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不二一元論・非二元論

たった数日で真理を悟ることは可能なのか?【非二元性を巡る考察】

今回は、読者の方から質問を頂きまして、「たった数日で真理を悟ることは可能なのか?」ということについて考察したいと思います。すぐに悟れるという考え方は、得てして、非二元論に多い印象です。非二元論といえば、トニー・パーソンズの「あなたにできることは何もない」という言葉を思い出しますが、最近の非二元論は、そこまで極端ではなく、ある程度の方法論があるようです。

悟りと言っても色々と定義があり、僕はインドの伝統的な「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)」の考え方を踏襲しています。詳しくはこちらの記事「悟りの段階は3つあるけど、意図的に目指せるのは2つだけ」を読んでいただくと分かりやすいのではないかと思います。なので、僕としては、たった数日で悟るなんてことはあり得なくはないだろうけど、難しいだろうなと考えています。でも、非二元論の悟りの定義では、それは可能なようです。

※非二元論といっても、最近は様々な解釈があるようなので、一部の非二元論についての考察ということになると思います。

内面的な二元性の消滅が悟りなのか?

非二元論では、どうやら内面的な二元性の消滅が、悟りの定義になっているようにも思えます。

例えば、「あ〜、めんどくさい」と思った時に、そう思ったことに対して、「いやいや、そんな事思っちゃいけない!」とか思ったりすることありますよね。後者の自分は、前者の自分がどう思うかをコントロールしたいわけです。どちらも自分なのですが、それは対立したようなところもあって、二元的に感じられるものです。

非二元論では、その内面的な二元性を消滅させるための方法論を実践するようです。その具体的な内容はあまりよく分かりませんが、芸術の分野には、「即興」という似たような方向性を持つものがあったりします。僕の身の回りにも、即興パフォーマーが何人かいるので(即興ダンスだったり、即興演奏だったり、即興演劇だったり)、多少の馴染みがあります。

彼らが何をしているのかというと、いかにして、自我を落としてパフォーマンスすることができるのかということに、真剣に取り組んでいるわけです。例えば、「うまく踊りたい」という自我をいかにして落とすかとか。それは、坐る瞑想とは違うのですが、いかにして自我を落とすかという点において、行動する瞑想と言ってもいいのかもしれません。実際、自我が落ちた状態でパフォーマンスできると、すべてとの一体感が感じられたりするようです。その状態を指して「悟り」と言う人もいます。

僕は即興パフォーマンスはしませんが、もし、僕が意図的に内面的な二元性を消滅させたいと思うのなら、眼の前の一点に軽く意識を集中させて、自分の思考の観察を始めると思います。そして、現れた思考や行為に対して、即時に「YES」という反応を示します。そういったことを繰り返すと、内面的な二元性を消すためのトレーニングになるかもしれません。

内面的な二元性というのは、得てして、集中力と関係しています。例えば、昼間にやらかしてしまった失態に対して、夜、部屋の中でくよくよと悩んでいたとします。典型的な二元性ですね。でも、もし、そこで火事でも起これば、それどころではないですよね。一瞬にして二元性は消滅し、本能的な行動に身を任せることになると思います。内面的な二元性が現れるのは、良くも悪くも、「余裕」があって「暇」だからです。なので、方向性としては、その「余裕」と「暇」を、不自然にならない程度の集中力で埋めていくということをすると思います。

なので、数日間、そういったトレーニングを積んで、内面的な二元性を消滅させるコツを掴むということは十分にあり得るのではないかと思います。場合によっては、それで悟ったと感じる人がいてもおかしくはないかもしれません。

その腕には「自我」と書かれたキャプテンマークが巻かれていないか?

悟りというのは定義によって変わってきますが、僕が非二元論について不思議に思うことは、「自我」という言葉の定義がかなり恣意的なことです。

自我とは一体何なんでしょうか? 非二元論では、自我とは、自分自身が思ったことに対して、「あ〜だこ〜だ」と文句を言ってコントロールしたがる人のことを言うように思えます。でも、自我というのは、固定的な誰かのことではなく、記憶をベースにした、生きるためのシステムそのものと言ってもいいかもしれません。本当の意味で、「自我は消滅した」と言えるのは、記憶喪失になってしまった時だけです。もし、その時、そう言えるのならということですが。

なので、内面的な二元性が消滅するようにトレーニングをした人が、それを達成して、「自我は消滅した」と主張することは、とても妙なことなんです。というのも、自分自身が自我であるのに、「自我は消滅した」と言っているからです。自分自身の腕に、「自我」と書かれたキャプテンマークが巻かれていることに気がつかないでしょうか?

自我とは特定の誰かではなく、その腕に、キャプテンマークが巻かれたものです。自我というのは〝役職名〟みたいなものなんです。例えば、サッカーでは、「キャプテン」は黄色いキャプテンマークを腕に巻いたりします。でも、キャプテンマークは、その人固有のものではなく流動的です。例えば、選手交代で、「キャプテン」がフィールドの外にでる時、キャプテンマークは他の誰かに手渡されます。そして、他の誰かが、その腕にキャプテンマークを巻き、新たな「キャプテン」となります。

それと同じようなことが、この生きるというシステムの中でも起こっているんです。「自我」と書かれたキャプテンマークは、その時の、自分という感覚の在り処を示す目印みたいなものです。意外に思うかもしれませんが、そのキャプテンマークは、ハートにまで廻ってきます。ハートも、「自我」と書かれたキャプテンマークをその腕に巻くんです。自我という言葉に、ネガティブなイメージを抱いていると奇妙に感じるかもしれませんが、キャプテンマークそのものは、なんの性質ももちません。ただ、その時の、自分という感覚の在り処を示すものです。なので、ハートがキャプテンマークを巻いている時、「私はハートである」と感じるだけです。それが、インドの伝統的な意味での非二元性(梵我一如)です。

一方、非二元論では、自我という言葉を、特定の誰かを示すように使いたがる傾向があるように思えます。自我とは、「自分自身が思ったことに対して、『あ〜だこ〜だ』と文句を言ってコントロールしたがる人のこと」という定義づけがなされているようにも思えます。裏を返せば、それ以外は、〝自我では無い〟と思っているのではないかと思います。

なので、非二元論では、内面的な二元性が消えると、その人は「自我が消えた」と感じたりします。でも、実際のところ、自我というのは生きるためのシステムなのであり、無意識的なコントロール欲求が隠れています。例えば、即興パフォーマンスでは、いかにして自我を落とすかということをトレーニングするわけなんですが、「ステージに立って即興パフォーマンスを行う」という根本的なコントロール欲求を手放すわけにはいかないでしょう。その自覚があるかないかはその人に依ると思いますが、それは自我なんでしょうか? それとも自我ではないんでしょうか? もし、それが自我であったとしても、その自我を落とすわけにはいかないでしょう。

それと同じようなことが、非二元論にも当てはまるんじゃないかと思います。もし、内面的な二元性を消滅させることが悟りなのだと定義づけられているのなら、そのコントロール欲求を落とすわけにはいかないでしょう。

自我の自覚なく生きるなら、ハートの感覚から遠ざかるのは当たり前

内面的な二元性が生じるのは、人が持つ自然な働きであって、放っておくと、自然とそうなっていくものです。誰もが努力なく、内面的な二元性を認識しているのではないかと思います。人は本質的に、この身体に限定されているわけではないので、そうなっていくのは当然です。なので、実のところ、内面的な二元性を消滅させ続けようとすることは、とても不自然なことなんです。ここに非二元論の限界があります。いつまでも非二元性を保つために努力し続けなければいけないからです。

非二元論では、ハートの実在が否定される傾向にありますが、そうなるのは当然です。非二元論の方向性は、自身への束縛なのであって、ハートの感覚から遠ざかっていくことは当たり前だからです。

ハートの感覚とは何かと言えば、僕はよく、「仕事から解放された感覚」と言うことが多いです。その感覚を知らないという人はいないと思います。それは、必ずしも、その仕事の結果が重要なわけじゃなくて、成功しようが、失敗しようが、「もう何もしなくていい」と感じると、解放感を感じたりします。実のところ、ハートの感覚というのは、外部の環境とか、行為(瞑想にだって)に理由があるわけじゃなくて、内面的な問題なんです。なので、真理の探求において大事なのは、その内面的な、解放と束縛の因果関係を探っていくことです。

そういった意味で、非二元論の、内面的な二元性を消滅させるという方向性は決して間違ってはいません。自分自身をコントロール(束縛)しようとする自我を、消滅させてしまおうということですね。それは、自身への解放にも繋がるようにも思えます。でも、非二元論の問題点は、それを、更に強いコントロール欲求で実現させてしまおうとすることです。それでいて、そのコントロール欲求を持つものは、その腕に「自我」と書かれたキャプテンマークが巻かれていることにも気がつかずに、「自我は消滅した」と主張するんです。

その後、どうなるのかと言えば、キャプテンマークが巻かれたもののコントロール欲求に従って、日常生活を送ることになるんじゃないかと思います。大抵の場合、それは多くの人と同じように、嫌な感情を避け、心地よい感情を求めての行動になるでしょう。ハートにとどまるという選択肢はないはずです。つまりは、何も変わりません。でも、内面的な二元性が消滅しているなら、「それでいいんだ」というのが非二元論なのでしょう。

もちろん、それで何も問題を感じないのであれば、「それでいいんだ」と思います。でも、僕が不思議に思うのは、非二元論では、ネガティブな感情を、ポジティブに感じさせようとする誘導が行われることがあることです。例えば、「怒るということは、ある意味では充実感を伴うものであって、それは真理の現れである」というようなものです。それは、そうであって欲しいという願望でしょうか? 怒るということが、何を指すのかは、それを感じているその人にしか分かりません。

もちろん、感情というのは身勝手なもので、自我によるコントロール欲求でどうにかなるというものでもありません。むしろ、コントロールしようとすればするほどに、束縛されているように感じて、ネガティブな感情が起こることが増えていくかもしれません。それらのネガティブな感情は、充実感として感じなければいけないんでしょうか? 「ネガティブな感情を充実感として感じなければならないんだ」というコントロール欲求に捕らわれてしまうなら、内面的な二元性を消し続けることはとても困難になっていくでしょう。これが、非二元論の行き着く限界なのではないかと思います。

探求の方法論は、良い悪いではなく、その目的が重要

近年においては、真理の探求がマーケティング対象になってしまって(それは近年に限らないのかもしれませんが)、本来は、探求しなくてもいい人が、探求の道に入っているということが少なくないような気がしています。

本来、真理の探求というのは、生きることに飽きてしまったとか、虚無感に苛まれているとか、死の恐怖を克服したいとか、そういう人のための、ニッチの中のニッチな道なはずなのですが、近年においては、人生をより楽しむための選択肢のひとつとして、探求が組み込まれてしまっているようなところもあります。

そうなると、そういった人には、当然、インドの伝統的なやり方とかは向かないわけです。インドの伝統的なやり方は、コントロール欲求を落とすことで、逆説的に、〝そのコントロール欲求から〟解放されることを目的としています(その葛藤が苦しみとして感じられることも多いです)。なので、僕はそういった人向けには、「好きなことを飽きるまでとことんやってみてはどうでしょうか?」とか言ったりします。わざわざ、マーケティングのミスリードにのせられる必要もないわけです。もしくは、それでも探求に興味があるという人には、例えば、霊性の道とかを勧めることもあるかもしれません。

それと同じように、もしかすると、非二元論というのはそういった人には向いているのかもしれません。非二元論は、コントロール欲求を落とすことを目的にしているようでいて、実は、さらにコントロール欲求を強めるという方向性です。内面的な二元性を消滅させるという行為を、ゲーム感覚で日常生活の中で楽しんでいくことができるかもしれません。

別にそれは良い悪いの問題ではなく、向き不向きの問題です。不思議なことに、非二元論では、インドの伝統的なやり方である、瞑想することや、感情を丹念に観察していくことを、まるで目の敵のようにして否定する傾向がありますが、それは、向き不向きへの自覚がない、無知ゆえなのかもしれません。

最後に、アドヴァイタ(非二元性の教え)の創始者でもある、シャンカラの言葉を、『ウパデーシャ・サーハスリー』から引用して終わりにしたいと思います。

ヴィシュヌ神は、武器を持ち恐ろしい形相の狩人に扮したインドラ神を介して甘露を与えようとしたが、聖者ウンダカは、それが狩人の排泄器官から出ていたために、折角の甘露を「尿ではないか」と考えて受け取らなかった。そのように、人々は、行為が止滅することを恐れて、アートマンの知識を受け取らない。(5・1)

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