今回はOSHOの名言を、独断と偏見でピックアップしてみたいと思います。
「退屈から逃れる道はない」という言葉です。
OSHOのJOYという本の中にでてきます。
OSHOに詳しい人であれば、「他にも名言があるでしょ」と思う人もいるかもしれません。
OSHOはかなりの著書を残しているようで、他にも名言はたくさんあると思います。
でも、僕自身が退屈という言葉を多用しているということもあり、今回はこの「退屈から逃れる道はない」というOSHOの言葉についてお話してみたいと思います。
「退屈」という言葉を使う覚者は少ない
僕が知る限り、「退屈」という言葉を頻繁に使う覚者はとても少ないように思います。
少なくとも、退屈という言葉をメインテーマに据えている人はいないでしょう。
ラマナ・マハルシだって、ニサルガダッタ・マハラジだって、「退屈」という言葉はあまり使っていません。
実のところ、OSHOだって「退屈」という言葉を積極的には使っていません。
でも、JOYの中で、退屈について探求者から問われている部分があり、その問いについてOSHOが詳しく答えています。
こんな問いです。
私は行き詰まっています。私は自分がすることはすべて意味のない馬鹿げたことだと思うと、退屈でイライラしてしまうだけです。退屈とは一体何なのでしょうか?
この問いについて、OSHOはこう答えています。
退屈は人間の生の中でもっとも重要なことだ。人間だけが退屈できる。人間以外の動物は退屈できないのだ。退屈はマインドが覚醒にどんどん近くなり始めたときにだけ起こるものだ。退屈は覚醒の対極に位置している。動物は覚醒することができないので、だから彼らは退屈することもない。退屈はあなたが人生のむなしさに気づいたことを示しているだけだ。人生はいつも繰り返しだということにだ。あなたはすべてのことをすでに行ってきた―何も起こらない。あなたはすべての旅行をすでにしてきた―そこからは何も生まれてこない。退屈するということは、人生や生き方に関するむなしさや無意味さについて、大いなる理解があなたの中に生じつつある最初の兆しなのだ。
多くの人は無意識に退屈を避けています。
「それって退屈を避けようとしているんだよね?」と指摘してみたとしても自覚できないほどに無意識に退屈を避けている人も少なくないかもしれません。
何かに興味があるうちはそれでいいんです。
「楽しいことがたくさんあるのに、わざわざ退屈するなんて馬鹿なんじゃないの?」とすら思うかもしれません。
でも、人生はいつも繰り返しだということに気づいてしまった人は、退屈を避けることが難しくなってきます。
20年後には、月への旅行が現実のものになると言われています。
でも、旅行そのものに飽きてしまった人は「いやいや、目的地の問題じゃなくて旅行そのものに飽きてしまったんだよ」と思うでしょう。
人生の繰り返しのパターンに否応なく気づいてしまっているんです。
人生のむなしさ、無意味さに気づいてしまっているんです。
OSHOが「退屈から逃れる道は無い」というのはそういった人に向けてです。
OSHOはまたこうも言っています。
退屈とは偉大なスピリチュアルな現象だ。だから、野生の牛は退屈しないのだ。彼らは完全に幸せで楽しんでいる。人間だけが退屈する。人間の中でも、とても才能があり、知的な人間だけが退屈する。馬鹿な人々は退屈しない。彼らは完全に幸せで仕事をしたり、お金を稼いだり、大きな預金残高を作ったり、子供を育てたり、再生産したり、食べたり、映画に行ったり、レストランに行ったり、あれやこれやに参加したりしている。彼らは楽しんでいるのだ! 彼らは退屈なんかしていない。彼らは最低のタイプだ。彼らは野生の牛の世界に属している。彼らはまだ人間ではないのだ。人は退屈を感じ始めた時、初めて人間になる。あなたにはわかるだろう。最高に頭の良い子供がもっとも退屈した子供になる―なぜならば、どんなものも彼の興味をそれほど長くひきつけることができないからだ。遅かれ早かれ、彼は現実につまづいて、「今度は何? 次は何? これはもう終わった。このおもちゃにはもう飽きた。それはもう見た。それはもう開けた。それはもう分析した。もう終わった。次は何?」彼が若者になる頃には、彼はすでに退屈している。
OSHO節が炸裂しています。
OSHOは知的な人だけが退屈して、馬鹿な人は退屈しないと言いますが、僕は必ずしもそうは思いません。
社会的には知的な人であっても、貪欲が強すぎて退屈することがない人もいるのではないかと思います。
そういった人は屈強な野生の牛です。
この社会では、退屈するということは不幸なことだと思われているのではないかと思います。
多くの人が、まるで宗教であるかのように「経済を回さなければならない」「経済成長しなければならない」と言ったりします。
社会的には知的な人ほどそう言うかもしれません。
そうすることが、人々の幸福につながると信じているのかもしれません。
でも、衣食住がほぼ満たされている現代においては、これ以上経済成長する必要性はそれほどないようにも思えます。
人は、経済成長することに何を求めているんでしょうか?
そしてまた、それは経済成長だけに限りません。
霊的成長だって同じです。
人には必要最低限の霊的能力がすでに備わっています(自分の思考や感情には気づけますよね)。
人は、霊的能力を成長させることに何を求めているんでしょうか?
実のところ、その根底には退屈への恐れがあるんです。
退屈に正面から向かうことが瞑想だ
僕はOSHOというのは日本人なのかと思っていました。
でも、OSHOはインド人なのであって、バグワン・シュリ・ラジニーシという名前で活動していた時期が長いようです。
晩年にOSHOという名前に改名したんですね。
なぜ改名したのかといえば、OSHOが禅を重要視していたことが関係しているのかもしれません。
OSHOは瞑想と退屈についてこう語っています。
瞑想とは正確にはなんだろうか? 退屈に正面から向かうことが瞑想だ。瞑想者は何をし続けているのだろうか? 黙って座り、自分のへそを見つめる、あるいは呼吸を観察する、彼はこうしたことを楽しんでいると思うかね? 彼はまったく退屈している! 禅のマスターが手に棒切れを持って歩き回っているのはそのためだ―なぜならば、こうした退屈した人々は居眠りをしてしまうからだ。他の逃げ道は何もない、たった一つの逃げ道が残されているだけだ。少なくとも彼らは眠ることができる。彼らは逃げられない。しかし、いつも一つの逃げ道がある。眠ることができ、そしてあなたはすべてを忘れる。だから、瞑想中に人は眠くなるのだ。瞑想の努力はこれだけだ。退屈しなさい、でもそこから逃げるなということだ。注意をおこたるな、なぜなら、眠ってしまったら、逃げたことになるからだ。注意し続けよ! それを観察せよ、それを目撃せよ。もしそれがそこにあれば、それはそこにある。それをよく見なければいけない、その中心まで見るのだ。もし、あなたが逃げずに退屈を見つめ続ければ、爆発が起こる。ある日、退屈の中を深く見ていると、突然に、あなたは自分自身の無の中を刺し貫く。退屈はただの覆いにすぎず、入れ物の中にはあなたの内なる無が詰まっている。もし、あなたが退屈から逃げるならば、あなたは自分自身の無から逃げているのだ。もしあなたが退屈から逃げなければ、もしあなたが退屈と共に生き始めれば、もしあなたが退屈を歓迎し、受け入れ始めれば……それこそが瞑想である。退屈を歓迎し、自分から進んで退屈の中に入り、退屈がやってくるのを待つのではなく、退屈を探求するのだ。
「爆発が起こる」という表現はちょっと誤解を生みそうではありますが、「退屈はただの覆いにすぎない」というのはまったくその通りです。
退屈から逃げずにいるならば、退屈という覆いは取り除かれます。
楽しいという感情だってある意味では覆いであり、それは知らぬ間に取り除かれてしまいますよね。
楽しいことに飽きてしまったということです。
それは、ほぼすべての人が経験していますよね。
退屈だって同じです。
爆発は起こりません。
ただ、気がつけば退屈という覆いが取り除かれます。
その後には何が残るのか?
それを確認するのが瞑想の目的とも言えます。
OSHOはこうも語っています。
退屈に直面するには大きな勇気がいる。それはほとんど死ぬほどだ。実際のところ、死ぬよりもむつかしい。なぜならば、死はあなたが無意識になるときにやってくるからだ。そしてあなたはあらゆる種類の退屈を引き起こす。何が起こるのか? これがあらゆる瞑想の秘密だ。もし、あなたが観察し、観察し、観察し続けると、退屈はどんどん大きくなり、どんどん強烈になり、そしてピークに達する。永遠に続くものはない―車輪が向きを変える時がやってくる。もしあなたが極限まで行くと、最高地点まで行くと、そのとき、変化、変容、―覚醒、悟り、あなたがそれを何と呼んでもいいが、それが起こる。ある日、突然、退屈があまりにも大きくなる。あなたは息が詰まりそうになる。それによってあなたはほとんど死にそうになる。あなたは退屈の海に囲まれてしまう。あなたはそれに圧倒される。そして、逃れる方法がないように思える。退屈の強烈さと大きさが頂点に達したとき、車輪が反転する。突然、退屈が消える、そして、そこには悟りと三昧が現れる。あなたは無の状態に入る。そのとき、もう退屈はどこにもない。あなたは生の究極の無を見たのだ。あなたが消えたのだ―誰が退屈するのだろうか? 何に退屈するのだろうか? あなたはもう存在しない。あなたは消滅している。
退屈が消え、その後に残るものに気づくことを、禅では見性(けんしょう)と呼ぶのではないかと思います。
これは、悟りの3つの側面のうちの1つを悟った状態です。
(関連記事:サット・チット・アーナンダをわかりやすく解説)
OSHOのこの言葉を聞くと、見性が究極の悟りであるかのように感じるかもしれませんが、そうでもないんです。
ただ、見性することはとても重要なことだと思います。
見性するということは、別の言葉で言うならば、「私は在る」ということを理解することです。
(関連記事:「私は在る」という感覚をインスタントに悟る方法)
例えば、ニサルガダッタ・マハラジは、「「私は在る」という感覚にしがみつきなさい」と言ったりします。
OSHOはここでは見性することが悟りであると言っていますが、ニサルガダッタ・マハラジにとっては、それはあくまでも前提条件でしかありません。
実際のところ、瞑想することで見性したとしても、それは日常生活の中では持続しないでしょう。
見性したその時、あなたは存在していないかもしれません。
でも、瞑想が終われば、いとも簡単に「私(意志)」は現れるでしょう。
そこには物理学で言う慣性の法則のようなものが働いています。
例えば、車のアクセルを踏み込むことを止めても、車はしばらくの間は走り続けますよね。
「私」は走り続けたいと思っている存在です。
しばらくの間だけアクセルを踏むことを止めて、「私は存在しない」ということに気づく(そのフリをする)ことはできます。
でも、車が止まるまで待つことができる人は稀かもしれません。
ニサルガダッタ・マハラジが「「私は在る」という感覚にしがみつきなさい」と言うのは、つまりは車が止まるまでアクセルを踏むなと言っているんです。
ここでは、OSHOはそこまでは言っていません。
覚者と呼ばれる人達の中でも、この認識には違いがあることが多いです。
車が完全に止まるまでは、世界の実在性が崩壊することはないでしょう。
魂の存在も信じ続けるかもしれません。
記憶を現実だと錯覚し続けます。
OSHOはなかなかスキャンダラスな人物で、その教え自体が疑われることも少なくないと思います。
僕自身、「ちょっと大げさな表現だなあ」とか「そんなこと確認することはできないのに」と思うことも少なくはありません。
確信犯的に話をでっち上げてしまっていることも少なくないのではないかと思います。
でも、OSHOは、車が完全に止まってしまった覚者のうちの1人かもしれません。
退屈から逃れる道はない、それならば退屈の中に入ってゆきなさい
最後に、「退屈とは一体何なのでしょうか?」という問いに対するOSHOの締めくくりを引用して終わりにしたいと思います。
なんでも、やってみなさい―最後にはあなたは飽きてしまう。どんな行動も退屈をもたらす。頭の良い人はそれが分かっている。あなたがそれを早く分かれば分かるほど、あなたは頭がいいということを証明しているのだ。では、あとに残るものは何だろう? 退屈だけが残る。だから人は退屈について瞑想しなければならない。退屈から逃れる道はない。それならば退屈の中に入ってゆきなさい。それがどこに導いていってくれるか見なさい。そして、あなたが退屈の中に入りこみ続けると、それが覚醒へと導いてゆく。
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