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瞑想

瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?

瞑想には、ゴールというものがあるんでしょうか?

このブログを読んでいる人の中には、瞑想を習慣にしている人も少なくないと思います。

なんの疑問もなく、瞑想できるのならいいのですが、場合によっては、瞑想をすることに、意味のなさを感じることもあるんじゃないでしょうか?

それは当然のことです。

むしろ、疑ってかかったほうがいいかもしれません。

実は、瞑想のゴールがあまり語られないことには理由があります。

お話します。

瞑想は、自我のためのもの。

瞑想というのは、実は、自我のためのものです。

「え?瞑想って真理を悟るためのものなんじゃないの?自我を失くすためのものなんじゃないの?」って思うかもしれません。

いやいや、実は違うんです。

瞑想というのは、自我を強めます。

瞑想というのは、自我を失くすために、一旦、自我を強くするという、逆説的な修行方法なんです。

覚者の多くは、実は、あまり積極的には瞑想を勧めないように思います。

「ただ、静かでありなさい」とか「ただ、静寂の中にありなさい」と言われることがあります。

でも、多くの人は、こういった言葉を軽く受け流すでしょう。

言ってみれば、退屈していなさいということとほぼ同じだからです。

(関連記事:退屈を楽しめるようになったほうがいい理由

あなたは、退屈の中に留まることはできるでしょうか?

「それはちょっと。。。」

という人が多いのではないでしょうか?

自我が「観察者」を演じるゲーム。

そこで、瞑想という修行方法が考え出されたのではないかと思います。

自我に「観察者」という仕事を与えたんですね。

勝手に湧き出てくる思考やイメージを抑制するために、観察者として、呼吸や眉間に意識を向けるというゲームです。

しかも、時間制限付きです。

例えば、30分とか1時間とか。

「それだったら試してみてもいいかな?」と思う人は少なくないんじゃないでしょうか?

ましてや、それで真理が悟れるとか言われたなら、必死に瞑想をする人もでてくるでしょう。

これは、ある意味では自我(あなた)を騙す行為です。

瞑想というのは、ひたすら続ければ真理を悟れるというようなものではないからです。

場合によっては、神秘体験を経験するか、霊性が高まるかもしれません。

それは、ある意味では瞑想修行の成功です。

でも、それは瞑想の副産物であり、自我は失くなるどころか、より強力になります。

30分間、ほぼ思考せずにいられるならゴールです。

瞑想は、30分間、ほぼ思考せずにいられるならゴールと言ってもいいと思います。

もちろん、完璧を目指す必要はありません。

そんなことは不可能です。

ただ、瞑想を続けていると、だんだんと思考やイメージが湧いてくることが少なくなってくることは実感できると思います。

最初のうちは、思考やイメージに振り回されていたのが、次第に、自分自身が思考やイメージをコントロールできるかのような感覚がでてきます。

観察者として、あなたは自分の中で、圧倒的な存在になっていきます。

もし、そう感じられるのであれば、そこが瞑想のゴールです。

あとは、日常生活を送るだけ。

もちろん、瞑想のゴールに達しても、真理を悟ることはできません。

「じゃあ、どうすればいいの?」って思うでしょう。

特別な何かをする必要はなく、ただ単に日常生活を送るだけです。

朝起きて、身支度をして、仕事に行き、昼食を食べて、ダラダラし、家に帰り、夕食を食べて、お風呂に入り、映画を観て、就寝します。

こういった日常生活を、瞑想的に送るようにしてみてください。

「え。。瞑想的に?」って思うかもしれません。

そうです。

瞑想的にです。

「それって時間制限のない瞑想みたいなものじゃん!」って思うかもしれません。

まあ、その通りなのですが、もし、あなたが観察者として圧倒的な存在になっているのであれば、それは可能なはずです。

歯を磨いている自分に気づき、コーヒー豆をミルで挽いている自分に気づき、人と話をしている自分に気づき、映画を観ている自分に気づきます。

言ってみれば、ブッダの言う「八正道」を実践するということです。

でも、多くの人は疑問に思うんじゃないでしょうか?

「瞑想的な日常生活に一体なんの意味があるのか?」って。

それは当然の疑問です。

僕も当然、疑問に思っていました。

「なんでブッダは八正道を勧めるんだろう?瞑想をひたすら実践するのではダメなんだろうか?」って。

今では分かります。

結局のところ、真理を悟るには八正道が1番の近道なんです。

(関連記事:ブッダは、本当に「八正道」を語ったのか?

静寂を打ち破るのは一体誰なのか?

八正道を実践するならば、日常生活の中でも、ちょこちょこと静寂が訪れるようになると思います。

座って瞑想しているわけではないのに、思考やイメージが止まり、静寂の中にいるということが増えてきます。

例えば、散歩をしている時、車を運転している時、料理をしている時。

それは、あなたが観察者として良い仕事をしているということです。

思考やイメージは、むやみやたらに暴れ回らなくなります。

そして、それは、ある時、唐突に起こります。

観察者たるあなたが、気づかれてしまうという気づきが起こります。

観察者たるあなたは、自分が気づく主体だと思っているでしょう。

そんなあなたが、気がつかれる対象になってしまうんです。

それは、静かな衝撃です。

それは、「観照者」の目覚めです。

僕は、あまり目覚めという言葉を使わないのですが、この場合には目覚めという言葉がピッタリくるかもしれません。

瞑想中、あなたは観察者として、思考やイメージに気がつくという仕事をします。

そうすると、思考やイメージは次第に消えていき、静寂が訪れます。

でも、それはずっと続くわけではないですよね。

思考やイメージは再び現れて、静寂は打ち破られます。

瞑想というのは、その繰り返しです。

静寂を打ち破るのは、思考やイメージです。

でも、八正道の場合には少し違うんです。

日常生活を送るとなると、観察者たるあなたは、黙って観察しているだけというわけにはいきません。

意志を持って、考えたり行動したりします。

例えば、「今日の夜はカレーを食べよう」とか考えます。

それって、とても当然のことですよね。

シーンとした静寂の中、あなたは、「今日の夜はカレーを食べよう」とか考えます。

それって、静寂を打ち破っているのは、観察者たるあなたということになるんじゃないでしょうか?

「。。え?確かにそうだとも言えるけど、それって当然のことじゃない?自分が静寂を打ち破ってるとは思えないな〜」って多くの人は思うでしょう。

「観察者たる自分は、自由意志を持っていて、自由に物事を考えることができて、それは意識とセットになっている」って多くの人は思うんじゃないでしょうか?

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

意識の中で、自分が意志を持って考えるということは当然だと。

だって、自分の意志で、考えることをコントロールできるというこの感覚は強力です。

それは、疑いようがありません。

でも、観照者が目覚めた時、その感覚は大きく揺らぎます。

明らかに、観察者たるこの自分が気がつかれてしまったという、言い逃れのできない感覚がそこにはあるからです。

にも関わらず、そのことに気がついたのは間違いなく、この自分なんです。

気がつく主体、気がつかれる対象、どちらも自分だということです。

一体、どっちが本当の自分なんでしょうか?

瞑想中、あなたは観察者として、思考やイメージに気がつくことになります。

あなたは、思考やイメージではないはずです。

思考やイメージは、現れては消えていきます。

だとすると、観照者に気がつかれた観察者としてのあなたというのは、本当はあなたではなく、現れては消えていくだけの存在なんじゃないでしょうか?

(関連記事:「観察者」と「観照者」の違いとは?

目覚めるのは誰なのか?

このことに気がつくことは、真理の探求において大きなターニングポイントになります。

折り返し地点と言ってもいいかもしれません。

探求の初期の段階では、自分の意志によって、真理に向かっていく、近づいていく、努力していくという感覚が強いです。

この自分が、真理に到達するんだという強い意志を持ちます。

そして、瞑想をしたりします。

瞑想ではなく、マントラやヨガ、奉仕の道を選ぶ人もいます。

それが、真理へと繋がっていると信じます。

それは、間違ってはいません。

間違ってはいないのですが、大きな思い違いをしています。

真理とは何かを知らない状態で、真理に向かえるはずがないんです。

これは、真理の探求におけるパラドックスです。

「真理」にではなくて「真理というイメージ」に向かって進んでいきます。

これは、避けようがありません。

僕も、「真理というイメージ」に向かって進んできました。

霊性の先に真理があるんじゃないかと思っていた時期もありました。

(関連記事:真理を悟るには、霊性を高めなければならない?

人格の向上が真理に繋がっていると思っていた時期もありました。

もちろん、瞑想修行が真理に繋がっているんじゃないかと思っていた時期もありました。

でも、「真理というイメージ」はまさしく幻想です。

このことは、アジャシャンティも「あなたの世界の終わり」という本の中で語っています。

アジャシャンティは、それを「でっち上げ」と表現しています。

それは、でっち上げであるにも関わらず、ある段階までは、必要なでっち上げであると言います。

確かにその通りです。

それは、無意味なものなんかではなく、起こるべきものです。

でも、悟りという現象が起こったとき、それは、自分が思っていたようなものではありようがないんです。

「真理」と「真理というイメージ」には必ずズレがあります。

「真理というイメージ」に向かうのなら、「真理」にたどり着くことはありません。

じゃあ、どうすればいいんでしょうか?

実は、その答えは、覚者が最初から言っています。

「ただ、静かでありなさい」

これが、あなたが意志を持って行うことができる、最大限の努力です。

瞑想中、あなたは、思考に巻き込まれることがあったと思います。

思考に巻き込まれている間は、自分自身でそのことに気がつけません。

でも、突如として、気づきが起きて、思考は消えます。

そして、あなたは観察者として留まります。

これと同じようなことが、観察者と観照者の間にも言えるとしたらどうでしょうか?

あなたが、観察者として活発に動き続けるのであれば、観照者は眠り続けるでしょう。

目覚めるのは、あなたじゃないんです。

意志を持った、観察者としてのあなたが目覚めるのではなく、観察者を含む、すべてに気がつく存在が目覚めるんです。

それは、個人的な存在じゃありません。

にも関わらず、それはあなたです。

「私は在る」です。

(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法