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アートマンとブラフマンを巡る4つの思想パターン feat.ブッダ

今回は、アートマンとブラフマンを巡る4つの思想パターンについて考察したいと思います。feat.ブッダです。真理の探求において、アートマンとブラフマンの関係性というのは、切っても切り離せないというか、2500年以上前のヴェーダの時代から、その関係性は関心の的です。アートマンというのは、個人の主体とみなされる存在なのであり、ブラフマンというのは、宇宙の主体とみなされる存在です。世間一般的には、アートマンとして、ブラフマンに合一することが悟りなのであり、梵我一如なのであるとみなされることも多いのではないかと思います。なので、ここでも、まずは、アートマンとして、ブラフマンに合一するという考え方から考察していこうと思います。

※今回は11000文字ほどの長文です。そして、少し難解かもしれません。

【1】アートマンもブラフマンも実在する

アートマンとして、ブラフマンに合一するという考え方では、アートマンもブラフマンも、どちらも実在しているということが前提です。この考え方は、現代では、サーンキヤ哲学として残っていると思います(他にもこういった考え方をするところは少なくないと思いますが)。現代でも、アートマンとして、ブラフマンに合一するという目標を持っている人は、意外にいるのではないでしょうか? 基本的に、ヨガはその方向性なのではないかと思います。

ただ、この方向性の問題点は、歴史上、アートマンとして、ブラフマンに合一した人というのは現れていないという点です。つまりは、アートマンは、ブラフマンと合一できると理屈上は想定されているのだけれども、実際問題、それを実現した人というのはいないんです。それは、現代にはいないというレベルの話ではなくて、歴史上、ひとりも現れていないはずです。

意外に見落とされがちだと思いますが、ゴータマ・ブッダも、アートマンとして、ブラフマンに合一するという目標を持って、苦行を実践したはずです。当然のことながら、ブッダが探求していた頃には、仏教というものはなく、ブッダはどんな教えを実践したのかといえば、おそらくはヴェーダの教えでしょう。ヴェーダの教えの基本は、「行為の止滅」です。行為の止滅を通して、梵我一如を実現することができ、輪廻からの解脱を達成できる、というのが、ヴェーダの基本的な考え方です。その「行為の止滅」という言葉を額面通りに受け取るなら、それは、ただ、ひたすら何もせずに坐るという只管打坐の実践にも繋がります。ブッダの場合には、生命維持の行為すら止滅しようとして、断食まで行っていたんでしょう。

でも、ご存知の通り、ブッダは、「行為の止滅」という苦行を途中で断念して諦めています。この時、ブッダが何を諦めたのかということは、あまり明確にされていないと思いますが、アートマンとして、ブラフマンに合一するという目標を諦めたと考えるのが、おそらくは、当時の時代背景を考えると、もっとも筋が通る考え方なのではないかと思います。

ブッダは、2〜3人の師についたと言われていますが、それは、アートマンとは何かを知るための過程だったんじゃないかと思います。ブッダは、おそらくは、瞑想を実践することによって、思考を停止するということは簡単に達成できたであろうし、瞑想を通して、サマーディを経験することも簡単に達成できたはずです。一般的には、アートマンの存在が示唆されるのは、サマーディの感覚が起こるがゆえなのではないかと思います。でも、ブッダは、サマーディを経験するだけでは満足しなかったんでしょう。ブラフマンとの合一を目指したはずです(それが究極の悟りだと想定されているので)。もちろん、当時だって、ブラフマンとの合一を実現したという人はおらず、師は、その道の手引きをすることはできません。なので、ブッダは、師の元を去って、5人の修行仲間と、「行為の止滅」という苦行の道に入ったのだと思います。それは、前人未到の、梵我一如への挑戦なのであり、その挑戦自体、アートマンとブラフマンの実在を前提にしたものです。

【2】アートマンだけが実在し、ブラフマンは実在しない

ブッダの5人の修行仲間からすれば、ブッダというのは「根性なし」です。ブラフマンとの合一の挑戦を、途中で断念し、スジャータに乳粥をもらい、一命をとりとめ、すべてを諦めた人です。でも、不思議なことに、いわゆる悟りが起こったのは、5人の修行仲間の方ではなく、すべてを諦めたブッダの方でした。菩提樹の下で真理を悟ったと言われていますが、その内容はあまり明確にされていないのではないかと思います。

ブッダが、梵我一如を諦めたというのは、言葉にすると簡単なのですが、城も妻も子も捨てて、出家したというブッダの探求の過程を考えると、その諦めがもたらす苦しみは、いかばかりだったかとも思えます。それは決して心地よいものではなかったでしょう。「絶望」という形容が相応しいようにも思えます。絶対にそれを達成しなければならないと思っていたのが、おそらくは、身体的にも、直感的にも、それは不可能だということを感じ取ってしまったのだと思います。なので、ブッダが菩提樹の下で何をしていたのかといえば、世間的にはヴィパッサナー瞑想を実践していたとか言われることもありますが、そうではなく、梵我一如という理想を、諦めざるを得ない挫折感に苛まれていたのではないかと思います。そして、突如として、その苦しみから解放されるという経験をしたのだと思います。

人は、何かを諦めざるを得ない時には、苦しみを感じるものだったりしますが、その一方で、解放感を感じるという側面もあります。そういった関係性は、人は生きていれば、少なからず経験するものですが、ブッダはこの時、あることを突如として理解したのだと思います。おそらくは、その気づきは衝撃だったと思います。ブラフマンは実在しないんです。事実、そのことに気がついてしまった(目が覚めてしまった)ブッダに対して、ブラフマンという非実在的なイメージは、影響を与えることができなくなってしまったのではないかと思います。ブラフマンというイメージは、ブッダが作り上げた想像物なのであり、そのブラフマンが実体を持って、ブッダに影響を与えることはできないんです。アートマンとして、ブラフマンに合一するという梵我一如の考え方は、蜃気楼に向かって進むようなものです。ブッダは、その考え方から解放されてしまったんでしょう。菩提樹の下で悟ったブッダに対して、ブラフマン(梵天)が「その教えを広めなさい」と言ったというエピソードが語られることがありますが、その教えというのは、ブラフマン(梵天)の実在の否定でしょう。

その後、ブッダは、まずは5人の修行仲間のところに向かっています。5人の修行仲間からすれば、「根性なしが何の用だ?」という感じだったかもしれません。でも、ブッダは、そういった態度をとっていたかもしれない修行仲間に、何事かを伝え、5人の修行仲間は、その何事かを受け入れて、ブッダに帰依するようになったと言われています。ブッダの教えの中で、何かしらの真髄があるのだとすれば、それなんじゃないでしょうか?

ブッダは、その時、〝四諦〟を説いたとも〝八正道〟を説いたとも、〝中道〟を説いたとも言われていますが、その内容は、ブッダが菩提樹の下で、経験した内容と無関係であることは考えにくいのではないかと思います(ブッダと5人の修行仲間を分ける経験はそれです)。言ってみれば、絶望感とか、苦しみと無関係であることは考えにくく、実際のところ、〝四諦〟とは苦しみの生滅をテーマにしたものです。でも、ブッダが、菩提樹の下で何をしていたのかといえば、ただ、苦しみに苛まれていただけなんじゃないかと思います。すでに、アートマンとして、ブラフマンに合一するという理想は諦めているので、苦行的なことや、意図的なことは何もしていないはずです。でも、実際に起こったことは、なぜだか苦しみが消えて、解放されてしまったということです。おそらくは、このことがブッダの教えの真髄です。別に何もしていないのであり、苦しみに苛まれていただけなのであり、でも、苦しみは起こっては、勝手に消えていったんです。強いて言えば、ブッダが何をしていたのかといえば、その過程に気がついていたんでしょう。

〝四諦〟についての解釈というのは色々あり、それは〝八正道〟の実践と結び付けられていることが多いのですが、僕は、〝四諦〟とはもっとシンプルだと思っています。なぜだか苦しみは気がついているだけで消えるのであり、苦しみが消えた後に残るのは解放感なのであり、それはサマーディの感覚なのであり、それは、アートマンという実在の感覚かもしれません。そして、なぜだか、その感覚は消えなかったんでしょう。ブッダはニルヴァーナという言葉を使いましたが、ニルヴァーナとは、欲望が吹き消された状態のことを言います。それは、ブラフマンとの合一という欲望が吹き消された状態であり、それ以上、何も求めるものがない状態です。

ブッダは、サーンキヤ哲学が想定する梵我一如は諦めたのですが、結果として、ブラフマンの方が、アートマンに合一するという、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学が想定する、梵我一如が起こったように見えます。世界というのは、ブッダの外にあったのではなく、ブッダの中にあったんです。その理解は、「世界は実在しない」という認識に至ります。同じ〝梵我一如〟という言葉を使うので、混乱が生じやすいのですが、その意味は正反対と言ってもいいほどに違います。

ヴェーダの教えというのは、多岐にわたっていて、ともすれば矛盾だらけでもあります。なので、ヴェーダに書かれていることを参考にするなら、サーンキヤ哲学のように、アートマンとして、ブラフマンに合一することが、梵我一如なのだと解釈することもできます。でも、その一方で、ヴェーダ(特にヴェーダの中でも奥義書とも呼ばれるウパニシャッド)に書かれていることを参考にするなら、実のところ、ブラフマンは実在せず、アートマンだけが実在であることも示唆されているんです。アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学では、後者の梵我一如が採用されています。

なので、ブッダというのは、ヴェーダの教えの矛盾に振り回されてしまった人物だと言うこともできるんです。良く言えば、ブッダは、ヴェーダの教えの矛盾点を、どちらの視点からも経験的によく理解しているとも言えます。なので、ブッダの教えというのは、基本的には、ヴェーダの教えの誤解が生まれそうなところを、修正した教えであるとも言うことができるかもしれません(最古の仏典と呼ばれる『スッタニパータ』によれば、ブッダは必ずしもヴェーダの教えを否定していないどころか、「ヴェーダの達人」とも呼ばれています)。例えば、ブッダの教えで有名なのは〝縁起〟の教えなのですが、ブッダが、なぜ〝縁起〟を説いたのかといえば、(根本的には、この世界の実在性を否定するためですが)ブラフマンという超越的な影響力を否定するためでもあると思います。ブラフマンが実在すると想定するなら、因果関係を無視した出来事だって、起こりうると想像してしまいます。例えば、死者を蘇らせるということだって、ブラフマンの実在を信じる人にとっては、可能であることのように感じられたりもします。死者を蘇らせてほしいというエピソードは、色んなところで見られます。ブッダが存命中の時にも、そういったエピソードがあったかもしれないし、例えば、近代でも、ラマナ・マハルシのところに、死者を連れて「死者を蘇らせてほしい」と懇願しにきた人のエピソードがあったりします。でも、この世界の出来事は、〝縁起〟によって成り立っていると説明するなら、ブラフマンの実在をやんわりと否定することができます。

また、ブッダが苦行として実践した「行為の止滅」も、身体的な意味での止滅なのではなく、苦しみの生滅をテーマにした〝四諦〟という教えに置き換えることで、身体的な苦行という方向性には向かないようにもしたのではないかとも思います。

【3】アートマンもブラフマンも実在しない

とはいえ、ブッダの死後、仏教の中で、アートマンとブラフマンの関係性は大きな変化を迎えます。特に特徴的なのは、アートマンの実在の否定でしょう。

アートマンの実在が、龍樹の『中論』(空の思想)によって否定されてしまうことになります。龍樹の『中論』によれば、アートマンもブラフマンも実在しません。「ブッダはアートマンの実在を否定した」と言われることがあるのですが、いままで考察してきた内容を考えると、ブッダがアートマンの実在を否定したとは、必ずしも言えないのではないかと思います。ブッダが否定したのは、ブラフマンの実在です。もし、ブッダがアートマンの実在を否定していたのなら、そもそも、ブッダは「行為の止滅」という苦行なんて実践していないはずです。餓死寸前になってまで、ありもしない梵我一如を目指す必要性なんてないでしょう。もちろん、梵我一如に挫折することによって、アートマンとブラフマンの、どちらも実在しないということを悟ったということにもできるかもしれませんが、その場合には、なぜ、ブッダが、苦しみの生滅をテーマにした、ニルヴァーナに至るという〝四諦〟という実践的な教えを説いたのか、説明が難しくなります。

このことは、仏教が、実践的な側面ではなく、学問的な側面が強くなってしまったことが影響しているのかもしれません。ブッダも、2〜3人の師についたように、アートマンとは何かを知ることだって、そう簡単とは言い難いものです。言ってみれば、瞑想修行をするすべての人が、サマーディを体験できるのかというと、おそらく、そうではないはずです。そこには、どれだけ本気なのかという度合いも影響します。なので、仏教に対して、学問的な興味が先行してしまう人にとっては、そもそも、アートマンの存在が示唆される理由が、感覚的に分からないという可能性があります。そしてまた、瞑想によってサマーディを体験するということと、ブッダが説く〝四諦〟という実践の教えは、似ているようでまったく違うものです。苦行前と、苦行後の違いです。例えば、苦しみをどうにかするために、瞑想を実践しようとするなら、それは、苦しみの生滅をテーマにした〝四諦〟の実践を避けていることになるかもしれません。それは、むしろ、ブッダの教えの逆行でしょう。もしかすると、龍樹は、その違いを理解することができなかったのかもしれません。

結果的に、龍樹は、大乗仏教の論者として、アートマンもブラフマンも実在しないという、『中論』(空の思想)を展開し、アートマンの実在を主張する、部派仏教を否定しました。

龍樹の『中論』(空の思想)とは何かを簡単に説明すると、例えば、目の前にマグカップがあるとします。この場合、『中論』では、そこにマグカップという実体があるわけではなく、「気づく働き」と「眼球」に縁って「マグカップを含む視界」がそこに起こっているのであり、「記憶」と「認識作用」に縁って「それがマグカップ」だという認識が起こっており、そのマグカップを手にとる「触覚」と「認識作用」に縁って、「それが物質的である」という認識が起こっていると考えます。つまりは、そこにはマグカップという実体があるのではなく、様々な〝縁起〟によって、そこに、マグカップが物質的に有るように感じられているだけなのだという考え方です。そして、龍樹は、「マグカップは有るとは言えない。マグカップは無いとも言えない。マグカップは有ったり無かったりするとも言えない」という三段否定を展開し、マグカップは〝空〟であると定義づけます。その考え方は、「マグカップ」という〝縁起〟の対象だけではなく、〝縁起〟の要素にも及びます。つまりは、「眼」や「手」や「触覚」や「気づく働き」や「記憶」や「認識作用」というものにも実体があるわけではなく、〝縁起〟によって成り立っていると考えます。そうして龍樹は、「一切のものは〝縁起〟によって成り立っている」という前提のもと、あらゆるものの実在(と無)を否定してしまいます。

でも、『中論』で見落とされているのは、「一切のもの」という言葉の使い方です。その前提に立つなら、あらゆるものに実体はないという結論になるのは当然です。「一切のもの」という言葉は、実質的には、その言葉を使う人の〝記憶〟のことを意味するだけです。実は、「一切のもの」とか「すべて」という言葉は、客観性を必要とする論理性の中では、使うことができないんです(使えるけどナンセンス)。つまりは、龍樹は、アートマンは実在しないということを証明できているわけではなく、ただ単に、自身の「一切のもの」という〝記憶〟の中に、無理やりにでも、自身のアートマンという概念を当てはめようとしているだけなんです。

言ってみれば、龍樹には、西洋哲学者が持つような論理性が足りていないようなところがあります。西洋哲学的な疑問のひとつとして、「なぜ、この世界は無いのではなく、有るのか?(それが空であれ)」というものがあります。無から有(それが空であれ)が作り出されるということは論理的に考えられず、この世界が有る(それが空であれ)ということは、何かしらの〝有(それは空ではない)〟が実在するのだろうという想定が、西洋哲学にはあります。それは別に、西洋哲学に限らず、ヴェーダの考え方においてもそうです。そして、それは不変の実体であるであろうとも想定されており、もし、そんな不変の実体があるのであれば、それは、この世界の内側には存在して無いであろうとも想定されています(もし、それが世界の内側にあるのであれば、それこそ、それは変化の対象になってしまうので)。であるにも関わらず、龍樹は、不変の実体であろうと想定されるアートマンやブラフマンでさえ、〝縁起〟の影響が及ぶであろう、この世界の内側にあるものとして想定しているんです。意図的か無自覚かは分かりませんが、この点が、龍樹の考え方の致命的な欠点です。

確かに、ブッダは〝縁起〟という考え方で、世界とブラフマンの実在を否定したのだと思いますが、「一切のもの」という前提は持たなかったはずです(『スッタニパータ』の中では、「世界を空なりと観ぜよ」と語っています)。人は「一切のもの」を認識することはできず、そのことを、論理的に証明することはできないからです。なので、アートマンやブラフマンが、客観的には認識し得ないものなのであれば、論理的には、「その〝縁起〟を確認することはできない(確認できないなら空であるとも言えない)」としか言えないんです。それゆえに、ブッダは、〝四諦〟という論理ではない実践の教えを説いたのではないかと思います(5人の修行仲間に説いたのは〝四諦〟なのであり、そちらの方を重要視していたはずです)。でも、龍樹は、「一切のものは〝縁起〟によって成り立っている」という前提に自身が立てると思い込み、ブッダが説いた〝四諦〟というニルヴァーナに至る実践の教えは、嘘も方便だったのだと結論づけています。

結果的に、龍樹の『中論』は、大乗仏教でも重要視されるようになり、大乗仏教の勢いが増した結果、仏教というのは「アートマンもブラフマンも実在しない」という考え方をする宗教なのだと、みなされるようになっていったのではないかと思います。

【4】アートマンもブラフマンも実在しないが、如来は実在する

アートマンとブラフマンの関係性というのは、そう簡単には変わらないものなのですが、大乗仏教では、アートマンもブラフマンも実在しない(そもそも、実在するものなど無い)という、龍樹の『中論』の考え方が軽視されることがあります。『法華経』の影響力が強い場合、如来は実在するという考え方が強くなるように思います。

如来とは何かと言えば、例えば、釈迦如来や多宝如来のことで、『法華経』では、不変不滅の実体だとみなされています。そういった意味で、アートマンとブラフマンと同じようなものだと言えるのですが、如来の場合、その立ち位置が、アートマンとブラフマンの中間みたいなことになっています。

如来には、ブラフマンほどの完全性はありません。ブラフマンは宇宙の主体だとみなされているのであり、言ってみれば、この世界の創造主です。なので、この世界で起こる出来事というのは、基本的にはブラフマンによってコントロールされているということになります。それが、客観的に見れば、善悪に分かれているように見えたとしても、善悪に分けているのはブラフマンなのであって、ブラフマンの視点から見れば、そこに問題はありません。でも、如来の場合には、世界が善悪に分かれているということを、問題視します。『法華経』の中では、悪を善に変えていくことが、如来の存在理由だとも語られているように思えます。そういった意味で、如来はブラフマンではないんです。論理的に考えるなら、如来自身が、ブラフマンによって創造された善に属するアートマンだと考えることができます。でも、その一方で、如来はアートマン以上の超越性を持ち合わせているように思えます。アートマンの受け皿となる、この身体にとって、この世界というのは、制限があるもののように感じられるものです。例えば、物理法則を無視して、空を飛ぶなんてことはできません。でも、『法華経』の中で語られる釈迦如来(ゴータマ・ブッダ)というのは、その物理法則を簡単に無視します。空を飛びます。他人をすら、空に浮かばせます。言ってみれば、この世界の創造主であるかのごとく振る舞いをしたりします。なので、如来というのは、アートマン以上であって、ブラフマン未満の、不変不滅の実体のようにも思えます。

龍樹の『中論』の論理性を重視するのであれば、如来であれ、その実在を認めるわけにはいかないのですが(実際、『中論』の中で、如来の実在は否定されています)、『法華経』に対しては、『中論』はその影響力を持たないように見えます。

大乗仏教には、龍樹が現れる前から、『般若心経』という空の思想を説いた仏典があります。「色即是空 空即是色」という言葉が有名だと思います。「色(物)は〝空〟と異ならず、〝空〟は色(物)と異ならない」ということですね。ただ、この言葉を聞くと、〝空〟という実体があるのではないかと想像する人も少なくないんじゃないかと思います。〝空〟とは、テレビのディスプレイのようなものであり、様々なものに変化するのではないかということです。でも、論理的に〝縁起〟を突き詰めた龍樹は、〝空〟にも実体はないと結論づけています。「『空』は有るとは言えない。『空』は無いとは言えない。『空』は有ったり無かったりするとも言えない」という三段否定は、「色即是空 空即是色」も否定します。テレビのディスプレイ自体も実在しないんです。意外にも、このことは見落とされていることが多いんじゃないかと思います。

そのことは『法華経』にも言えて、『法華経』では、〝諸法実相〟という言葉を使って、この世界は空であるということを表現しているのですが、ともすれば、〝諸法実相〟という実体があるのだと想像する人も少なくないと思います。というよりも、『法華経』を作った人たちは、その前提で『法華経』を書いたんじゃないかとも思えます。〝諸法実相〟とは〝空〟という実体なのであり、その〝空〟は、如来(例えば、ゴータマ・ブッダ)というかたちをとって、この世界に姿を現すこともできると考えたのではないかと思います。それゆえに、如来とは、不変不滅の実体なんでしょう。

『法華経』で最重要視されているのは、論理性というよりも、宗教的な法悦性です。『法華経』では、〝諸法実相〟という言葉を使って、この世界は空であるということを表現しています。ただ、その理解には、次のステップもあるとも説かれています。この世界が空であるということを理解するだけでは、ただ虚しいだけであろう、そしてまた、人の役に立たないであろう、ということも示唆されているんです。実際のところ、(〝四諦〟の理解のない〝縁起〟の理解は)虚しいでしょう。この世界が空であるということは、ともすれば、すべてのものに意味は無いということにもつながりかねません。龍樹の場合には、その知的な探究心が、その虚しさを埋めたのかもしれませんが、ただ単に、この世界は空であるということを、なんとなく受け入れる人にとっては、空の思想というのは、救いにならないかもしれません。

それゆえに、『法華経』では、その解決策として、宗教的な法悦性を打ち出しているのではないかと思います。『法華経』の中では、ゴータマ・ブッダは、創造主のごとく超越的な人物として描写されています。それこそ、空も飛ぶし、他人を、空に浮かべることもできます。そのブッダが、最上の教えとしているのが、『法華経』のすばらしさを人々に説くことなんです。〝四諦〟や〝縁起〟も説いてきたけれども、それは、そのタイミングや、人々に合わせた嘘も方便のようなものであって、本当に説きたかったのは、『法華経』のすばらしさを人々に説くことだったのだと語られています。そして、ゴータマ・ブッダは、突如として創造主のごとく超越的な人物になったわけではなくて、ずっと前の過去生から、輪廻を繰り返しながら、『法華経』のすばらしさを人々に説き続けてきたからこそ、今のような釈迦如来(ゴータマ・ブッダ)になったのだと語られていきます。つまりは、「あなたたちも、『法華経』のすばらしさを人々に説くことによって、私(ゴータマ・ブッダ)のように如来に成れますよ」ということです。そして、宗教や教えによっては、限られた人しか真理を悟れないと言われることがあるのですが、『法華経』では、すべての人が平等に、如来になれる可能性(仏性)を持っていると説きます。

ともすれば、「ゴータマ・ブッダが生きたのは紀元前500年頃で、『法華経』が作られたの紀元後100年頃なのだから、ゴータマ・ブッダが『法華経』のすばらしさを説いたというのはおかしくない?」とも思えるのですが、こういった壮大な物語に感情を揺り動かされる人は、素直にそのことを信じて、宗教的な法悦性を感じることができるかもしれません(当時は、『法華経』がいつ作られたかなんて調べようがなかったかもしれませんし)。僕は、宗教の持つこういった側面を必ずしも否定はしません。

ただ、『法華経』の思想の問題点は、歴史上、ひとりとして如来に成った人はいないということでしょう(『法華経』の中のブッダを除く)。言ってみれば、そこにはサーンキヤ哲学に似た問題点があります。本当に、如来というのは実在しているんでしょうか? 如来に成ることを目指すということは、蜃気楼に向かって進むようなものなんじゃないでしょうか? 人は、確認し得ないものを信じ続けるべきなんでしょうか? それとも、確認できることを、とことん確認するべきでしょうか? それは、2500年前に、ブッダが突き当たった問題です。

というわけで、アートマンとブラフマンを巡る4つの思想パターンを考察してみました。不思議なことに、ブッダは、この4つの思想パターンのすべてに関わっているんです。この4つの思想パターンは、それぞれ完全に独立しているわけではなく、少しずつ関係していて、それなりの理由があったりします。

最後に、それぞれの思想の特徴を、一言で言い表して終わりにしたいと思います。

【1】苦しみをどうにかしたいなら、瞑想やヨガや断食をするといいですよ。それでも満足できないのなら、ブラフマンとの合一というスペシャルコースもあります。

【2】苦しみをどうにかしたいなら、苦しみが起こっては消えていく過程に気がついているといいですよ。苦しみには原因があるけど、消える時には、原因もなく消えるんで。

【3】苦しみをどうにかしたいなら、〝縁起〟について学ぶといいですよ。苦しみは〝縁起〟によって起こっているのであり、苦しみという実体は存在しないので。

【4】苦しみをどうにかしたいなら、布教活動や奉仕活動をするといいですよ。それでも満足できないのなら、如来に成るというスペシャルコースもあります。

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