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瞑想的な日常生活というのは、本当にこれでいいのだろうか?【Q&A】

今回は、KAYUさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。KAYUさん、ありがとうございます。

※1万文字ほどの長文です。

KAYUさんからの質問

始めまして、KAYUと申します。約1年前に空白JPを見つけ、それ以降、ブログを読ませていただいています。

もともと瞑想に興味があって、空白JPに出会う前から瞑想を実践していました。そして、実践の甲斐もあって、山家さんが瞑想修行のゴールとして設定されている「30分間ほぼ何も考えずにいること」を、先日達成できました。なので、次のステップとして、瞑想的な日常生活を10日ほど前から試みているところです。

ただ、実際に実践する中で、「瞑想的な日常生活というのは、本当にこれでいいのだろうか?」という疑問が湧いてきました。まだうまく自分の中でも疑問点がまとまっていないのですが、山家さんにお聞きしたいことがございます。

私がお聞きしたいのは、生活全般にわたって「気づきの感覚」を維持するべきなのかどうかについてです。現状、生活の中で思考に振り回されることは少なく、「我を忘れて考え事に夢中になる」というようなことはあまりないのですが、そうなると、「我を失わない」=「我(観察者)が常に居る」という状態になります。なんとなく、観察者(意志)が常駐していて、生活の中で浮かんでは消える思考やイメージ、身体の感覚、自分の言動などに対して、全体的に気づいている感じでしょうか。

瞑想的な日常生活を始めた最初の数日は、「この気づきをずっと維持するのが瞑想的な生活なんだ」と思っていました。しかし、それだと、観察者(意志)の存在が強く前面に出てくる感覚がして、次第にそれが気にかかるようになりました。どこに行って何をしていても観察者(意志)がくっついてきている感じがして、はなはだ鬱陶しいのです。

実際、内側が静かになっているように思えても、「俺はずっとここにいるぞ」と観察者(意志)が自己主張しているような気がします。どうしようもないほどに、自分と意志が一体化している感覚がそこにはあります。

ただ、意志との一体化の感覚が弱まる時もあります。それは、頭の中が空っぽのまま、ボーっとしている時です。特に考え事をしているわけでもなく、無意識にボケーっとしている時、観察者(意志)はどこかに行ってしまっています。そういう時には、解放感と心地よさのようなものを感じて、ホッと落ち着くことができます。「やっと観察者(意志)から自由になれた」という感じがするからです。

ただし、ボケーっとしているわけですから、気づきの感覚はかなりの程度まで失われてしまいます。見方によっては、「居眠り一歩手前」みたいな状態なので、これを瞑想状態と言っていいのかは、はなはだ疑問です。でも、思考も意志も不在になるのは、現状、そんな風にボケーっとしている時くらいです。そのため、ひょっとすると、意志の存在感を弱める上では、こうした時間も大事なのではないかという気がしてきています。

私の現状は以上のような感じです。基本的には観察者(意志)が生活全般にわたって気づきを維持しているのだけれど、観察者(意志)が消えることなく常駐していて鬱陶しい。ボケーっとしている時は観察者(意志)が消えるけれど、気づきもなくなる。

この場合、観察者(意志)のことはあまり気にせず、気づきを維持したほうがいいのでしょうか? それとも、ボケーっとしている時の、観察者(意志)が消えた感覚を大事にしたほうがいいのでしょうか? あるいは、もっと長い期間、瞑想的な日常生活を続けていけば、いつかは「観察者(意志)が消えているけど気づきは消えない」みたいな「良いとこどり」ができるようになったりするのでしょうか?

長文になってしまい申し訳ありませんが、お時間のある時にお返事いただけましたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

回答

KAYUさん。こんにちは。1年ほど前から空白JPを読んでいただいているんですね。ありがとうございます。

結論から言ってしまえば、脇道にそれることなく、素晴らしい実践をされているなと思います。

私がお聞きしたいのは、生活全般にわたって「気づきの感覚」を維持するべきなのかどうかについてです。現状、生活の中で思考に振り回されることは少なく、「我を忘れて考え事に夢中になる」というようなことはあまりないのですが、そうなると、「我を失わない」=「我(観察者)が常に居る」という状態になります。なんとなく、観察者(意志)が常駐していて、生活の中で浮かんでは消える思考やイメージ、身体の感覚、自分の言動などに対して、全体的に気づいている感じでしょうか。

まさしく、このことは僕も感じていたジレンマです。世間一般的には、このような状態になることがゴールだと言われていたりしますが、いざ、このような状態になっても、むしろ、観察者(意志)が常駐しているという感覚が強くなると思います。そして、そのことを問題であるように感じるんですよね。

でも、このジレンマは、観察者(意志)が自分自身が「気づきの感覚」を有しているという感覚からやってくるものなんです。これが、実のところは錯覚なのであって、観察者(意志)が思っている「気づき」というのは、実際のところは「集中力」のことだったりします。

修行としての瞑想の実践にしても、実際のところ、気づきは常にここにあるわけなんですが、集中できていない場合には、それは「瞑想ができていない」と感じられるのではないかと思います。もちろん、修行としての瞑想の場合には、勝手に湧き上がる思考やイメージに巻き込まれてしまうのは避けたいですし、そのためには、思考やイメージや全体を対象物として、ある程度の集中力を保つ必要があると思います。そのことを、「気づきの感覚を維持する」と言ったりもするのですが、実際のところは、「気づき」と「集中力」には違いがあります。ただ、修行としての瞑想の場合には、そのことを分別する必要がない(分別できない)ため、あまりその違いについては気にする必要がなかったりします。

でも、瞑想的な日常生活になってくると、まさしく、その違いが論点になってきます。限られた時間だけ集中力を保つということは(慣れれば)簡単だったりしますが、それが日常生活全体でということになると、どうしてもその集中力が気になってきますよね。まさしく、「俺はずっとここにいるぞ」と主張しているように感じられるわけです(笑)

この場合、観察者(意志)のことはあまり気にせず、気づきを維持したほうがいいのでしょうか? それとも、ボケーっとしている時の、観察者(意志)が消えた感覚を大事にしたほうがいいのでしょうか?

「気づき」とは何かという錯覚があるうちは、ここには2つの選択肢があるように感じられるかもしれませんが、実際のところは、この2つのご質問は、同じことを意味していたりもするんです。気づきを維持することと、観察者(意志)が消えた感覚を大事にすることは、実は同じことかもしれません。

あるいは、もっと長い期間、瞑想的な日常生活を続けていけば、いつかは「観察者(意志)が消えているけど気づきは消えない」みたいな「良いとこどり」ができるようになったりするのでしょうか?

瞑想的な日常生活の目的は、「気づき」とは何かということの錯覚が解けることなのであり、それは、自分とは何かということのアイデンティティが、観察者(意志)から観照者(気づき、というかサット・チット・アーナンダ)にシフトすることなんです。それは、「良いとこどり」というよりは、「錯覚が解けた」と感じられることになるんじゃないかと思います。

もちろん、「そのためにはどうすればいいのか?」ということでご質問いただいていると思いますが、結論を言ってしまえば、そのジレンマを感じているということ自体が、その方法になります。思考を観察していれば、やがてその思考も消えていくように、そのジレンマも、感じていればやがては消えていきます。なので、脇道にそれることなく、素晴らしい実践をされているなと感じます。

なんであれ、やりたいと思ったことはやってみると良いと思います。何もしたくなければ、何もしなければ良いと思います。ジレンマを感じるなら、迷いながらも、あやふやな感じでいいと思います。

特に考え事をしているわけでもなく、無意識にボケーっとしている時、観察者(意志)はどこかに行ってしまっています。そういう時には、解放感と心地よさのようなものを感じて、ホッと落ち着くことができます。「やっと観察者(意志)から自由になれた」という感じがするからです。

観察者(意志)が何かしらの目標を持つこと(集中力を行使しようとすること)は、自身にとっての解放になるのか? それとも、束縛になるのか? そのことを瞑想的な日常生活の中で確認していくといいかもしれません。

ただし、ボケーっとしているわけですから、気づきの感覚はかなりの程度まで失われてしまいます。見方によっては、「居眠り一歩手前」みたいな状態なので、これを瞑想状態と言っていいのかは、はなはだ疑問です。

とはいえ、それは集中力を行使してはいけないというわけじゃないんです。それこそ、眠ってしまうことは避けたいですし、思考やイメージに巻き込まれて自覚がなくなってしまうことも避けたいことです。なので、集中力を行使するということは必要なのですが、言ってみれば、完全制圧することが目的ではなくなってしまう感じです。

例えば、日本の戦国時代に例えるなら、天下統一するためには、ある程度の外向的な武力が必要とされると思います。でなければ、天下統一することは難しいですよね。でも、いざ、天下統一したとして、その外向的な武力は必要なくなるでしょうか? 完全に「必要なくなる」とは言いづらいんじゃないかと思います。その武力が行使されることは少なくなるかもしれませんが、いざというときには行使できるだけの武力が保たれている必要はあります。

今のKAYUさんの状況は、天下統一を果たして、その有り余る武力(集中力)が、その行き場を見失っているという感じかもしれません。だからこそ、その存在感がとても強く、「俺はずっとここにいるぞ」と感じられますし、ある意味では、次の制圧対象を探しているのかもしれません。

ともすれば、観察者(意志)にとっては、真我ですら制圧対象であるかのように感じられるものです。でも、それは自分の外側にあるものではなく、自分の内側にあるものなんです。KAYUさんには、すでにその目星はついているのではないかと思います。

修行としての瞑想というのは、内側に向かっているようで、実際のところは外側に向かうことです。瞑想的な日常生活を実践することによって、ようやく、本当に内側(自分が収まるべき場所)に向かうことができるようになるのではないかと思います。

KAYUさんからの返信

山家さん。丁寧なメールをいただき、ありがとうございました。

「素晴らしい実践をしている」とまで言っていただき、とても励みになりました。これからも、時に迷いつつジレンマを抱えつつも、進んでいこうと思います。

さて、「集中力」と「気づき」は別であるということ、そして、私が今感じているジレンマは感じ続けるうちに消えていくということですね。了解いたしました。

意志と意識、観察者と観照者の違いは、私にはまだよくわかっていないことの一つです。どうしても両者が混じりあって一緒になってしまう感覚があります。純粋な気づきとして留まろうと思っても、そこにはいつも「気づきとして留まろうとする努力や意図」のようなものが存在するのです。どうも今の私は、意志に仕事を与えずにおくということが難しいのだろうと思います。

意志はいつも何かをしたがっていて、たとえ無自覚な思考は収まっていても、意志として自覚的に何かを考えたがりますし、時には身体を動かして行動を起こしたがります。そして、それらを押し留めていると、今度はどこかに注意を向けて集中し出すのです。

もちろん、仕事中などには考えなければならないことも多いですし、何らかの行動を取ることも必要です。でも、仕事が終わってのんびりしていていい時間であっても、意志は「何もせずにいる」ということができず、なんとなくジタバタしています。

ひょっとすると、それが私には「鬱陶しい」と感じられたのかもしれません。「働き過ぎだから、たまには休めばいいのに」と思うのですが、なかなかそういう瞬間は訪れないです。私の意志は「ワーカホリック」なのかもしれません(苦笑)

それについては、「もしも休んだら意志が消えてしまうから、消えることに抵抗しているのかな?」とか、「今までずっと働き続けてきたから、休み方がわからなくなっているのかな?」とか思ったりしています。

実際、瞑想修行の実践によって、働くこと(集中すること)は学んできましたが、休むこと(何もしないこと)は学んできませんでした。無自覚な思考を静かにするためにはそれが必要なことだったとはいえ、瞑想修行によって思考が無くなった分、意志は騒がしくなったと思います。これからは新たに何か「すること」を学ぶというよりは、既にしていることを止めて「しないこと」を学ぶ時期なのかなとも思っています。

そう言えば、「しない」ということについてですが、実は先日、集中力が続かなくなって、あまり集中しないで過ごした日がありました。

「自分は瞑想的な日常生活を始めたんだ、頑張るぞ」という最初の高揚感や緊張感がなくなってきて、集中し続けるのにもいささか疲れてきた日のことでした。瞑想修行によって集中することに慣れていたとは言え、人間である以上ずっと集中し続けられるわけがありませんから、集中力が途切れたわけです。

ですが、あまり集中していなくても、それほど思考は増えませんでしたし、気づきがなくなるということもありませんでした。それどころか、集中という努力をしていないこともあってか、いつも以上に安らかな心地で過ごすことができたのでした。

それまでは、「思考を収めて、気づいているためにも、ずっと集中して見張っていないといけない」と思い、どこか神経質になっていたのですが、その日以降、肩の力が抜けた感じがしています。「なーんだ、そんなに頑張ってずっと見張っていなくても、意外と大丈夫じゃないか」ということがわかったからだと思います。

そういった経験もしたので、集中することに前ほど固執しなくなりました。むしろ、集中を手放すほうが安らぎがあるということもわかりました。

もちろん、山家さんのメールにもありましたように、眠りこんだり思考やイメージに巻き込まれたりしない程度の集中力は必要だと思いますが、もうこれ以上集中力を鍛える方向には進まなくてもいいかなと思っております。

回答

KAYUさん。こんにちは。

それまでは、「思考を収めて、気づいているためにも、ずっと集中して見張っていないといけない」と思い、どこか神経質になっていたのですが、その日以降、肩の力が抜けた感じがしています。「なーんだ、そんなに頑張ってずっと見張っていなくても、意外と大丈夫じゃないか」ということがわかったからだと思います。

そういった経験もしたので、集中することに前ほど固執しなくなりました。むしろ、集中を手放すほうが安らぎがあるということもわかりました。

もちろん、山家さんのメールにもありましたように、眠りこんだり思考やイメージに巻き込まれたりしない程度の集中力は必要だと思いますが、もうこれ以上集中力を鍛える方向には進まなくてもいいかなと思っております。

そうだと思います。KAYUさんはもうすでに十分な集中力が身についているのではないかと思います。

ただ、力の抜き方が難しいというか、初めて自転車に乗るような感じで、慣れないうちは無駄に力が入ってしまうことは避けられないかもしれません。でも、瞑想的な日常生活を続けているうちに、次第に、適切なバランスに落ち着いていくのではないかと思います(意図的にそうするというより、自然とそうなっていく感じですね)。

ともあれ、修行としての瞑想では、勝手に現れる思考やイメージなどが観察対象となりますが、瞑想的な日常生活では、観察者(意志)自身が自身を観察するということが多くなります。勝手に現れる思考やイメージというのは、観察していれば消えてしまいますが、観察者(意志)自身というのは、観察しようとしているうちは消えたりはしないと思います。

例えるなら、眼の前にロウソクの火があって、右手ではロウソクの火が消えないようにガードしながらも、左手ではロウソクの火を消そうとあおいでいるというような構図があるんです。右手と左手、どちらも自分だと言えると思えるのですが、そこには一体どんな違いがあるのか? 瞑想的な日常生活を続けているうちに、段々とその違いが明確になっていくのではないかと思います。

KAYUさんからの返信

山家さん。こんにちは。お返事のメールありがとうございます。

その後、集中力の出力調整をしていまして、徐々にですが、あまり力まずに内面が静かな状態を維持できるようになってきました。

時には、頭の存在感が無くなり、胸に降りてくるような感覚がして、穏やかで安らかな心地で過ごすことのできる時もあり、「これがハートなのかな?」と思ったりもしています(実は、まだハートの感覚がよくわからないのです)。

ともあれ、修行としての瞑想では、勝手に現れる思考やイメージなどが観察対象となりますが、瞑想的な日常生活では、観察者(意志)自身が自身を観察するということが多くなります。勝手に現れる思考やイメージというのは、観察していれば消えてしまいますが、観察者(意志)自身というのは、観察しようとしているうちは消えたりはしないと思います。

観察しようとする限り、観察者(意志)は消えることがないというのは、感覚的にすごくよくわかります。

無自覚な思考がなくなってくると、代わりに観察者(意志)のほうばかりを観察するような感じになるので、瞑想的な日常生活を始めた当初はその存在感がなおさら強く感じられたのかもしれません。

実は最近、「観察者(意志)に何も仕事を与えず、ぼんやり過ごす時間」というものを生活の中に設けるようにしています。特に集中もせず、それこそ観察しようとすることさえも手放して、ただただ時間を過ごすという試みです。私の場合、これまでは観察者(意志)が働きっぱなしだったので、少し休む時間を作ろうと思ったのです。

ただ、ワーカホリックの人が休日に落ち着かなくなるのと同じで、最初はなかなかゆったりした気持ちで過ごすことができませんでした。観察者(意志)は絶えず何かをしたがりますし、することがないことで私自身も退屈を感じたりしました。

でも、少しずつですが、「何もせずぼんやり過ごす」ということに慣れてきている気がしています。退屈もあまり感じなくなってきましたし、観察者(意志)が休んでいる間は、自分自身もホッと落ち着く感じがします。まるで我が家に帰ってきてくつろいでいる時のような感覚です(まあ、実際に我が家で何もせずくつろいでいる状態なわけですが)。

このところは、その感覚がけっこう好きになってきたので、暇な時間があると何もせずぼんやりして過ごしています。おかげで、観察者(意志)の存在感も、いくらか弱まったように感じています。

ただ、それでもまだ観察者(意志)と観照者(意識)の違いは区別がつかないです。

観察者(意志)が時によって強まったり弱まったりするのは感覚的にわかってきたのですが、「消える」というところまではいかないように感じています。この辺は、今後の私の課題かなと思っています。瞑想的な日常生活を続けながら、確かめたいと思います。

回答

KAYUさん。こんにちは。

時には、頭の存在感が無くなり、胸に降りてくるような感覚がして、穏やかで安らかな心地で過ごすことのできる時もあり、「これがハートなのかな?」と思ったりもしています(実は、まだハートの感覚がよくわからないのです)。

ハートの感覚は、消去法的に段々と分かってくるかと思うのでそれでいいと思います。なんとなく、根拠もなく持続している感覚があるなと気づいていく感じでしょうか。

ただ、それでもまだ観察者(意志)と観照者(意識)の違いは区別がつかないです。観察者(意志)が時によって強まったり弱まったりするのは感覚的にわかってきたのですが、「消える」というところまではいかないように感じています。

これについては「消える」という表現が理解を惑わせてしまうかなと思うことがあります。

例えば、次のような目の錯覚を利用した図があったりすると思います。実際のところは、緑色の線の長さは上と下も同じなのに、下の方が長く見えるというやつですね。

観察者(意志)が「消える」というのは、これが錯覚なのだということに気づくことに近いと思います。

例え、それが錯覚なのだということを知的に理解したとしても、依然として、その錯覚は続くような感じですね。

なので、観察者(意志)が「消える」というのは、この図で言えば、緑色の線が「消える」ことなのではなく、あくまでも、この錯覚に気がついてしまう(にも関わらず錯覚自体は続く)感じに近いです。

なので、おそらく観察者(意志)というのは、KAYUさんが想像するような消え方というのはしないかもしれません。観照者は新たに現れるわけではなく、すでにここに在るものなのであり、この図で言えば、緑色の線のようなものであり、それ自体は変化しないものです。

でも、「<>」が現れることによって、緑色の線自体が変化しているようにも感じられます。観察者(意志)というのは、自分自身を、「>ー<」や「<ー>」というひとまとまりだと認識しているのですが、実のところは、観察者(意志)というのは「<>」の部分なんです。

それは、思考やイメージや、変化する感情(不変なはずの緑色の線が錯覚によって長く感じたり短く感じたりする)だったりします。

なので、観察者(意志)が消えるというと、最初のうちは「>ー<」や「<ー>」が、「 」になることだと感じられるかもしれません(それは不可能です)。でも、実際のところは、観察者(意志)が消えるというのは、「>ー<」や「<ー>」が、「ー」になることなんです。

それは、「消える」というよりもむしろ、「在る」と感じられるかもしれません。そして次第に、変化するように感じていた「ー」が、実は不変なんだ(錯覚は続くけど)ということに気がついていくのではないかと思います。

KAYUさんからの返信

山家さん。こんにちは、KAYUです。メールのお返事をいただき、ありがとうございます。

ハートの感覚は、消去法的に段々と分かってくるかと思うのでそれでいいと思います。なんとなく、根拠もなく持続している感覚があるなと気づいていく感じでしょうか。

私はこれまでいつも、ハートの感覚を探そう、探そうとしていました。でも、山家さんのメールをお読みすると、それは「探し出して見つけるもの」というよりも「最後まで残っていることに気づくもの」であるように思えました。

思考やイメージが消え、あらゆる感情が取り払われて、「探そう」と意志することもなくなった後に、それでも残っているものなのかなぁと。だとしたら、やっぱり「ただ静かであること」がとても重要なように感じます。

焦らず、瞑想的な日常生活を続けることで、段々とハートの感覚がわかっていけばいいなと思います。

なので、観察者(意志)が消えるというと、最初のうちは「>ー<」や「<ー>」が、「 」になることだと感じられるかもしれません(それは不可能です)。でも、実際のところは、観察者(意志)が消えるというのは、「>ー<」や「<ー>」が、「ー」になることなんです。

それは、「消える」というよりもむしろ、「在る」と感じられるかもしれません。そして次第に、変化するように感じていた「ー」が、実は不変なんだ(錯覚は続くけど)ということに気がついていくのではないかと思います。

これまでの私は、「在る」という感覚そのものをなくそうとしていたかもしれません。要は、「>ー<」や「<->」を「 」にしようとしていました。

というのも、思考やイメージが沈静化すると「自分は存在する」という感覚が強まるのですが、私にはそれが観察者(意志)由来のもののように思えていたからです。だから、「在る」という感覚を消せば、観察者(意志)も消すことができると思っていました。

でも、観察者(意志)はあくまでも「<>」の部分であって、「在る」という感覚は「ー」の部分に由来するものなのですね。いずれにせよ、「在る」という感覚をなくそうとする必要はないのだとわかり、ちょっとホッとしました。正直に言って、この感覚をなくすのは無理なんじゃないかと思い始めていたところだったので。

思考やイメージに巻き込まれると「在る」という感覚を一時的に見失いはしますけれど、それがなくなるわけではありませんし、思考や観察者(意志)が沈黙している時も、やっぱり「在る」という感覚は残ります(むしろ、沈黙の中で「在る」という感覚は強まるように感じます)。

「これが不変のものだ」という確信までは持てないのですが、どうも「在る」という感覚は取り除けないらしいということはわかってきた気がしています。

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