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この世界が「私」の内的表現であるなら「他者」は実在しないのか?【独我論】

今回は、読者の方からご要望いただきまして、前々回の記事「感情は脳の『内的表現』なのか?」の続編を書いていこうと思います。今回も、かなり形而上学的で、哲学的な内容になるかと思います。

前の記事では、「感情」と「脳」の関係性を切り口に、実は脳ではなくて、非物質的な感情(もしくは、それを作り出している根源)が、この世界の認識主体なのではないかという可能性を示唆しました。言ってみれば、この世界は、非物質的な感情(もしくは、それを作り出している根源)の内的表現なのであって、精巧なバーチャルリアリティのようなものであるという可能性です。

その可能性自体、信じ難いと思いますが、でも、仮にそうだったとすると、次に気になるのは、「じゃあ、この世界の中の、他者はどういう扱いになるのか?」ということなんじゃないかと思います。そこで今回は、「私」と「他者」の形而上学的な関係性について考察していこうと思います。

※今回は、12500文字ほどの長文で、わりと難解です。

この「私」が、非物質的な感情を認識できているのはなぜか?

前の記事では、話の展開をシンプルにするために使いませんでしたが、今回は、「私」という概念を登場させたいと思います。「私」という概念は、哲学的にとてもやっかいで、結局のところ、論理的に「私」とは何かを証明することは、できていないと思います。「私」は、この身体なのか? それとも心なのか? もしくはそれ以外の何かなのか? そもそも、「私」という実体など実在しないのか? 当然、今回の記事でも、論理的にそれを証明することはできません。

でも、確かなこともあります。なぜだか、この「私」は、非物質的な感情を認識することができているんです。一般的な感覚で言えば、「何を当たり前なことを……」と思われるかもしれませんが、前の記事で、感情というのは、論理的には、この物質的な世界の次元を超えている可能性を示唆しました。であるなら、その感情を認識することができている、この「私」というのは、少なくとも、感情と同じ次元にあるか、それを超えた次元にあるということになるんじゃないでしょうか?

次元を超えていると言うと、なにか、とんでもない妄想を語っているように思えるかもしれませんが、実際の現象としては、とても普通なんじゃないかと思います。この「私」は、この非物質的な感情を認識していて、脳の内的表現である、この物質的な世界にも気がついています。それは、普通の日常生活として感じられるはずです。

もちろん、「この世界は、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティみたいなものである」というような、次元を操作する例え話には、落とし穴があります。そうイメージすることはできても、それを確認することができないという点です。例えば、次元・視点を操作する例え話には、このような反論がされることがあるようです。

コウモリにとってコウモリであることは、人にとってコウモリであることではないから、人には決して分からない。

人は、コウモリが超音波をソナーのように使って、器用に空間の中を飛び回るということを知識としては知っていますが、その知覚を感じることは不可能なわけです。そういった意味で、人が自身をコウモリであるようにイメージすることは、机上の空論のようなものであって、確認しようがありません。なので、この反論はまったく正しいです。

夢の中で「これは現実でない」と気づいても、そこで想定される現実もまた夢の一部であり、夢から覚めないと上位次元である本当の現実には気付けない。

映画「インセプション」を彷彿とさせますね。確かに、夢の中で「これは現実ではない」と気づいても、実際に夢から覚めないことには、現実がどうなっているのかということは確認しようがありません。もしかすると、自宅のベッドで寝ているかもしれないし、親戚の家で寝ているのかもしれないし、場合によっては、映画「インセプション」のように、水が張られたバスタブに、まさしくキックされている最中かもしれません。

なので、この世界を、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティのようなものだとして、次元の操作を行うのは、「神」の視点に立つことを要求するようなものであって、確認しようがないナンセンスなものだと思う人もいるかもしれません。

でも、不思議なことに、この例え話の場合には、実際に確認することができているんじゃないでしょうか? なぜだかこの「私」は、論理的には、この世界の次元を超えている可能性がある、非物質的な感情を認識していて、脳の内的表現である、この物質的な世界にも気がついています。それは、まったく当たり前な感覚として認識されているはずです。

むしろ、科学的に考えるなら、人が、この非物質的な感情を認識しているということは、とても不思議なことです。だからこそ、科学者は感情についてあまり触れたがらなかったりもすると思います。そしてまた、認識の主体とみなされている脳が、物質的な存在として、この世界の中に現れているということも、論理的に考えると不思議なことです。

僕は、話の流れとして、次元を操作する例え話を、ある意味では強制的に行いました。でも実際のところ、それは確認することが不可能な次元の例え話ではなく、人の普遍的な認識を、形而上学的な疑問と矛盾しないように、多少ユニークに概念化してみせたというだけなんです。言ってみれば、「あなたは、もともと、この物質的な世界を超えた次元にあるのではないか?」という指摘です。

もちろん、「この世界は、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティみたいなもの」という表現は、突拍子もないことのように感じられるかもしれません。でも、論理的には突拍子もなくても、現実問題として、それが機能しているという例はいくつかあります。例えば、アインシュタインの「相対性理論」などがそうです。相対性理論では、光速の光に対して、例えば、僕が光速で走って追いかけたとしても、その相対的な速度差はゼロにはならず、僕がどんなスピードで走っていようが、どんな方向に向かっていようが、その相対的な速度差は、常に光速で一定だと言います。

この考え方は、にわかには信じ難いというか、物理学的に間違っているとさえ思えるものなのですが、実際のところ、相対性理論はGPSの時差の修正などにも使われているようで、この世界の中で実際に機能しています。論理的には突拍子もなくとも、実際に、この世界の中で機能しているなら、「信じ難いけど、そんなものなのかな」と、人はその考え方を受け入れたりもします。

もちろん、形而上学的な疑問を、論理的には解消し得るのだとしても、この世界が精巧なバーチャルリアリティのようなものだという考え方は信じ難いと思います。でも、逆に、そのことを否定することも非常に困難です。

それは、例えば、この記事を例にしても言うことができます。この記事は、HTMLファイルとして、常に、サーバーの特定の位置(このURLに対応する)に保存されているんでしょうか? それとも、この記事は、普段はHTMLファイルとしては存在しておらず、あなたがこのURLにアクセスしたときに、まるで普段からそこに存在しているかのように、瞬時にして生成されているものでしょうか? 僕はどちらなのかを知っているのですが、ブラウザから閲覧する分には、どちらであっても同じように感じるはずです。

それと同じようなことが、この世界で起こっていないと断言することは、身体の視点を持つこの自分にはできません。確認しようがないからです。例え、この自分が認識するもののすべてが、瞬時にして生成されたものでしかなかったとしても、人は、そのことに気がつくことはできないでしょう。もちろん、感情論としては、「この世界が精巧なバーチャルリアリティみたいなものであるはずがない!」と思えるものなんですが、それでは哲学ではないですよね?

この「私」と同じように、「他者」が他者を認識しているのか?

前の記事への補足もおこなったので、長くなってしまいましたが、いよいよ、「私」と「他者」の関係性について考察していきたいと思います。

仮に、この「私」が、非物質的な感情を認識していて、脳の内的表現である、この物質的な世界に気がついているのだとすれば、当然、他者にも、この「私」に相当する、「他者」が存在するのだろうと想像することができると思います。

でも、さきほどのコウモリの例え話のように、この「私」が「他者」の視点になることは不可能です。もちろん、他者という身体が存在していることは明白です。触って確かめることもできると思います。でも、この「私」と同じように、他者の身体にも「他者」が関わっているのかということは、まったく確認することができません。

もし、この世界が唯物論者が言うように、すべてが物質で構成されているのなら、科学の進歩によって、いつかは「他者」を物質として認識することができるようにもなるかもしれません。その時には、感情も物質として認識されるかもしれません。でも、仮にそうなったとしても、「なぜ、この世界の認識主体である脳が、この世界の中に、物質的に存在しているのか?」という形而上学的な疑問は、依然として残り続けることになります。「なぜ、そもそも、この宇宙が存在しているのか?」という根源的な疑問も残るでしょう。

一方、この世界は、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティのようなものである場合、それらの形而上学的な疑問は解消され得ることになります。ただ、その一方で、信じ難い可能性に直面することにもなります。この「私」以外に「他者」は実在しないという可能性です。唯物論的な世界であれば、「他者」が実在するかどうかというのは、確認しようがありません。脳がその人の認識主体とみなされるのであり、その感覚(と「他者」そのものを)を、この「私」が知覚することができない以上、「わからない」というのが正解です。まさしく、コウモリの例え話です。でも、この世界が、精巧なバーチャルリアリティのようなものであって、この「私」の内的表現であるなら、論理的に、この世界の中に「他者」が実在することは不可能です。

というのも、この世界が、「私」の内的表現であるなら、その中に「他者」が実在するという場合、その「他者」というのは、この「私」に従属する次元の存在になってしまいます。「私」と「他者」というのは同じ次元にあるべきでしょう。なので、この世界は「私」の内的表現である、という立場をとる場合、「他者」というのは、論理的に、実在することが不可能なんです。

もちろん、例えば、「神」の視点をとるなら、「私」の内的表現であるこの世界はそのままに、「私」という認識の外側に、「他者」という実在を想定することも可能です。この場合、「私」と「他者」は同じ次元にあるということになります。そして、「私」の内的表現である、この世界の中の他者に対して、その「他者」が関わっていると想像することができます。つまりは、想像上、「他者」というのは実在することが可能です。人は、「神」の視点をとるなら、想像できるものであれば、なんだって存在しているかのように感じることができます。「神」の視点は魅力的です。でも、それは、確認することができない、ナンセンスな机上の空論にもなりがちです。

なので、人は、「神」の視点をとった後には、「私」の視点からも認識できるか、確認するべきなんじゃないかと思います。例えば、「私」の視点から、同じ次元に存在するであろうと想定される、「他者」はどのように認識されるのかといえば、認識されようがありません。人は、何かを意識したり、イメージすることは得意なのですが、認識の外にあるものを認識することは苦手です。苦手というか、そんなことは不可能なのですが、この認識の中でなら、それが不可能であるということを、多少はイメージをすることはできるんじゃないかと思います。この「私」にとって、「他者」とは、認識の外にあるものです。なので、例え「他者」が実在しようが、実在しまいが、この「私」は、それを認識しようがありません。

「神」という視点に魅力を感じている場合、「この『私』に認識することができずとも、例えば、認識の外に、『神』が実在するということはあり得るんじゃないか?」と思う人もいるかもしれません。なので、ナンセンスではありますが、ここで、「神」の視点についての考察もしておこうかと思います。

例えば、この「私」は、非物質的な感情を認識しているし、脳の内的表現を通じて、身体の5感覚に気がついているんじゃないかと思います。それは、当たり前の感覚として感じられていると思います。

そこには、主体としての「私」と、対象としての、感情や5感覚があるはずなのですが、おそらくは、それらは別々のものではなく、統合された感覚として感じられているんじゃないかと思います。自分の手を見て、「これは私だ」とも感じられるだろうし、それを見ている眼を意識して、「これは私だ」とも感じるんじゃないかと思います。それは、その認識主体が、この「私」だからでしょう。言ってみれば、主体と、対象というのは、統合された感覚として感じられるんです。

であるならば、「神」という主体に、この「私」と「他者」が対象として認識されるならば、そこには何かしらの統合があってしかるべきだとも考えられるんじゃないでしょうか? 少なくとも、そこに何かしらの統合があるなら、この「私」は、「神」の視点を通じて、「他者」の存在を認知することもあるかもしれません。この手と眼が、「私」という視点を通じて統合されるようにです。

でも、そういった統合は感じられたことがありません。この「私」という認識が、「私」でないものになるだなんてことは想像もつきません。僕にとって、「神」という視点は、どこまでいっても、この「私」の中で認識されたものでしかないんです。つまりは、「神」が実在したとしても、論理的には、それは「他者」の実在と同じようなものです。その「神」は、この「私」という認識に対して、何の影響も与えていないように感じられます。

まとめると、この世界を、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティみたいなものだとみなす場合、この世界の中に、「他者」というのは、論理的に、実在しません。そしてまた、この「私」という認識の外に、「他者」が実在したとしても、この「私」は、それを認識することができません。そしてまた、この「私」にそうすることが出来ないように、「他者」が実在したとしても、その「他者」が、その認識の外に影響を与えるということは不可能でしょう。つまりは、「私」の中にも外にも、実質的に、相互作用が起こり得るような、「他者」は実在しないということです(場合によっては「神」でさえも)。

にも関わらず、この世界の中では、身体を持った他者が存在しています。その人は、自分と同じように、非物質的な感情を認識しているようにも見えます。そしてまた、自分と同じように、「私」に相当する何かを認識しているようにも見えます。

他者の認識主体も「私」でなければ、この世界は共有され得ない

「他者」は実在しないはずなのに、実際のところ、他者が存在しているように見えるのは、論理的に考えると、明らかにおかしいです。でも、実際のところ、もっとおかしく思うべきは、「なぜ、この『私』は、他者と、この世界を共有することができているのか?」というところかもしれません。

人は、生まれた時から、他者との関わりを持っているので、この世界の中に、他者が存在するということをあまりにも当たり前のことのように認識しています。

もちろん、唯物論の場合には、それで問題がないと思いますが、この世界は、「私」の内的表現であるという立場をとる場合、他者の存在は、形而上学的な問題となります。例えば、もし仮に、他者を「他者」が認識しているのなら、その他者は、この世界の中に存在していないんじゃないでしょうか? というのも、この私の身体が、「私」の内的表現の中に現れるということは、他者の身体も、「他者」の内的表現の中に現れるということでしょう。「私」と「他者」に、影響を与え合うような相互作用がないのであれば、その内的表現が〝この世界〟という共通のものであることは、むしろ考えにくいのではないかと思います。映画「インセプション」には、独自の世界があり、ディズニー映画「シンデレラ」にも、独自の世界があります。それらの独自の世界は、共通じゃありません。もし、他者を「他者」が認識しているなら、他者は、それぞれの独自の世界の中に存在することになるんじゃないかと思います。そして、この世界には、私だけが存在することになるんじゃないでしょうか?

でも、実際のところ、この世界には他者が存在しています。この形而上学的な疑問を、解消する方法はひとつしかありません。それは、他者を認識しているのは「他者」ではなく、「私」に相当するものでもなく、まさしく、この「私」なのだと考えることです。

もちろん、この考え方は、非常に理解し難いと思います。とんだ妄想のように感じられるかもしれません。でも、むしろ、論理的に考えられる人であるほど、その可能性を検討しないわけにはいかないでしょう。というのも、この世界が、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティのようなものであるなら、むしろ、そうであることは自然なこととなるからです。この「私」が、この内的表現の主体であるならば、この「私」が、この世界のすべての認識主体であるのは当然のこととも言えます。

唯物論的な世界観からすると、この「私」というのは、脳に関連付けられた限定されたもののようにも思えます。なので、この世界のすべての認識主体が、この「私」だというのは、非常に理解し難いことです。でも、この世界が、「私」の内的表現なのであれば、この無限のように思える世界というのは、この「私」の中にあるんです。なので、この「私」が、遠くにいる、誰か見知らぬ他者の認識主体であっても、理屈的には、おかしくはないんじゃないかと思います。「非科学的だ」と思う人もいるかもしれませんが、この考え方の場合、そこに科学が通じないということの説明にもなっているのではないかと思います。

もちろん、「じゃあ、なぜ、この『私』は、他者の身体の視点から、この世界を認識することができないんだ?」と疑問にも思うかもしれません。この「私」が、すべての人の認識主体なのであれば、そういったことも可能であろうと思えます。反対に、それが不可能なのであれば、この考え方は、言ってみれば「神」の視点をとった例え話でしかなく、確認することができないナンセンスなものです。でも、この疑問に対して言えることは、「その『私』というのは、どの『私』を指しているんでしょうか?」ということです。記事の冒頭でも触れましたが、哲学的に、「私」とは何かということを、証明することは難しいです。それほどまでに、「私」という概念は、ある意味では混乱をもたらします。

一般的に言って、「私」とは何を意味するのかといえば、意識のことを意味することが多いと思います。もっと細かく言えば、5感覚、特に視覚です。そして、そのことの自覚がないことも少なくないのではないかと思います。

例えば、視覚が失われたのなら、意識が消えたかのように感じるでしょうか? もし、そう感じるのであれば、あなたは、「私」とは意識のことなのであって、特に、視覚なのだと感じているということです。

なので、その場合、「なぜ、この『私』が、他者の身体の視点から、この世界を認識することができないんだ?」と疑問に思うことは、「なぜ、他者の眼の視点から、この世界を認識することができないんだ?」と疑問に思うことに等しいんです。でも、「私」とは眼のことではないですよね? 確かに、「私」という認識があるからこそ、眼が私であるかのように感じられるんですが、正確に言えば、眼は「私」ではないんです。なので、「なぜ、この『私』が、他者の身体の視点から、この世界を認識することができないんだ?」と疑問に思うことは、実は、「私」とは何かという認識の混乱がもたらしている結果なんです。

この世界は、1台のHDDに保存された精巧なバーチャルリアリティみたいなものであり、この「私」は、その認識主体です。このように例えれば、「私」とは何かということの誤解は少しは解けるかもしれません。この場合、この身体としての私は当然「私」であろうし、歩道ですれ違った他者だって「私」であろうし、空白JPの筆者だって「私」であろうし、もっと言えば、人に限らずに、この世界のすべてが「私」なのであって、「私」の内的表現でしょう。

でも、それは「神」の視点なのであって、それを、この世界の中の「私」の視点で考えると、再び混乱に陥ります。「私」が何なのか分からなくなるからです。「私」が「私」であることは明らかなのに、この世界の中から探そうとすると、それは無いようにも感じられるからです。人によっては、空間の広がりや、宇宙といったものを「私」だとみなそうとするかもしれませんが、それがナンセンスであることは明らかでしょう。「私」は、この物質的な時間と空間の次元にはないからです。

「私」と「感情」の形而上学

哲学的に、この世界を成り立たせている、不変の実体の存在は、古くから想定されてきていると思います。それは、「存在」と呼ばれることもあれば、イマヌエル・カントは「物自体」と呼び、ヴィトゲンシュタインは「形而上学的主体」と呼んだりします。

でも、それらを突き止めようとする哲学的思索は上手くいっていないように思えます。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」として、それ以上先に進むことはできないのだという、哲学的な限界を引いてさえいます。

でも僕は、形而上学が行き詰まっている原因は、「感情」の扱い方にあるのではないかと考えています。哲学の中において、感情というのは、心理学に属しているようにも見えます。言ってみれば、「こういう現象が起こった時に、人は、こういった感情的な反応をすることが多い」というような、ある意味では統計学的な扱いです。でも、実際に行うべきだったのは、「感情」の形而上学的な立ち位置の確認だったんじゃないでしょうか? ある意味では、物質的に感情という存在を取り扱うべきだったのではないかと思います。それゆえに、「なぜ、感情は非物質的な存在なのか?」という問いすら立てられていないようにも思えます。哲学者にはどこか、「感情というのは内的表現なのであって、非物質的に感じられて当然のものなのだ」という前提認識があるようにも思えます。

前の記事でも考察したように、感情という存在を形而上学的に扱うなら、感情という存在は、内的表現であるどころか、この世界の時間と空間を超えている可能性がでてきます。ヴィトゲンシュタインは、「時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の〝外〟にある」と言いましたが、まさしく、その〝外〟は身近なところにあり、それは、決して〝語りえぬもの〟でもないのかもしれません。であるなら、哲学に限界が引かれるのは、もう少し先です。

唯物論的に考えるなら、この時間と空間を超えた存在というのは、想定することはできても、確認することはできません。なぜなら、あらゆるものが、この時間と空間の中にあるように感じられるからです。でも、この世界が、HDDに保存された精巧なバーチャルリアリティのようなものであるなら、この「私」と「感情」は、この時間と空間を超えている可能性がでてきます。

さきほど、「私」が存在していることは明らかなのに、この世界の中では、「私」とは何かということが分からなくなるとお話しました。それは、どこにも見つからないか、あらゆるものが、そうであるかのように感じられます。でも、もし、この「私」に何かしらの実体があるのだとすれば、その実体は、この世界の次元を超えていると考えるのが妥当でしょう。であるならば、その可能性があるのは、認識し得るものの中では、感情だけです。

でも、感情とは一体どういう存在なんでしょうか? それは、心理学的な意味でではなく、形而上学的な意味でです。感情とは喜怒哀楽と言われるように、変化するものです。変化するということは、それは一時的な現象であるということを意味します。つまりは、そこには不変の実体と呼べるような要素はないということになります。なので、哲学的には、感情という存在はあまり重要視されないということもあるのではないかと思います。

でも、感情というのは、何も無いところに突如として現れているんでしょうか? 心理学的な意味では、感情というのは、目の前の状況に合わせて、胸の部分に、内的な変化が起こっているものだと思われているのではないかと思います。例えば、目の前で、自分の車の窓ガラスが叩き割られているならば、「おいおい!なにをやっているんだ!」と怒りの感情が湧き上がるかもしれません。もしくは、怖くなって、「どうしよう……」と、混乱した感情を抱くかもしれません。そういった感情的な反応が起こるのは、当たり前のことで、その関係性は多くの人が理解できると思います。

でも、それを、形而上学的な意味で考えてみると、なぜ、その関係性によって、感情が起こったり変化したりするのかということが疑問に思えてきます。というのも、感情というのは、この物質的な世界の次元を超えている可能性があり、目の前の状況に、脳が反応しているのだとしても、脳が感情に対して、直接的な影響を与えているとは考えにくいからです。もし仮に、この世界が、感情の内的表現なのであるならば、感情に対して、何か影響を与えることができる存在は実在しないはずです。言ってみれば、この場合、感情というのは、ヴィトゲンシュタインの言う「形而上学的主体」があると想定されるポジションに収まっているんです。哲学的に、それは不変の実体であると想定されるんじゃないかと思います。

でも、実際のところ、感情は変化しています。喜怒哀楽の感情を感じます。それは変化するものです。なので、感情は不変の実体ではないのでしょう。それでも、感情というのは、非物質的な存在として、変化する存在として、この「私」の認識の中に現れています。

それがどういうことなのかといえば、「私」と「感情」以外に、感情に影響をおよぼし得る〝何か〟が、この物質的な世界を超えた次元に、非物質的な感情をも超えた次元に、存在している可能性があるということなんじゃないかと思います。そうでなければ、感情が変化するということの、説明がつかなくなってしまいます。そして、その〝何か〟がどこに存在するのかといえば、想定されるのは2つの可能性です。この〝何か〟こそ、「形而上学的主体」なのであって、不変の実体なのであって、この「私」には認識し得ないものであるという可能性です。この場合、ここで哲学の限界が引かれます。もうひとつは、この「私」は、そもそも、非物質的な感情を認識できていて、脳の内的表現である物質的な世界にも気がついています。ということは、「私」を超えた「神」を想定する必要はなくて、この「私」の中に、その〝何か〟が存在しているのではないかという可能性です。そして、もし、そんな〝何か〟があるのだとすれば、それは感情によって隠されていると考えるのが妥当なのではないかと思います。この「私」から見て、そこ以外には何も隠れようがないからです。

〝何か〟が感情によって隠されているだなんて、適当なことを言うなと思う人もいるかもしれません。でも、多くの人は、無自覚に、感情を感情によって隠しているんじゃないでしょうか? 例えば、過去の嫌な記憶を思い出したときに、他の何かで気をまぎらわすというのは、まさしく感情を感情で隠すことです。実際のところ、それは可能なんです。そしてまた、多くの人は、どうすれば自分が退屈するのかを知っています。別に、今、退屈しておらずとも、どうすれば退屈するのかを知っているわけです。それはつまりは、普段から、退屈を何かで隠しているからでしょう。自分の根底には、どことなく退屈の感覚があると感じる人は少なくないと思います。でも、それが不変の感覚なのであれば、退屈の感覚こそが不変の実体ということになりかねず、哲学者は絶望しなければならなくなるかもしれません。でも、その退屈の感覚だって、〝何か〟を隠しているのだとすれば?

それは、「神」の視点のように、そもそも確認することが不可能というものではなくて、確認することは可能ではあるのだけれども、何もせずに確認できるわけではないというものです。もちろん、哲学というのはフィロソフィー(philosophy)であり、それは「知を愛する」という意味だと思います。なので、哲学者は、感情を確認したいとは思わないのかもしれません。むしろ、哲学によって世界の真理を解き明かして、その好奇心を満たしたいと思うかもしれません。でも、感情を感じる部分に、形而上学的主体となり得る〝何か〟が存在し得るという可能性は、哲学によっても導き出されるものです。

この物質的な世界は、その〝何か〟の内的表現なのであり、感情(もっと言えば、思考やイメージといった心的なものも含む)も、その〝何か〟の内的表現なのであり、この「私」の実体は、その〝何か〟なのだということになるのであれば、形而上学的な、様々な疑問は解消されてしまうはずです。あらゆる人が、この「私」であるにも関わらず、感じる感情や、脳の内的表現が、人それぞれ個別であるということも、この考え方だと説明がついてしまいます。輪廻とは何か? 自由意志とは何か? 不死とは何か? 意識とは何か? ということの疑問も、解消されてしまうかもしれません。そして、この考え方は、妄想的なように感じられるかもしれませんが、この世界の中の「私」の視点から確認してみても、当たり前のように感じられるものです。

もちろん、その〝何か〟の実在を、哲学的に、証明することは不可能です。なので、僕はここで、哲学的な限界を引きます。この考え方が、正しいのか間違っているのか、他の誰かによって客観的に証明されるということはないでしょう。形而上学的に、このことを確認することができるのは、この「私」だけです。

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