初に1分間なにも考えないでみてくださいと言いました。
実際に、なにも考えないでいられたとします。
頭の中がカラッポ。
なにもありません。
でも、そこには本当になにもないのでしょうか?
残っているもの、ありますよね。
なにもないということに気づいている意識です。
その、気づいている意識というのが実は、
自分なんですね。
だって、なんの刺激がなくても、
ずっとそこに存在しています。
その意識を取り除いてみようとしてみてください。
難しいと思います。
だって、自分で自分を取り除こうとするようなものだからです。
自分で自分を取り除くことはできません。
その、ただ気づいているだけの意識が「空白」です。
「空白」でいることのメリット・デメリット。
空白についてお話してきましたが、
「空白でいることになんのメリットがあるのか?」
と思う人がほとんどなのではないでしょうか。
それはそうですよね。
なにも考えずに、ただ気づいている状態をつづけるだなんて、
なんか、つまんなそうですもんね。
退屈の極みっぽくも思えます。
どうなんでしょうか?
実は、大きなメリットがあります。
僕が思う最大のメリットは、
他人の承認を必要としなくなるところです。
人って、他人の評価を気にしながら生活するところがありますよね。
承認欲求というのは多かれ少なかれほとんどの人にあります。
子どもをみているとよく分かります。
「パパ!ママ!みてみて!私をみて〜!」ってセリフ。
よく聞くのではないでしょうか。
それが、空白でいると、
自分が自分の親になるような感じになります。
頭の中にでてくる「考え」というのは自分の子どものようなものと言いました。
つまりは、見てもらいたいんです。
承認してもらいたいんですね。
普通は、その欲求は外の世界に向かいます。
だれか他人に承認してもらいたいんです。
でも、空白の状態だと、その欲求を満たすのは自分自身になるんですね。
ただ気づいている意識が、
自分を満たしていくんです。
その結果、「寂しい」という感情がほとんどなくなります。
だって、常に自分と一緒にいるんですから。
そして、「仕事」にも集中しやすくなります。
だって、常に自分に見守られています。
そして、なにもないことに満足できるようになります。
刺激や贅沢を求めなくなったりします。
確かに、刺激や贅沢は楽しさは与えてくれるかもしれません。
でも、それが幸福かどうかというのは別問題なんですね。
そして、デメリット。あります。
空白を定着させるまでは、
ものすごい退屈を感じる可能性があります。
退屈は人を殺すとも言います。
人がもっとも避けたいもののひとつが退屈です。
退屈を避けるためならば苦しみの道を選ぶことすらあります。
ジブリの天空の城ラピュタを観たことってありますか?
ラピュタはものすごい積乱雲の中にありました。
普通はそんなところに突入なんてしたくありませんよね。
実は、空白にも同じようなことが言えて、
「空白」は「退屈」の中にあるとも言えます。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
「空白」にはいろいろな名前がある。
このブログでは、
ただ気づいている意識のことを「空白」と呼んでいますが、
世界ではいろいろな名前で呼ばれています。
代表的なのでは仏教の「空」です。
(関連記事:「空(くう)」の意味、ものすごく分かりやすく解説)
この「空」という言葉をそのまま使ってもよかったのですが、
なんとなく空の後ろに白をつけてしまいました。
宗教的な要素を省きたいからという意図もあります。
意味としては同じようなものです。
なにもないけど、すべてがあるという意味です。
そして「沈黙」。
沈黙という言葉も使われたりします。
頭の中になんの考えも浮かばない状態。
沈黙とも言えますね。
そして「真我」。
真の我ってことですね。
そして「至福」。
空白の状態は満たされた状態をともないます。
なので至福と呼ばれることもあるんですね。
そして「サット・チット・アーナンダ」。
サットというのは存在、チットは意識、アーナンダは至福と呼ばれています。
この3つは同じものという意味です。
(関連記事:サット・チット・アーナンダとは一体なんなんでしょうか?)
インドでよく使われています。
まとめ
というわけで、
空白についてお話してきました。
なかなか受け入れがたいお話でもあったと思います。
だって、体が自分じゃないってなかなか納得しにくいですもんね。
「考え」だって、普通は自分の意思で考えているって思いますよね。
でも、よ〜く観察してみると、
自分じゃないということが少しずつ分かってきたりします。
観察できるということ自体が、
自分じゃないという証拠でもあるかもしれません。
最近ではビジネスマンでも瞑想をする習慣を持つ人が増えてきています。
瞑想は、空白でいることを手助けしてくれます。
そして、それが仕事にもとても役に立つということが知られはじめてきているんですね。
僕の経験からいっても、
確かに仕事の役にたちます。
余計な考えに邪魔されなくなるので、
仕事にものすごく集中しやすくなるんですね。
ただ、仕事でどれだけ結果をだしても、
必ず飽きます。これは絶対です。
飽きるとどうなるか?
「もっと上を!」となってしまうんですね。
それが今の世界です。
また飽きてしまうのに。
実のところ、空白は活用するようなものではなく、
ゴールそのものなんです。
(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?)