「意志」と「意識」には、一体、どんな違いがあると思いますか?
真理の探求において、意志と意識の違いを認識することは、とても重要なことだと思います。
多くの人は、なんとなく、意志と意識というものは、一緒のものだと認識しているんじゃないでしょうか?
例えば、透明な水の中に、青い水をそそいだなら、それは一体となって、分離できなくなりますよね。
意志と意識も、そんな感じに近いと感じているかもしれません。
でも、意志と意識は、別々のものです。
意志は、意識に属するもの?
真理の探求の、初期の段階では、まずは、「自分という存在は、体ではなく、意識なんだ」ということを探求していくことになります。
多くの人は、自分というのは、この体のことだと思っています。
もちろん、それは間違ってはいないのですが、体に限定されるものではなくて、体の5感覚、思考、感情に気がついている存在、つまりは、意識が自分という存在の本質です。
場合によっては、このことに気がつくことが「悟り」と呼ばれることもあると思います。
でも、僕は、それは悟りの「入り口」と言ったりもします。
というのも、自分の本質が意識なんだということを理解しても、「意志」とは何かという問題が残るからです。
「意志」というのは、体に属するんでしょうか?
それとも、意識に属するんでしょうか?
多くの場合、意志は、「意志は意識に属するものだ」と判断します。
そうでなければ、意志たる私は、存在の本質ではないということになってしまいます。
意志にとっては、それは認めがたいものです。
なので、意志は、「自分は意識なんだ」という風に振る舞います。
でも、それは、自我たる意志の、巧妙な罠です。
これは、おそらく、ほぼ全ての探求者がハマる罠だと思います。
もちろん、僕もハマりました。
意志とは、意識に方向性を持たせる存在。
じゃあ、「意志」というのは、一体何なんでしょうか?
意志というのは、自我の本質です。
もし、あなたが、自分という存在は「意志」なんだと思うのであれば、それはつまりは、あなたは「自我」そのものだということです。
意志は、意識に方向性を持たせようとする存在です。
心当たりはないでしょうか?
意識に方向性を持たせることなく、とどまれるでしょうか?
方向性を持たない、意識そのもので在ることはできるでしょうか?
もし、方向性を持たせようとする衝動が湧き上がるのであれば、それが、自我です。
自我という存在のエネルギーみたいなものです。
「私の本質は、体ではなく、意識なんだ」ということを理解しても、自我との一体化は、そう簡単には解けません。
そして、自我は、「私は、意志であって、意志は、意識に属するものだ」と主張します。
そして、自分が興味があるものに、意識の方向性を向け、過去に意識を向け、理想的な未来に意識を向けます。
そして、理想的な未来に、リアリティを持たせようとします。
そして、理想と現実にギャップが起こると、苦しんだりします。
人の本質は、本来、意識そのものです。
(もっと言えば、それを超えたものですが)
意識そのものは、苦しんだりはしません。
体や心(自我)が苦しんでいるということに、気がつくだけです。
真理の探求において、前半戦というのは、自分の本質が、体ではなく、意識なんだということに、気がつくことでした。
でも、その時、自我たる意志は、巧妙に、意識と一体化します。
自我が「私は意識だ」と主張します。
でも、それは勘違いです。
それゆえに、理想と現実のギャップに苦しむことが続きます。
なので、真理の探求の後半戦というのは、自分の本質が、自我たる意志ではなく、意識そのものなんだということに、気がつくための旅路になります。
意志には、実体がありません。
そもそも、意志には実体がありません。
それは、有ったり、無かったりするものです。
でも、多くの人は、意志というのは、常にここに有ると思っています。
そこには、途切れることのない継続性があると思っています。
その感覚が、消えるなんていうことは考えられないと思っているはずです。
確かにその通りです。
「私は存在する」という感覚は、消えるはずがありません。
常にここに在ります。
でも、「私は存在する」という感覚は、意志に属するものなんでしょうか?
意志というのは、自身を、体や、意識だと、勘違いする存在です。
あらゆるものと一体化しようとします。
一体化しまくりです。
でも、それは、一体であると勘違いしているだけです。
であるならば、もしかして、「私は存在する」という感覚も、実は、意志とは違うものなんじゃないでしょうか?
意志が、「私が消えてしまったら、この、私は存在するという感覚も消えてしまうのでは?」と勘違いしているのかもしれません。
実際のところ、勘違いしています。
なので、真理の探求の後半戦においては、「意志とは何か?」というところを、キチンと切り分ける必要があるんです。
「何が意志で、何が意志ではないのか?」というところを、意志として、確認していく必要があります。
でも、どうやって、確認すればいいんでしょうか?
実は、その方法は、とてもシンプルです。
あらゆる覚者が言っています。
「ただ、静かであること」
それだけなんです。
もちろん、覚者によって、色々と言い回しが違います。
ラマナ・マハルシの場合には、「心をハートに沈めなさい」とか言います。
ニサルガダッタ・マハラジの場合には、「私は在るという感覚にしがみつきなさい」と言います。
僕の場合には「苦しみと退屈を避けないこと」と言います。
意志として、何もしようとはしないとき、どうなるのかを観察するんです。
「観察する」という表現も、少し違うんです。
意志として、観察しようとすることすら、止めるということだからです。
なので、その状態には、動詞を使うことができず、「私は在る」としか言えなくなります。
その時、意志はどこにいるんでしょうか?
「私は存在する」という感覚だけが、そこにあって、意志はどこにも見当たらないんじゃないでしょうか?
でも、意志は、「でも、意志があるように感じられるよ!」と叫びます。
まさしく、それこそが意志です。
意志というのは、思考のようなものです。
というか、思考と同じです。
「私は存在する」という感覚から、言語やイメージとして、意識に気がつかれる対象として、現れるもの、それが「意志」です。
まさしく、思考と変わらないんじゃないでしょうか?
なので、「意志」と「意識」の違いは明白です。
「意志」とは、「意識」に気がつかれる、言語やイメージです。
つまりは、思考と変わりません。
もちろん、頭から勝手に現れる思考とはちょっと違います。
意志には、自由意志の感覚がともないます。
なので、自由意志を持ちながらも、思考として立ち振る舞う必要があるんです。
必要があれば現れて、必要がなければ消えていればいいんです。
消えているというのは、黙っているということですね。
これは、コントロール欲を持った意志からすると、かなり受け入れ難いことです。
でも、「私は在る」という状態にとどまることが多くなるなら、自然と、自分自身のアイデンティティの拠り所が、「意志」から「私は在る」にシフトしていきます。
真理の探求の後半戦は、このことを意識しながら、ただ、日常生活を送るだけになります。