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特選10記事 苦しみ 退屈

苦しみと退屈を避けないこと

このブログに、なにかひとつの主張があるのだとすれば、これです。

「苦しみと退屈を避けないこと」です。

もちろん、多くの人が、これを避けたがるというのもわかります。

むしろ、「避けて当然でしょ」って思うんじゃないでしょうか?

むしろ、「避けるための方法論を教えるべきなんじゃないの?」って思うかもしれません。

でも、あいにく、僕は、一生、苦しみと退屈を避け続けることができる、方法論を知りません。

そして、矛盾するように感じるかもしれませんが、苦しみと退屈を避けないことによって、苦しみと退屈を避けることができるんです。

苦しみと退屈には、飽きることができる

苦しみと退屈を、避けないことを勧める理由は、苦しみと退屈には、飽きることができるからです。

「飽きる」っていう感覚、おそらく、すべての人が知っているはずです。

動物だって、「飽きる」という感覚を、知っているように思えます。

例えば、犬とか猫。

おもちゃに、飽きますよね?

「新しいおもちゃを与えたときには、あんなに興奮していたのに、今では反応もしない。。」というのは、犬猫の飼い主アルアルなんじゃないでしょうか?

そう考えると、「飽きる」という現象は、生きるものすべてに備わった、ひとつの機能性とも言えるんじゃないでしょうか?

多くの場合、「飽きる」という言葉に対する主語には、「楽しさ」が使われます。

「楽しいことに飽きる」とかですね。

でも、必ずしも、楽しさに限らないということは、多くの人が経験しているんじゃないでしょうか?

例えば、過去の嫌な記憶に対して、飽きてしまったことはないでしょうか?

あんなにも、自分を悩ませていた、過去の記憶に対して、今は、なにも感じないということ、ないでしょうか?

それはつまり、飽きてしまったということです。

「時間が解決してくれた」と思うかもしれませんが、現象としては、「飽きる」という現象と同じです。

時間をかけて、飽きてしまったんです。

であるなら、「苦しみ」や「退屈」といったものにも、飽きることができるんじゃないでしょうか?

実際のところ、飽きることができます。

でも、わざわざ、探す必要はありません

でも、だからといって、わざわざ、「苦しみ」や「退屈」を探す必要はありません。

これは、探求の世界に限らないと思いますが、世の中には、自分自身を知るために、自分が、どんな認識や思い込みを持っているのかを、書き出すというワークがあったりします。

僕も、自己啓発セミナーなんかで、それをやったことがあります。

僕が、真理の探求を始める前、理想の追求をしていた時の話ですが。

もちろん、そうしたいなら、そうすればいいのですが、必ずしも、そうする必要はないんです。

というのも、その行為自体が、苦しみや退屈を避けようとするものだからです。

むしろ、そこには、「苦しみを征服してやろう」というような、野望めいた意図があるんじゃないでしょうか?

「苦しみの原因を洗い出して、一網打尽にしよう」というような、野望めいた意図があるんじゃないでしょうか?

そんなことは、しなくてもいいんです。

というのも、ある意味では、苦しみというのは、あちらの方から、勝手に、ノコノコとこちらにやってくるからです。

呼んでもないのに、勝手にやってきます。

そこを捕まえればいいんです。

そして、飽きるまで、その苦しみを味わってみればいいんです。

苦しみの味わい方は、こちらの記事「苦しみに飽きるための感じ方」が参考になります。

あなたは、ボコボコにされます。

でも、ボコボコにされ続けることで、あなたは勝利します。

その苦しみに、飽きてしまうからです。

苦しみが和らぐとか、そういったレベルではないです。

苦しみに飽きてしまうことは、もっと、根本的なものです。

「飽きる」という感覚を知っているのなら、理解できるんじゃないでしょうか?

それは、「興味がなくなる」に近いものがあります。

苦しみの原因となっていたものに、興味がなくなってしまうんです。

飽きてしまったものに、再び、興味を持つことは、至難の業なんじゃないでしょうか?

であるなら、苦しむことに飽きたなら、再び、苦しむことも、至難の業なんじゃないでしょうか?

「楽しさ」と「喜び」も避けないこと

「「苦しみ」と「退屈」を避けないこと」と言うと、「じゃあ、「楽しさ」とか「喜び」といったものは、避けたほうがいいのかな?」と思う人もいるかもしれません。

そんなことはありません。

むしろ、それは誤解です。

「楽しさ」とか「喜び」といったものも、避けないことです。

でも、そんなことを言わなくても、ほとんどの人は、楽しさとか喜びといったものは避けないですよね。

楽しめるのであれば、楽しめばいいんです。

言ってみれば、やってくる、すべての感情を避けないことです。

このブログは、「苦しみ」とか「退屈」にフォーカスすることが多いです。

なので、楽しむことは避けたほうがいいのかなと思う人がいても、不思議じゃありません。

でも、僕は、楽しむことも、推奨します。

僕だって、映画を観たり、今はコロナであれですが、旅行だってしますし。

ただ、「楽しまなければならない」という考えは、持たないようにしてください。

無理に楽しもうとすることは、反対に、苦しみを生み出します。

例えば、退屈を避けるために、大して興味も持てないことをすることは、苦しみじゃないでしょうか?

そういう人は、少なくないんじゃないかと、僕は思っています。

僕も、身に覚えがあります。

八方塞がりなんです。

特にやりたいこともないけれども、退屈するのも嫌だなあという状態。

であるのなら、退屈すればいいんです。

(関連記事:「退屈を避けない」って一体どういうことなのか?

その、八方塞がりの状態の、突破口は、「退屈」の中にあります。

解放感は、常に、ここにあります

「退屈」に飽きることを、想像できないという人は、少なくないと思います。

退屈には、原因がありません。

感情には、原因がありますよね。

良い出来事が起こると、楽しいとか嬉しいという感情が起こります。

反対に、悪い出来事が起こると、怒りとか悲しいという感情が起こります。

でも、退屈には、そういった原因がありません。

にも関わらず、感情的なエネルギーはあります。

なんとなく、重っ苦しいなにかを、胸に感じるんじゃないでしょうか?

それは、ニュートラルな感情エネルギーとも言えるかもしれません。

何色にも染まってない、感情エネルギーです。

それが、世界に反応すると、色んな感情として、感じられるわけです。

「苦しみ」に飽きるというのは、その感情エネルギーから、「苦しみ」の色が抜けるという感じかもしれません。

であるなら、「退屈」に飽きるって、どういうことでしょうか?

もしかして、感情エネルギーが、消えるんでしょうか?

実は、そうなんです。

胸に感じている、重っ苦しいなにかが、消えます。

もちろん、生きている限り、永久的にというわけじゃないのですが、胸が軽くなります。

そこには、解放感があります。

そして、すべての人は、この解放感を知っています。

それは、特別な何かじゃありません。

既知のものです。

それは、まさしく、何かから解放されたときに感じるものです。

多くの人は、解放感というのは、世界の状態と関係していて、それは、感情のひとつだと思っているはずです。

当然、僕も、そう思っていました。

でも、それは、勘違いなんです。

解放感は、常に、ここにあります。

解放感というのは、無感情のことです。

多くの人は、無感情というのは、なにか、嫌な感情だと認識するんじゃないでしょうか?

それは、まさしく、感情です。

多くの人にとっての、無感情というのは、ニュートラルな感情エネルギーのことです。

それは、退屈のことです。

でも、本当の意味で、無感情になるなら、ここには、解放感があります。

真理を教える人の中には、真理を理解した上で、世界を楽しめばいいという人がいると思います。

結構、そう言う人は、多いと思います。

でも、それは両立しないんです。

世界に楽しさを求めるなら、この解放感は、感情エネルギーによってフタをされてしまうからです。

解放感は、失われたかのように感じられるでしょう。

本当の意味で、この解放感の正体を知っているのなら、これを失ってまで、楽しさを追い求めたりはできないはずです。

でも、だからといって、「楽しんではいけない」というわけじゃないんです。

真理を理解するならば、人は、解放感を好むようになります。

でも、感情が無くなるわけじゃありません。

生きている限り、世界に対しての、感情的な反応は起こり続けます。

場合によっては、楽しいという感情が起こります。

であるなら、その感情を、楽しめばいいんです。

そして、場合によっては、苦しいという感情が起こります。

その時は、苦しめばいいんです。

ただ、それらの感情は、一時的なものです。

でも、解放感は、常に、ここにあります。

(関連記事:探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する

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