カテゴリー
苦しみ

苦しみとは理想と現実のギャップ【3つの解決法】

苦しみとは、理想と現実のギャップです。今まで苦しんできたことの原因を探ってみれば、そこには、理想と現実のギャップがあったことに気がつくんじゃないでしょうか? もちろん、先が見えないことの不安など、苦しみの原因が、まだ、明確に分からない場合もあります。でも、そういった苦しみも、その原因が明確になる時、それは理想と現実のギャップだったのだと理解することになったりします(根源的には、「死にたくない」などの理想が苦しみの原因になっていることが多いですが)。なので、苦しみに対する解決法というのはとてもシンプルで、3つに分けることができます。

※今回は6500文字ほどの長文です。

【1】理想を実現する

最もシンプルで、直球で、好まれる方法は、「理想を実現する」ことだと思います。苦しみとは、理想と現実のギャップであるならば、そのギャップを埋めてあげればいいわけです。もし、現実が、理想通りになるならば、苦しみを感じることもありません。

例えば、料理が上手く作れないことに悩んでいる人がいたなら、料理教室に通ったり、YouTube動画を見てマネたりして、料理が上手に作れるようになれば、その悩みは消えます。理想の実現です。苦しみといっても、その強度には様々なものがあり、それこそ、料理が上手く作れないことに悩むといったものもあれば、世界一周したいけれども、忙しくてとか、経済的に行けないジレンマとか、日常生活における、自分自身のちょっとしたクセにイライラすることがある、というような苦しみもあると思います。そういったものであれば、ちょっと頑張れば、改善できたり、実現できたりもします。

でも、その一方で、他人の気持ちをコントロールしたいとか、何かしらの分野で、ナンバーワンになりたいという方向性の理想を持つ場合、その実現が難しいこともあります。

例えば、メジャーリーグでの大谷翔平の活躍を見て、そのことに憧れる少年はたくさんいると思います。でも、そういった少年の中から、大谷翔平みたいになれる選手が現れる可能性はというと、相当に低い確率になるのではないかと思います。極端なことを言えば、80億分の1を目指すようなものなので、宝くじにあたる確率よりも低いわけです(年末ジャンボ宝くじの1等で2000万分の1ぐらいだそう)。地元の高校ではナンバーワンの野球選手であっても、全国に出るとまったく注目されないということもあるでしょうし、それがメジャーリーグも含めたものになると、それこそ、80億分の1握りの人だけしか、その理想を実現することはできません。

そして、他人をコントロールしたいという理想を持つ場合、基本的にそれは実現不可能な理想なので、苦しむことになることも多いんじゃないかと思います。自分自身ですら、コントロールすることは難しいんじゃないでしょうか。とはいえ、この社会では、他人(や自分)をコントロールできているように感じられることもあります。例えば、現代社会は資本主義なので、お金を使って、他人をコントロールできると感じられる人もいるんじゃないかと思います。多くの人が、お金を求める根本的な理由は、お金があると、コントロールできるように感じられる対象が増えるからなんじゃないでしょうか。物をお金で買うというのも、所有権のコントロールです。そしてまた、言葉巧みに、他人の考え方を変えることができると感じている人もいるかもしれません。確かに、話すことによって、考え方が変わるということはあります。それが得意な人もいると思います。

現代社会においては、夢や理想を持つことは推奨され、そのための競争があちらこちらで見られるんじゃないかと思います。もちろん、夢や理想を追い求めることは、高揚感を伴います。その高揚感とは、理想を実現するための、精神的なエネルギーみたいなものです。中には、その高揚感が好きで、夢や理想を抱くという人もいるんじゃないかと思います。でも、実際に目的地(理想)にまで辿り着く人は限られていたりします。目的地に辿り着けば、人はその理想から解放されることになりますが、目的地に辿り着けずに迷子になるなら、ずっと、その理想に束縛されることになりがちです。言ってみれば、夢や理想を抱くばっかりで、その理想が実現されない状態が続くということは、便秘になって苦しむような状態に近いんです。もし、便秘が続くなら、食べることを一時的にストップするべきなのですが、苦しみを解決する方法は、理想を実現するしかないと思いこんでいる場合、便秘なのに、さらに食べようとする傾向があるかもしれません。その場合、強迫観念にとらわれたり、躁鬱状態になってしまう人も少なくないように思います。

もちろん、食べたなら、食べた分だけ排泄(理想を実現)できる自信があるなら、理想を追い求めるのがいいと思います。僕は、空白JPでは理想を追い求めることをあまり推奨していませんが、理想を実現する自信がある人に対しては、その方向性で進んでいくことを推奨します。僕自身、10年ほど前は、理想を追い求めていたのであり、当時の僕に、「理想を実現したって満足しないよ」と言っても余計なお世話でしょう。聞く耳を持たなかったであろうし、それでいいんです。実現不可能な理想にとらわれるまでは、そのことを問題視することはないはずです。

【2】理想を断食する

現代社会は、夢や理想を追い求めることが推奨される一方で、その弊害も当然、認識されてきているのではないかと思います。特に、情報化によって世界中の人が繋がってしまい、ナンバーワンになることの難易度が飛躍的に上がってしまったのではないかと思います。大昔であれば、150人の村の中でナンバーワンになるだけで満足できたかもしれないのに、現代においては80億人の中でナンバーワンを目指さなければいけません。上には上がいることを認識しやすい時代です。

もし、理想を実現しなければ、人は満足することができないというのであれば、現代社会において、満足することができる人はほんの一握りです。もしくは、相対的に他者よりも上位にいなければいけないと思うでしょう(何をもって上位というのかという問題もありますが)。

でも、実際のところ、理想を実現したように思える人であっても、本当に満足することはないようにも見えます。例えば、起業家が成功して、数千億円の資産を得たとしても、虚しさや孤独に苛まれるということはよくある話です。結局のところ、理想は実現してしまえば、それは当たり前のことになります。理想を目指している時の高揚感は消え、何もしなくても良い状態になります。本当のところは、人は理想が実現された状態を求めているわけではなく、理想に向かっている状態を求めているというようなところがあります。別に、何もしなくても良い状態を求めているわけじゃないんです。なので、理想を実現することで、苦しみを避けようとする方向性に向かう場合、そこにゴールはありません。死ぬまで理想に向かう必要があり、死を避けることができないという苦しみに、最終的には向き合うことになるように思えます。

理想を実現したって満足しないとか、結局、死を避けられないという問題は、別に今に始まったことではなくて、昔からあったものだと思います。そういった人に対して提案されてきた解決法は、「理想を脇に置いて、今に集中する」というものでしょう。

それは例えば、瞑想、坐禅、祈り、ヨガ、マントラ、といった行為の実践です。多くの宗教でも、こういった行為の実践は取り入れられていますよね。これらの行為を実践するためには、「どうやって理想を実現しようか?」と考える必要はなく、ただ単に、呼吸に意識を向けたり、身体に意識を向けたり、何かしらの声をだしてみたり、何らかの対象をイメージしてみたり、ともすれば、未来志向だったり、過去志向だったりするマインドを、今この瞬間にとどめる努力をするわけです。

人によっては、「そんなことを実践することに何の意味があるのか?」と思うかもしれませんが、理想を追い求めることに多少なりの疑問を持つようになった人は、こういった方向性に興味を持つようになるかもしれません。こういった実践は、言ってみれば、理想の断食として機能します。物理的な食べ物であれば、人は、「食べすぎて気持ち悪い……」とか、「お腹空いた……」とか、どういった状態が適切なのかということを感じやすいのですが、理想を追い求めることによって満たされたいと思う場合、何が適切な状態なのかということが感じられにくいです。ともすれば、際限なく追い求めることができるようにも感じられます。物理的な限界というものがないので、そうなりがちです。そして、理想が消化不良になって排泄されずに(実現されずに)いると、苦しみとして感じられることになったりします。

「食べすぎて気持ち悪い……」という人に、さらに食べることを勧める人はいないと思います。「気持ち悪いなら、もうそれ以上は食べないほうがいいよ」と言うのが普通でしょう。精神的な苦しみにも同じようなことが言えるのですが、理想を抱くことには、高揚感が生じるので、一種の麻薬のように機能して、さらに理想を追い求めるということが起こりがちです。苦しみを感じると、無自覚に何かしらの理想(夢中になれる何か)を追い求めてしまうという人も少なくないように思います。

競争が激しい現代において、非競争的な瞑想などの方法は注目されることもあると思います。マインドフルネスなどの現代的な手法が紹介されることもあります。ただ、その一方で、実践した人の中には、「瞑想することには意味がなかった」とか、「瞑想することに飽きてしまった」といった感想を持つ人も少なくないのではないかと思います。もし、瞑想などを実践することによって、何かが得られるんじゃないかという理想を持ってしまうなら、そうなるのは当然とも言えます。瞑想というのは、良くも悪くも、その語源通り、死んだように静かにしていられるようになるためのトレーニングなのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

それは例えるなら、便秘の状態で、食べることをやめてみたというようなものです。それで便秘は治るでしょうか? もしそう思うのなら、そこには大きな考え方の飛躍があるでしょう。普通に考えて、便秘の状態で、食べることをやめてみたとしても、便秘の状態は残ります。排泄しなければならないという問題はそのまま残るんです。瞑想などにまつわる話には、この考え方がすっぽりと抜け落ちているようなところがあります。瞑想を実践すると、神秘的なことが起きて、便秘そのものも解消されると考えられたりします(神秘的なことが起こることがあるがゆえに、そっちが瞑想の目的になりがちでもあります)。でも、そんなことはないんです。むしろ、瞑想というのは、便秘の状態をきちんと認識できるようになるための、下準備なのだと言うこともできます。

もちろん、苦しみを避けたいがゆえに瞑想を実践しているのに、苦しみを感じるだなんて矛盾しています。なので、そう感じる場合には、早かれ遅かれ、瞑想を実践することをやめて、また、理想を追い求めることになるんじゃないかと思います。世界には多様性があり、何か夢中になれることを見つけることができるかもしれません。もしくは、無理やりにでも何かに夢中になろうとする人もいるでしょう。「人生とは何かに夢中になっては飽きての繰り返しだ」、そう達観する人もいるかもしれません。僕も一時期はそう思っていました。理想を追い求めて、疲れた時に瞑想などを実践するということを、ひとつのサイクルにしてしまう人もいるかもしれません。そのサイクルを、「探求には終わりがない」と表現する人もいるかもしれません。でも、人生には終わりがあるようです。

【3】理想を排泄する

人生における大きな錯覚のひとつは、なにごとにも原因がなければならないという考え方です。確かに、物質的な世界には、すべてに原因があるようにも思えます。科学はその原因を究明していくことによって発展していって、現代人はその恩恵を受けているんじゃないかと思います。

なので、苦しみにも原因があって、その因果関係を解明することができれば、苦しみを無くすことができると考える人も多いかもしれません。でも、実際のところ、苦しみの原因(例えば、過去の特定の記憶)が分かったとしても、その苦しみに対する対処方法は、現代科学をもってしても、「RUN(逃げろ)」の一択であるように思えます。

「RUN(逃げろ)」という言葉は、映画マトリックスの中で、サイファーがネオに対して言う言葉です。エージェント・スミス(苦しみ)に出会ったなら、絶対に勝つことはできないのだから、なにがなんでも逃げろという意味合いで使われています。実際のところ、多くの人は、このサイファーの言葉に従っているんじゃないでしょうか。理想を追い求める(夢中になれる何かを探す)のもそうだし、苦しみを避けることができると思って瞑想などに興味を持つのもそうです。

映画マトリックスの中では、エージェント・スミスに戦いを挑んだネオは、〝HEART(ハート)〟という看板が掲げられたビルの中で、エージェント・スミスに心臓を撃ち抜かれ絶命してしまいます。多くの人が苦しみを避けようとするのは、こういった結末を予期してしまうからなんじゃないでしょうか。でも、不思議なことに、その後すぐに、ネオは救世主として復活し、エージェント・スミスを圧倒してしまいます。エージェント・スミスが放つ弾丸は、ネオの前で静止し、ネオは、その止まった弾丸を指でつまんで、まじまじと観察することすらできるようになります。もはや、ネオは、エージェント・スミスが放つ弾丸を避ける必要がないんです。そうなると、エージェント・スミスの方が逃げ去るしかありません。

映画の演出上、ネオが救世主として復活した原因は、トリニティの口づけにあるようにも思えますが、実際のところ、こういったことは原因なく起こっているように思えます。昔は苦しんでいたけど、今はどうでもよくなった記憶というのは、誰しもが、ひとつやふたつは持っているのではないかと思います。その記憶を思い出したとしても、何の苦しみも感じないでしょう。それはどういうことなのかといえば、苦しみという名の弾丸を指でつまんで、まじまじと観察できているということです。

それは奇跡でしょうか? それは自然と起こる自然現象なんじゃないでしょうか? 僕が思うに、それはあらゆる苦しみに対して適用される現象です(最終的には、死の恐怖ですら)。それはまるで、口から食べたものは、自由意志に関係なく、胃や腸で消化されて、自然と排泄されるという自然現象に近いです。もし、便秘になったのなら、せいぜい自由意志にできることは、それ以上食べることをやめて、自然と排泄されるのを待つということだけです(それでも、便秘薬を飲むなどの原因を作りたがるのが自由意志ですが)。それは、精神的な苦しみに対しても同じことが言えるように、僕には思えます。そして、苦しみが排泄されると同時に、理想も排泄されているということに気がつくかもしれません。

というわけで、苦しみに対する3つの解決法についてお話しました。どの方法が正しいとか間違っているということはないと思います。空白JPは本気の探求者向けなので、どちらかというと3つめの方法を推奨することが多いですが、不特定多数に向けたブログという特性上、そうではない人が空白JPを読むこともあると思います。その時、まるで、1つめと2つめの方法が否定されているように思われるかもしれませんが、そんなことはなく、その時々のタイミングによって、おそらくは適切な方法は違います。ただ、世間的に見れば、3つめの方法がまるで無いことのようになっていることが多いように思います。1つめと2つめの方法の間で袋小路のように感じている人もいるかもしれません。そういった人は、3つめの(最も簡単でいて難しく、伝統的でいて根源的な)方法を試してみるのもいいかもしれません。

(関連記事:OSHOの名言【退屈から逃れる道はない】