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ハート・真我 ラマナ・マハルシ

沈黙することは、ハートにとどまることに繋がるのか?

ラマナ・マハルシは、ハートとは何か分からない人に対して、「沈黙にとどまりなさい」と言ったりします。なので、沈黙にとどまることが、ハートにとどまることに繋がっていくんだと思う人も少なくないと思います。ただ、「沈黙」という言葉をどう解釈するかは人それぞれです。単純に、「それは瞑想することだ」と解釈する人もいるだろうし、「マインドフルネスを実践することだ」と解釈する人もいるかもしれません。それは決して間違っていないのですが、瞑想やマインドフルネスに熟達した結果、「ハートは実在しない」という結論に至る人もいるのではないかと思います。もし、「沈黙」という言葉を、単純に、瞑想することや、マインドフルネスや、何かしらを実践することだと思うなら、そうなるのも無理はないかもしれません。でも、実のところ、沈黙することと、ハートにとどまることの間には、ある種の飛躍があるんです。

この私が黙らせるのか? それとも、この私が黙るのか?

瞑想というのは、初心者のうちは、勝手に湧き上がる思考やイメージを、観察者としてのこの私が黙らせるという行為です。「黙らせる」という感覚が強いのではないかと思います。もちろん、最初のうちは、「黙らせる」ということすら、ままならない時期もあるかもしれません。でも、根気強く瞑想を続けていると、「黙らせる」ことができているという実感が湧き始めるのではないかと思います。

一方、瞑想の熟達者にとっては、瞑想とは、観察者としてのこの私が黙ることです。特に集中状態を保っておらずとも、思考やイメージがあまり現れなくなっており、むしろ、観察者として、集中しようとすることが目立つようになってしまった段階です(シーンとした静かな場所では、呼吸音すら目立つようになるように)。言ってみれば、「観察対象としての、思考やイメージは現れなくなって、黙らせることができている感じなんだけど、よく考えると、この私が黙っていられてなくない?」という感じです。このことに気がつくと、「沈黙」ということの意味がガラッと変わってきます。そこにはある種の認識の飛躍があり、ラマナ・マハルシの意図する「沈黙」とは、こちらの沈黙のことです。「他の誰かを黙らせようとするのではなく、他でもない、あなたが沈黙しなさい」ということです。

ただ、瞑想することに、何か特別な期待を寄せている場合、このことに気がつきにくくなるということはあるかもしれません。瞑想に熟達して、サマーディを経験するようになっても、どこかで「この沈黙を保っていることで、突如として、ハートが持続するようになるという現象が起こるのかもしれない」と期待を寄せていると、自分自身が黙っていないということに気がつきにくいかもしれません。瞑想を実践しているとサマーディを経験することがあるので、瞑想をひたすらに実践することで、いつかは、サマーディが持続するようになるのではないかと考える人も少なくないと思います。でも、サマーディ(ハート)が持続するようになるのは、別ルートです。僕が知る限り、その方向性でハートが持続するようになった人はいません。

感情的反応も黙らせるべきか? それとも、黙っているべきか?

「黙るべきはこの私なのだ」ということに気がつくと、自然と、瞑想を実践しなくなったりもします。というのも、思考やイメージが、過剰に湧き上がるということがなくなっていくし、集中する必要がなくなってしまう(というより、集中しない方がいい)からです。であるなら、瞑想していようがしていまいが変わりはなく、それは日常生活と変わりがありません。

僕は、そのようにして瞑想の実践をやめて、日常生活を送るようになった状態を、瞑想的な日常生活と呼んだりします。黙っているのはこの私なのであり、勝手に起こる思考やイメージ、行動は起こるがままにしておきます(その区別は、ハッキリと分けられるわけではなくグレーな感じですが)。「そんな瞑想的な日常生活を送ることに、一体何の意味があるのか?」と思うかもしれませんが、日常生活を送っていると、身の回りの出来事に対して、感情的な反応が起こったりもするわけです。瞑想的であろうが、それを避けることはできません。それは、楽しいという感情だったり、嬉しいという感情だったりもしますが、場合によっては、苦しいという感情だったり、めんどうだなという感情だったりもします。その時、この私はどうするべきなんでしょうか? すべての感情を沈黙させるべきでしょうか? それとも、心地よく感じられる感情だけはそのままにして、苦しく感じる感情は、何らかの方法で沈黙させるべきでしょうか? それとも、すべての感情に対して、この私の方が、沈黙しているべきでしょうか?

ここでも、「沈黙にとどまる」ということの解釈が分かれるのではないかと思います。真面目な人は、すべての感情を沈黙させるべきだと思うかもしれないし、感情に正直な人は、心地よく感じられる感情はそのままにして、苦しく感じる感情は何らかの方法で沈黙させるべきだと思うかもしれません。でも、ラマナ・マハルシの言う「沈黙にとどまる」ということが、〝この私〟が沈黙することなのであれば、すべての感情を起こるがままにしておくべきなのかもしれません。

感情を黙らせようとしている限り、ハートにとどまることはできない

真理の探求というのは、どこか神秘的な現象を期待するというか、求めることが多いような気がしています。当然、ラマナ・マハルシの教えにも、そういったことを期待することもあるかもしれません。もしかすると、「沈黙にとどまることによって(感情も黙らせることによって)、突如として、ハートの感覚が起こって、永続的にそこにとどまるということが起こるのではないか?」と思う人もいるかもしれません。でも、そういったことは起こらないんです。

ハートにとどまるということに関して言えば、大事なことは、草むしりのごとく、淡々と、感情の生滅を観察していく(気がついている)ことです。大事なことは、この私が黙ることなのであって、感情を黙らせることじゃないんです。むしろ、例えば、瞑想をする時みたいに、どこかに意識を集中させて、感情を黙らせてしまうと、いっこうに草むしりが進まなくなってしまいます。重要なことは、この私が何かしようとせずとも、自然と、草むしりは進んでいくんだということを理解することです。感情を起こすのは、この私じゃないんです。何かしらをイメージして、意図的に感情を起こそうとすることもできるかもしれませんが、そんなことはせずとも良く、勝手に現れた感情に気がついて、その感情が消えるところを見届けるだけでいいんです。そのことに気がつき続けるということ自体、ある程度の瞑想力が必要とされるかもしれませんが、瞑想的な日常生活を送れるようになっているなら、それは簡単なはずです。

もちろん、感情と言っても色々あり、なかなか消えない苦しみや、トラウマのような苦しみが現れることもあります。でも、基本的には同じです。その苦しみが起こったことに気がついて、その苦しみが消えるまで気がついています。当然、そういった苦しみはすぐに消えるということはなく、場合によっては、数日、数ヶ月、場合によっては年単位になることもあるかもしれません。でも、そういった感情が勝手に現れる限りは、その感情に気がつき続けるということが重要です。それは、精神的な苦行のようなものであり、結構ハードかもしれません。でも、その感情が現れるということは、その感情は、気がつかれる必要があるということなんです。根本的に言えば、その苦しみは、その昔、自身が無自覚に蒔いた苦しみの種(苦しみとは、理想と現実のギャップです)なのであり、それは、自身で刈り取らなければならないんです。他のだれかが、その苦しみを刈り取ってくれるということはありません。でも、そのために何かしらの努力が必要ということはなくて、勝手に現れてくれるので、ただ、気がついていればいいだけです(その苦しみに耐える努力は必要かもしれませんが)。

感情というのは、際限なく生成されるのかというと、そういうわけでもなくて、記憶の範疇でしか作り出されることはありません。もちろん、日常生活の中での、瞬間発生的な感情は現れ続けるわけなんですが、過去の記憶を元にした、ある意味では刈り取られなければならない運命にある感情というのは、ある段階で終わりを迎えます。草むしりにはとりあえずの終わりがあるんです。そこまでいくと、おそらく、自覚があるんじゃないかと思います。根拠もなく、解放感を感じているということにです(その後にも、刈り取られなければならない感情が残っていることがあるかもしれませんが、同じようにするだけです)。ハートにとどまることができるルートというのは、これだけです。これは、真我探求です。でも、これはラマナ・マハルシの専売特許ではなく、ブッダの教えで言えば、これは〝四諦〟なのであり、「自分が蒔いた種は、自分で刈り取ることになる」という表現は、聖書の中にあるものです。こういった考え方は、様々な教えの中に共通点がみられます。

「結構自力感が強いですね」と思うかもしれませんが、その通りです。ハートにとどまるというところまでは、自力感が強いです。でも、感情は勝手に現れては消えていくわけで、自力感が強いといっても、〝この私〟の仕事は、ただ黙って気がついていることだけなんです。

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