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ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシの教えはどう実践するべきか?【段階別3パターン紹介】

ラマナ・マハルシと言えば、「私は誰か?」という言葉が有名です。でも、ラマナ・マハルシは、探求者によって使う言葉を変えていました。ラマナ・マハルシは、パラマハンサ・ヨガナンダとの対話の中でこう言っています。

ヨガナンダ:どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか? どのような指導を与えるべきでしょうか?

マハルシ:それらは個人の資質と彼らの心の霊的成熟度にしたがって異なります。全般的な教えというものはありえないのです。

なので、「私は誰か?」という教えも、それは全般的な教えというわけではないんです。そこで今回は、ラマナ・マハルシの教えというのは、どのように実践していけばいいのかということについて、段階別に3パターン紹介したいと思います。

パターン1:私は誰か?

「私は誰か?」という言葉は、探求の入り口です。

「私は誰か?」という言葉は、言ってみれば、真理の探求全体をつらぬく大きな指標みたいなものです。例えるなら、北極を目指すために、ざっくりと「北を目指せ!」と言うようなものです。実際のところ、北といっても色々あると思います。例えば、東京都から北に向かうなら、埼玉県にたどり着きます。それは「北を目指せ!」という言葉には沿っていますが、そこは北極ではないですよね。それと同じように、「私は誰か?」と問うならば、「私は、この身体だ」と答える人もいるでしょう。それは決して間違ってはいないわけです。

「私は誰か?」という言葉は、あくまでも、意識を外側ではなく、内側に向けるためのものです。ラマナ・マハルシは、対話の中でこう言っています。

質問者:「私」を探し出すという教えが与えられたなら、それが何であるのかが示されなければ、その教えは完全だとは言えません。

マハルシ:この場合、教えは方向を指し示すだけです。その指示にしたがうかどうかは探求者にかかっているのです。

真理についての教えは数多くあります。ともすれば、真理とは、自分の外側に存在しているようにも感じられるものです。神という存在が実在するのなら、それは自分の外側にいるはずだと感じる人も少なくないんじゃないでしょうか? なので人は、世界とは何か、空間とは何か、時間とは何か、宇宙とは何か、ブラフマンとは何かということを知りたいと思ったりします。それが真理の探求の方向性のように感じられるんです。でも、実際のところは、方向性が真逆だということを「私は誰か?」という言葉は示しています。

でも、それは方向性を指し示しているだけです。「私は誰か?」の答えは、ラマナ・マハルシ自身が答えてしまっています。それは「ハート」です。でも、「私は誰か? それはハートである」と思うことに何の意味があるでしょうか? 北に向かうということが、北極に向かうことだと理解できたとしても、実際のところ、北極にたどり着く必要があります。「私はハートである」と思ったとしても、それは言語的な理解でしかなく、そこには本質的な理解がともなわないんじゃないでしょうか?

パターン2:沈黙にとどまる

ラマナ・マハルシは、「沈黙」という言葉も良く使います。「沈黙にとどまりなさい」とか「ただ、静かにしていなさい」と言ったりします。この言葉は、「私は誰か?」という言葉よりも、グッと具体的なんじゃないかと思います。そしてまた、「ハート」のように理解しがたい表現でもありません。

ラマナ・マハルシの教えを実践するにあたって、多くの人に理解しやすいのが、この「沈黙にとどまる」ということなのではないかと思います。もちろん、ラマナ・マハルシは簡単に「沈黙にとどまりなさい」とか「ただ、静かにしていなさい」と言ったりするのですが、実際のところは、その実践は難しいことでもあったりします。きっと、黙ってなんていられないんじゃないかと思います。静かにしていようと思っても、勝手に思考が湧き上がってくるはずです。なので、ラマナ・マハルシの言う、「沈黙にとどまりなさい」という言葉は、瞑想の実践を推奨していることとほぼ同義です。

ラマナ・マハルシは、どの瞑想方法が良いとか具体的には言っていません。ラマナ・マハルシ自身、瞑想を実践することなく真我実現してしまったので、瞑想についての経験を語ることがありません。なので、それは何だっていいのだと思います。「私は誰か?」と問うのはもちろん、ヴィパッサナー瞑想、サマタ瞑想、マインドフルネス、坐禅、マントラ、ヨガ、などなど選択肢は色々あります。その目的が、「沈黙にとどまること」だということさえ忘れなければ、それは、ラマナ・マハルシの教えを実践していることになるのではないかと思います。ラマナ・マハルシは、対話の中でこう語っています。

質問者:瞑想をしていると、些細なことで立ち止まってしまうときがあります。「私は誰か?」と尋ねると、私の論法はこのように展開します。「私は手を見ている。誰が見ているのか? 私の目だ。どうやって目を見るのか? 鏡の中で。私を見るときには鏡が必要なように」。私の質問は、「私の中のどこに鏡をおけばいいのでしょうか?」というものです。

マハルシ:それでは、なぜ「私は誰か?」と尋ねたのですか? なぜ困難があるなどと言うのですか? ただ静かにしていることもできたはずです。どうして静寂から立ち去ったのですか?

質問者:このように問いただすことは集中の助けになるのです。恩恵は集中だけなのでしょうか?

マハルシ:それ以上の何を望むのですか? 集中が要点なのです。何があなたを静寂から連れ出したのでしょう?

質問者:知らぬうちに連れ出されたのです。

マハルシ:「私は誰か?」と尋ねることは「私」の源を見いだすことです。それが見いだされたとき、あなたの探求は完結するのです。

また、ラマナ・マハルシは、他の対話の中でこのようにも語っています。

質問者:あなたが言われるように、想念から自由になるには何をすべきでしょうか? ただ「私は誰か?」という探求だけが必要なのでしょうか?

マハルシ:ただ静かにしていなさい。そうして、何が起こるか見てみなさい。

質問者:それは不可能です。

マハルシ:そのとおりです。それゆえ、「私は誰か?」という問いが奨励されるのです。

質問者:「私は誰か?」と尋ねても、内側から何の反応もないのです。

マハルシ:いったいどのような反応を期待すると言うのでしょう? あなたはそこにいないと言うのでしょうか? それ以上何を求めると言うのでしょう?

質問者:想念がとめどなく湧き起こってくるのです。

マハルシ:そのときその場で「私は誰か?」と尋ねなさい。

パターン3:ハートにとどまる

ラマナ・マハルシは「ハートにとどまりなさい」とも良く言います。ラマナ・マハルシが、本当に推奨しているのはこれです。でも、実際のところ、それを実践できる人は限られた人だけです。そのことはラマナ・マハルシ自身も自覚しているので、ラマナ・マハルシは、すべての人に対して「ハートにとどまりなさい」とは言いません。まずは「私は誰か?」と問いなさいと言いますし、「ただ、静かにしていなさい」と言ったりします。

ハートにとどまるということは、真我探求なのであり、それは瞑想とは違います。瞑想には様々な方法があって、その中から、自身に合うやり方を選ぶことができます。でも、真我探求には、ハートにとどまるという一つの方法しかありません。その違いを理解することができないのであれば、それはハートにとどまるということは、その時点では不可能だということです。人によっては、「沈黙にとどまりなさい」という言葉よりも、「ハートにとどまりなさい」という言葉に興味を持つこともあるかもしれません。でも、そこには「沈黙とハート、どちらを選んでもいい」というような選択肢があるわけじゃないんです。

ラマナ・マハルシが「ハートにとどまりなさい」と言う時、起こりやすい誤解として、「感情を感じる場所にハートの感覚をイメージする」と解釈してしまうことがあります。でも、それは真我探求ではなく、瞑想です。瞑想の目的は何だったでしょうか? 沈黙にとどまれるようになることだったんじゃないでしょうか? 「私は誰か?」ということの答えを、沈黙の中で見いだすことが目的だったんじゃないでしょうか? であるなら、ハートの感覚をイメージしようとしている、その人は一体誰なんでしょうか? その人こそが、沈黙するべき当の本人です。なので、「感情を感じる場所にハートの感覚をイメージする」ということは、「ハートにとどまる」ということとは違うし、もっと言ってしまえば、「私は誰か?」という真理の探求全体をつらぬく大きな指標からもズレてしまっているんです。それは内側に向かっているようで、外側に向かっている方向性です。ラマナ・マハルシは、対話の中でこのように語っています。

質問者:どうすれば真の「私」と偽りの「私」を区別できるでしょう?

マハルシ:自分自身に気づいていない人がいるでしょうか? 誰もが知っていながら、誰も知らないのが真我なのです。奇妙な矛盾です。心が存在するかどうかと探求すれば、心は存在しないということがわかるでしょう。それが心を制御する方法です。しかし心が存在すると見なしたうえで、それを制御しようとすれば、心が心を制御することになってしまいます。それはちょうど泥棒が警官を装って泥棒を捕まえようとするようなものです。心はそのような方法にばかり固執しておいて、巧みに逃れるのです。

ハートをイメージしようとするのは、心という名の泥棒です。ハートをイメージしようとしているうちは、心は警官のフリをすることができます。「ラマナ・マハルシも『ハートにとどまりなさい』と言っているし、私にはそれを実践する義務がある」と思うことができます。でも、ハートをイメージする必要がないのであれば、心には存在理由がなくなってしまいます。心には、そもそも真我のような実体がないため、存在理由がなくなれば消えてしまいます。心はそうなることを恐れています。でも、ハートを覆い隠しているのは他でもない心なんです。ラマナ・マハルシはこのように語っています。

「私」は認識不可能だと言うのは誰でしょうか? そこには無知な「私」ととらえがたい「私」が存在するのでしょうか? 同じ人の中に二人の「私」が存在していると言うのですか? 自分自身に尋ねてみなさい。「私」は認識不可能だと言うのは心なのです。その心はどこから現れるのでしょうか? 心を知りなさい。そうすれば、あなたはそれが作り話であることを知るでしょう。ジャナカ王は「ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。即刻死刑に処してくれよう! これで私は幸せになるだろう」と言いました。同じことが他の人にも言えるのです。

心には実体がありません。それゆえに、心は、沈黙するなら消えてしまいます。心とは、言葉やイメージでしかないからです。でもそれは、この「私」の消滅でしょうか? 心が沈黙していようとも、この「私」は存在しているんじゃないでしょうか? ハートとは何かを理解できずとも、沈黙することはできるはずです。もちろん、そこには感情的な葛藤があるはずです。心は、自身が消えてしまうことを嫌がります。でも、そもそも、心には実体がないんです。その感情的な葛藤は、不変的なものでしょうか? それとも、一時的なものでしょうか? 感情的な葛藤が消えた後には、何が残るでしょうか? 沈黙にとどまることによって、そのことを理解するのなら(泥棒を捕まえたのなら)、人は自然とハートにとどまることができるようになるかもしれません。そしてそれは、真我実現へと繋がっていきます。

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