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心理学

生きるのがめんどくさいと感じるのは何故か?

今回は、TIさんからリクエストいただきまして〝めんどくさい〟という感覚についてお話したいと思います。TIさん、リクエストありがとうございます。めんどくさいと一口に言っても、色々あります。歯磨きがめんどくさいというような刹那的なものから、生活そのものがめんどくさいという慢性的なものまであります。TIさんが感じられているのは、慢性的なものとのことなので、今回は、生活そのもの、〝生きるのがめんどくさい〟と感じるのは何故なのかということをお話していきたいと思います。

めんどくさいなら、何もしなくていい

例えば、僕は毎朝、腕立て伏せをする習慣があります。そして、「めんどくさい」と感じることもあります。そんなときは、無理に腕立て伏せをしようとはしません。〝何もしない〟という選択肢を選びます。それによって、めんどくさいという感覚は消えてしまいます。刹那的なめんどくささというのは、「めんどくさいなら、何もしなくていい」の一言で終わらせることができるようなところがあります。

ところがそれが、〝生きるのがめんどくさい〟という慢性的なものになると、そう簡単にはいかないのかもしれません。あらゆる物事がめんどくさいと感じるなら、「何もしなくていい」ということは、日常生活の中で、まったく何もしなくていいということになります。生きるのがめんどくさいとはいえ、いざ、「まったく何もしなくていい」と言われると、そこには抵抗感が起こることが多いのではないかと思います。「〝何もしなくていい〟という状態を求めているわけじゃない」とか、「とはいえ、生きていくには仕事をしなければいけない」とか、「それって、死ねと言っているのと同じようなものだよ」とか、思うのではないかと思います。言ってみれば、〝めんどくさい〟という感覚は、どうしても避けることができないものであるかのように感じられるわけです。

でも僕は、刹那的なめんどくささも、慢性的なめんどくささも、同じだと思っています。めんどくさいと思ったなら、何もしなければいいんです。

生きるのがめんどくさいという感覚は〝虚無感〟を覆い隠すためのオブラートみたいなもの

実のところ、〝生きるのがめんどくさい〟という感覚は、避けられないものなのではなく、むしろ、虚無感を覆い隠すためのオブラートとして機能していることが多いのではないかと思います。むしろ〝めんどくさい〟という感覚は消えてはいけないんです。オブラートが消えてしまえば、無自覚に避けている〝虚無感〟が表に出てきてしまいます。「めんどくさいなら、何もしなくていい」という言葉が、慢性的なめんどくささに対しては使えないように思えるのは、むしろ、めんどくささを追い求めることによって、〝何もしなくていい〟状態を避けようとしているという構図が隠れているからなんじゃないかと思います。

人は本質的に、虚無感を抱えて生きています。様々なことを楽しめているうちはいいんです。楽しいことに夢中な時には、虚無感を感じることはないと思います。でも、頭の良い人は、段々と様々なことに飽きてきてしまいます。同じことのパターンの繰り返しだということに気がついてしまいます。昔は楽しめていたことが、楽しめなくなってしまいます。すると、隠れていた〝虚無感〟が、段々と表に出てくるようになります。何もしない時間は特にそれを感じるかもしれません。なので、自覚があるかないかは別にして、多くの人は、何もしない時間をできるだけ何かで覆い隠したいと思うんです。例え、それが興味の無いことであって、めんどくさいと感じるようなことであってもです。

例えば、僕の場合には〝生きるのがめんどくさい〟という感覚はあまり感じませんでしたが、激しい虚無感に苛まれたことはあります。その虚無感を覆い隠すために、昔は楽しめていたことを、無理にでもやってみようとしたこともあります。でも、当然、そういったことには飽きてしまっているため、再び楽しめるというようなことはないわけです。その状態を〝めんどくさい〟と言うこともできると思います。でも、僕は、〝めんどくさい〟という感覚を維持することはできませんでした。〝めんどくさい〟という感覚に妥協することはできず、何か未知の、素晴らしい何かを探し求めていました。そのことがさらに虚無感を激しいものにしていたのではないかと思います。

でも、虚無感というのは、決して避けるべきようなものでもないんです。

虚無感という錯覚

虚無感というのは不思議なもので、それは〝無い〟わけじゃありません。もし、それが本当に〝無い〟ものなのであれば、人は、虚無感を認識することはないはずです。むしろ、虚無感というのは圧倒的に〝有る〟んじゃないかと思います。言葉としては矛盾しているのですが、実際の経験としては矛盾していないんです。このことは、人生における最大級の謎なのですが、このことについて詳しく調べようとする人は稀だと思います。大抵の場合には、「虚無感は避けるべきもの」という一択なのではないかと思います。この社会自体がそのようにして成り立っているようなところがあります。宗教でさえ、その方向性に向かうことが少なくないのではないかと思います。

でも、虚無感というのは、〝有る〟という感覚の中に存在する、〝無い〟という相対的な感覚のことです。例えるなら、空っぽのビンが〝有る〟のを見て、その状態を〝無い〟と認識しているんです。なので、そのビンを何かで満たしたいと感じます。自身の感情が、ビンの〝中身〟と連動しているように感じられるんです。ビンをコーラで満たしたい人もいるでしょうし、オレンジジュースで満たしたい人もいるかもしれません。純粋な美味しい水で満たしたいという人もいるでしょう。でも、空っぽは嫌なんです。その状態は虚無感として感じられるからです。〝生きるのがめんどくさい〟というのは、「ビンを空っぽにしておくのは嫌だから、別に好きでもないけど、とりあえずお茶で満たしておくか」というようなものかもしれません。

本来、空っぽのビンは、解放的に感じられるものです。「何もしなければいい」ということを受け入れた途端に、刹那的なめんどくささが解放感に変わってしまうのは、それが理由です。でも、なぜだか人は、その解放感を持続させることができません。しばらくすると、空っぽのビンは、虚無感(もしくは退屈の感覚)で満たされていきます。見た目は何も変わっていないのですが、主観的な認識が、180度と言ってもいいぐらいに変わってしまうんです。

でも、それは錯覚なんです。虚無感というのは、ビンが空っぽだから感じられるわけじゃないんです。そうではなく、空っぽのビンを、〝想像上の何か〟で満たそうとするから、逆説的に、虚無感を感じるんです。例えば、人生を楽しんでいた時期の感情を想像して、ビンをそれで満たそうとするかもしれません。もしくは、未来に得られるであろう素晴らしい感情を想像して、ビンをそれで満たそうとするかもしれません。それは、無自覚であることがほとんどだと思います。でも、実際のところ、ビンは空っぽです。そのギャップが、虚無感という〝錯覚〟として感じられたりします。

虚無感を避けて、〝生きるのがめんどくさい〟という感覚に頼らないこと

〝生きるのがめんどくさい〟という感覚は、虚無感という錯覚を避けるための、自我による巧妙な罠のようなところがあります。自我にとっては、虚無感を感じるぐらいなら、〝生きるのがめんどくさい〟という感覚を感じていたほうがマシなんです。自我は、「虚無感は避けるべきもの」という認識を聖域化することによって、この構図を成り立たせています。

でも、虚無感は本当に避けるべきものなんでしょうか? それは、空っぽのビンの中に満たされた〝錯覚〟です。もちろん、錯覚だからといって、虚無感を幻想だと言うつもりはありません。それは錯覚かもしれませんが、圧倒的に〝有る〟という存在感で感じられるんじゃないかと思います。それは存在しています。でも、虚無感は、聖域化しなければいけないような、不変の実体ではないんです。それは、〝楽しい〟という感情と同じように、一時的なものです。〝楽しい〟という感情の場合には、外部的な原因があります。例えば、映画を観ていると楽しいと感じるかもしれません。でも、虚無感には外部的な原因がありません。外部的な状況がどうであろうが、虚無感を感じる時には感じます。なので、虚無感というのは、人に生得的にそなわった、根源的な感覚であるかのようにも感じられるかもしれません。

でも、そうじゃないんです。虚無感は一時的な感覚なのであって、虚無感が消え去った後に残るものこそが、根源的な感覚です。多くの人はその感覚を知っています。空っぽのビンの解放感がそれです。本当の意味での不変の実体は、〝ビン〟そのものなのであって、その中身は解放感で満たされています。であるにも関わらず、多くの人は〝錯覚〟によって、ビンの中身を虚無感で満たしてしまうんです。この構図を見破らないことには、〝生きるのがめんどくさい〟という感覚に頼ってしまうということが続くのではないかと思います。

どうすればいいのかといえば、空っぽのビンをありのままに見ればいいんです。もし、それが虚無感に満たされたもののように感じられるなら、虚無感に満たされたビンをありのままに見ればいいんです。「この虚無感を解決するにはどうすればいいのか?」とか考えなくてもいいんです。まるで、〝楽しい〟という感情を感じるかのように、虚無感を感じればいいんです。人は、楽しんでいる時に、「私は今、なぜ楽しいと感じているのだろうか?」とか考えないのではないかと思います。どちらにしろ、その楽しさには、いつかは飽きてしまうんです。楽しく感じる理由を考えたって、その理由が通じるのはその時だけです。飽きてしまった後に、〝楽しく感じる理由〟は意味を持つでしょうか? それと同じように、虚無感を感じることに飽きてしまうなら、虚無感を解決するために考えたあらゆることが意味を持たなくなります。その虚無感は、原因も無く消えてしまうからです。

後に残るのは、「私は在る」という解放的で根源的な感覚です。その感覚を、〝めんどくさい〟という感覚で覆い隠したいと思う人はいないのではないかと思います。

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