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1万文字以上の記事 Q&A ハート・真我

ハートの感覚にも、飽きることがあるのではないか?【Q&A】

今回は、KAYUさんから頂いたメールを公開したいと思います。前回のQ&A記事「瞑想的な日常生活というのは、本当にこれでいいのだろうか?【Q&A】」の続編のようなものです。KAYUさん、ありがとうございます。

※15000文字ほどの長文です。

KAYUさんからのメール

山家さん、こんにちは。

先月からメールで何度かやり取りさせていただいていたKAYUです。

お元気ですか?

その後、いろいろと進展があったので、そのご報告をしたくメールを差し上げました。

いささか長文になってしまったので、お時間のある時にお読みいただければと思います。

瞑想的な日常生活を始めて一ヶ月半が経ちました。

生活の中で思考に巻き込まれることはさらに減り、内面が静かな状態で過ごすことも容易になってきています。

本当に瞑想力がアップしているのかチェックする目的で、久しぶりに「30分間ほぼ思考せずにいる」ということを試してみましたが、前ほど集中力を行使することなく一発でクリアできるようになっていました。

前は、思考を抑えつけるために集中力をかなり使っていましたし、調子にもムラがあって、何回かチャレンジして一回成功するかどうかだったので、だいぶ進歩しているように感じました。

それから、ハートの感覚らしきものも感じるようになりました。

胸のあたりに、持続する穏やかな心地よさを感じることが度々あるのです。

感情的な反応が特に発生しておらず、思考やイメージもなくなって、観察者(意志)が静かになっている時、それを感じやすくなります。

要は、「特に何でもない時」に感じやすいです。

ただ、瞑想的な日常生活を始めた当初も、「何でもない状態」になることは多くありました。

感情が起こっておらず、思考やイメージがなく、観察者(意志)もおとなしい時は、前にもあったのです。

でも、以前はそういう時に、穏やかさや心地よさではなく、退屈や物足りなさを感じていました。

「何でもない状態」というのは、確かに静かな状態ではあるのですが、刺激もなければ変化もないので、面白くもなんともなく、私にはとても退屈に感じられたのです。

ですが、瞑想的な日常生活を続けていき、その「何でもない状態」に留まる時間が増えるうちに、退屈はまるで溶けて消えるかのように、なくなってしまいました。

そして、気づいてみたら、それまで居座っていた退屈に代わって、胸に心地の良い感覚が残っていたのです。

それはとても懐かしい感覚でした。

今まで感じられなかったものであるはずなのに、「未知のもの」というよりも「よく知っているもの」のように思えました。

それゆえ、初めてその存在に気づいたときは、「見つけた」というよりも「帰ってきた」という感覚のほうが強かったです。

また、この胸の心地よさは、「特別なもの」というより「当たり前のもの」であるようにも思えました。

というのも、先にも書きましたように、この心地よさは「何でもない状態」の中で感じられるからです。

「何でもない状態」というのは、その表現の通り、何でもないものです。

感情が爆発しておらず、思考やイメージに巻き込まれて我を失ってもおらず、観察者(意志)がバリバリに集中してもいない、「ごくごく普通の状態」です。

それは日常的には「よくあるもの」であり、むしろ「日常生活のベース」と言ってもいいと思います。

そんな「当たり前の状態」の中に、今は心地よさを感じることができます。

そこに努力は必要なく、特別な何かも必要としません。

ただ静かにしているだけで、穏やかな喜びが胸に溢れてきます。

それは決して激しいものではないのですが、私にとって、確かに感じることのできるものです。

最初のうち、この幸福感を得るために、特段何もしなくていいなんて、私には信じられませんでした。

というのも、何らかのポジティブな感情を得るためには、努力なりお金なり時間なり、なにかしらのコストが必要であると無意識に思い込んでいたからです。

でも、実際には、何のコストも払うことなく、今ここで瞬時に幸福を感じられるということに気づき、私は本当に驚きました。

そのことに気づいて以来、なるべくこの胸に感じられる心地よさを味わうようにしています。

仕事が忙しくなったりすると感じられなくなってしまうのですが、そうでもない限りは、この心地よさがいつも胸にあります。

おかげで、前よりも毎日を気分良く過ごせるようになりましたし、幸福度もかなり上がったように感じます。

そして、胸に感じられる心地よさを味わっていると、内面の静けさが深まることにも気づきました。

心地よさをただ味わっているだけで、思考やイメージがさらに湧いてこなくなり、観察者(意志)も落ち着くように感じるのです。

内面が静かになり「何でもない状態」になると心地よさが現れるし、心地よさを味わっていると静けさが深まっていく……。

「内面的な静けさ」と「胸の心地よさ」はお互いに関連しあい、強め合う関係にあるように感じています。

ただ、ここまでわかっても、まだ本当にこれがハートの感覚かどうかはわかりません。

それを感じるようになってから、まだせいぜい2週間くらいしか経っていませんから。

山家さんは、ハートの感覚のことを、「根拠なく持続する飽きることのない喜び」と言われていますよね。

なので、本当に根拠なく持続し、飽きることがないかどうかを、これから確かめようと思っています。

無根拠に湧いてきて、持続性があるというのは確かめられたのですが、飽きるかどうかはまだわかっていません。

今のところ、飽きる気配はありませんが、そのうち飽きてしまうかもしれませんので、それを検証するつもりです。

もしも飽きてしまった場合、それは「数ある感情の一種」であって、ハートではなかったということになるかと思いますので……。

とりあえず、一年くらいかけて気長に検証しようと思っています。

それから、観察者(意志)についても、いくらか変化がありました。

以前は、観察者(意志)と自分が同化している感覚が強くあったのですが、それが弱まってきたのです。

たとえば、以前だったら、観察者(意志)が「今日の昼めしは何を食べようかな?」とか考えたりすると、「まさに自分自身がそう考えている」という感覚が強かったです。

無自覚に湧いてくる思考は「自分の考え」とは思えませんでしたが、観察者(意志)が考えることは「紛れもない自分の考え」であるかのように感じられていたのです。

ですが、最近、その状況に変化が見られ始めました。

たとえ観察者(意志)が何か考えたとしても、それが「〝自分の〟考え」であるとは、あまり感じられなくなってきたのです。

もちろん、それもまた自分の中に浮かんできた考えの一つではあるのですが、それを「自分そのもの」だとは感じなくなってきました。

言ってみれば、観察者(意志)に対する感じ方が、無自覚に浮かんでくる思考を「これは自分ではない」と感じながら眺めている状態に近くなってきています。

前までは観察者(意志)が言うことと自分自身との間に距離がなかったのですが、段々とその距離が開いてきた感じです。

「観察者(意志)はどうやら自分ではないらしい」ということが、知的にだけではなく、感覚的にもわかってきた気がしています。

ただ、「それじゃあ、本当の自分(真我)はどこにいるのか?」ということになると、まだよくわかりません。

胸にハートのような感覚を感じられるようにはなりましたが、「それこそが真我である」とまではまだ思えませんし……。

「なんだか心地いい感覚がずっと胸にあるなぁ」くらいの認識です。

でも、観察者(意志)を自分だと思い込むことからは、だいぶ自由になれてきた感じがしています。

この調子で、瞑想的な日常生活を続けていくつもりです。

すっかり話が長くなってしまいましたが、これでご報告を終わろうと思います。

今回は特にお聞きしたいことがあったわけではないのですが、いろいろと最近わかったことを山家さんにお伝えしたく、メールしてしまいました(すみません)。

お返事は、いただければもちろん嬉しいですが、お忙しいようであればなくても結構ですので、お気になさらないでください。

ともあれ、私がここまで来ることができたのは、山家さんのブログがあったおかげだと思っています。

空白JPの文章はなにより表現がわかりやすいですし、「これができたら次はこれをしたらいいよ」という道順も具体的に示してもらえるので、探求に迷った時にはとても助けになっております。

いつも本当にありがとうございます。

まだまだわからないことは多いですが(というか、正直に言えば、わからないことだらけですが(笑))、今後も空白JPを読みながら、進んでいこうと思っています。

また何かありましたら、お便りするかもしれませんが、その時はよろしくお願いいたします。

長いメールをここまで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは、また。

回答

KAYUさん、こんにちは。

近況報告ありがとうございます。お返事がだいぶ遅くなり申し訳ないです。

最初のうち、この幸福感を得るために、特段何もしなくていいなんて、私には信じられませんでした。

というのも、何らかのポジティブな感情を得るためには、努力なりお金なり時間なり、なにかしらのコストが必要であると無意識に思い込んでいたからです。

でも、実際には、何のコストも払うことなく、今ここで瞬時に幸福を感じられるということに気づき、私は本当に驚きました。

それを感じてもらえたなら嬉しいです。

空白JPでは概念的なことは言葉を使ってある程度は表現できますが、結局のところ客観的に証明することはできませんし、世間一般的な認識と真逆のように感じられるもっとも重要な感覚というのはそれだと思います。

そのことに気がついてしまうと、幸福を感じるためにコストを払う必要があるという世間一般的な考え方には、違和感を感じるようになるかもしれません(言ってみれば「それって対処療法的で本質的じゃないよね?」と感じるようになったり)。

無根拠に湧いてきて、持続性があるというのは確かめられたのですが、飽きるかどうかはまだわかっていません。今のところ、飽きる気配はありませんが、そのうち飽きてしまうかもしれませんので、それを検証するつもりです。

もしも飽きてしまった場合、それは「数ある感情の一種」であって、ハートではなかったということになるかと思いますので……。とりあえず、一年くらいかけて気長に検証しようと思っています。

そうです、そうです。その検証しようとする姿勢は大事だと思います。

たとえ観察者(意志)が何か考えたとしても、それが「“自分の”考え」であるとは、あまり感じられなくなってきたのです。もちろん、それもまた自分の中に浮かんできた考えの一つではあるのですが、それを「自分そのもの」だとは感じなくなってきました。

言ってみれば、観察者(意志)に対する感じ方が、無自覚に浮かんでくる思考を「これは自分ではない」と感じながら眺めている状態に近くなってきています。

前までは観察者(意志)が言うことと自分自身との間に距離がなかったのですが、段々とその距離が開いてきた感じです。「観察者(意志)はどうやら自分ではないらしい」ということが、知的にだけではなく、感覚的にもわかってきた気がしています。

ここらへんは、実際にそう感じるのであれば問題ないと思いますが、必ずしも、観察者(意志)は自分ではないと思う必要はなかったりもします。それこそ、真我実現してからも、観察者(意志)が自分であるというような錯覚自体は続くんです。だからこそ、ラマナ・マハルシも、自身をハートの〝帰依者〟と表現したりもします。

実際のところ、ハートの感覚に飽きることがないのかを検証しようとすることには観察者(意志)が自分であるという感覚が必要だと思います。そしてまた、その意志をこの自分が持つということ自体は、真我実現のための障害にはならないんです。というよりも、それが唯一の道なのであって、真我探求です。

世間一般的には、真我実現するためには、まずはこの自分が消える必要があると思われがちなところもありますが、実際のところは順番が逆で、本来の自分で在るからこそ、偽りの自分という錯覚に気がつくことができます。

例えば、「私は誰か?」というテーマで考え事に没頭してしまっている時、本当の私を突き止めるだなんてことは不可能ですよね。何しろ、その時には観察者(意志)としての私にすら気がつけていないんです。客観的にみれば、まるで観察者(意志)の方が消えてしまっている感じですね。

でも、実際のところは、考え事に没頭していたとしても、気づきそのものはここに在って、ハッと考え事に没頭していたことに気がついて、観察者(意志)の自覚が現れます。

それと似たようなことがハートと観察者(意志)にも言えて、自分は観察者(意志)であって、物事をコントロールする主体だという感覚が強い場合、ハートの感覚は消えているかのように感じられたりします(世の中の多くの人はそうですよね)。

でも、ハートの感覚そのものは無いわけではなく、それこそ、KAYUさんも言うようにそれは懐かしい感覚だったりもします。コントロールしようとすることを止めている時に、それは感じられやすいです。

とはいえ、ハートと観察者(意志)の場合、思考に没頭している状態からハッと気がつくというような瞬間的なシフトが起こるわけではなく、ジワジワと自分という感覚のアイデンティティがシフトしていくような感じでしょうか。

ただ、「それじゃあ、本当の自分(真我)はどこにいるのか?」ということになると、まだよくわかりません。胸にハートのような感覚を感じられるようにはなりましたが、「それこそが真我である」とまではまだ思えませんし……。「なんだか心地いい感覚がずっと胸にあるなぁ」くらいの認識です。

なので、これでいいんです。知的な認識においては、ハートの感覚というのは不思議なもののように感じられるにせよ、どこか「この世界の中に属しているものでしょ?」というような感覚が強いと思います。なにしろ、長いこと目の前の世界と感情を連動させるということを続けてきているので、ハートの感覚にせよ、目の前の世界と連動しているように感じられるんです。

でも、ハートの感覚が無条件で感じられて、目の前の世界と連動しているわけではないという状態を積み重ねていくと、どこかでハートの感覚と目の前の世界の連動が切れてしまうのではないかと思います。それは知的に理解されていくというより、どこかの時点で、直感的に理解することになると思います。ハートはこの世界に属しているわけではなく、むしろ、この世界の原因である(超えている)という直感的な理解ですね。

ともあれ、KAYUさんはその調子で良いのではないかと思います。また何かあればご報告いただければ嬉しいです。

それではまた。

KAYUさんからのメール

山家さん。

こんにちは、KAYUです。お返事ありがとうございます。

近況報告ありがとうございます。お返事がだいぶ遅くなり申し訳ないです。

いえいえ、お返事をいただけただけで、とても嬉しいです。いつも丁寧なお返事をいただき、たいへん感謝しております。ハートの感覚(らしきもの)については、その後、紆余曲折がありました。

以下、話が長くなりますので、お時間のある時にお読みください。

まず、前のメールをお送りしてから数日後、急に、その胸の感覚に対して何も感じなくなってしまいました。感覚としては同じものを感じ続けていたのですが、それに対して「だから何なんだ」という感じで、無関心になってしまったのです。

当時は、仕事がよほど忙しい時以外の時間はほとんどずっとその感覚が胸にあったので、慣れ切ってしまっていたのだと思います。「それがあって当たり前」みたいに思うようになり、胸の感覚を「陳腐でつまらないもの」と感じるようになっていきました。

その結果、相変わらず同じ感覚が胸にあるのに、もうそれを「解放的だ」とも「心地よい」とも感じなくなりました。感覚と感情が分離してしまったような感じでした。

それは、たとえて言えば、何度も同じ料理を味わっているうちに、いつもと同じ味を感覚的には感じても、感情レベルでそれを美味しいとは思わなくなったような状態と似ていました。「なんだ、またこの味か。もうそれはわかったよ」という感じです。

それで私は、「ああ、自分はこの感覚に飽きてしまったに違いない。それならこれはハートではなかったのだ」と思いました。

せっかくハートがわかるようになったと思っていたのに、それが振出しに戻ったように感じられて、ひどく落胆したのを憶えています。

すると、今度は胸にあった感覚自体が感じられなくなってしまいました。まるで、その胸の感覚が蓋をされて奥に押し込められたかのような状態になり、何も感じなくなったのです。あんなに当たり前に感じられていた胸の感覚が、いきなりなくなってしまい、私は困惑しました。

そして、あの胸の感覚があった間は感じなかった、重苦しい閉塞感を感じるようになりました。常に胸に蓋をされているように感じられて、それがなんだか息苦しく感じ始めたのです。

この「胸に蓋をされた感覚」というのは、たぶん昔からずっとあったと思うのですが、一度それが無くなった状態(ハートらしきもの)を経験したことで、違和感を覚えるようになったのだと思います。

何の根拠もなく持続的に胸に解放感と心地よさを感じられた時期があったことで、そうでなくなった時に「あれ? なんだか胸に蓋をされてる気がするな」と気づけたわけです。

結局私は、飽きてしまったはずの胸の感覚をもう一度求めるようになっていきました。

「この閉塞感と息苦しさを何とかしたい」と思ったからです。

でも、かつては当たり前のように感じられた胸の解放感は戻ってこず、同じその場所に閉塞感が居座っていました。

そして、解放感を求めれば求めるほど、焦燥感や飢餓感が募っていきました。

「あの感覚をもう一度!」という願望が自身への束縛となって、かえって閉塞感を強めてしまっていたのです。

要するに、私はかつて感じた胸の解放感をコントロールしようとして、もがいていたのだと思います。

結局、そのコントロール欲求ゆえにますます胸に蓋がされて、リラックスできなくなっていたわけなのですが……。

ただ、その後、時間の経過とともにそのことに気づけるようになっていきました。

「コントロール欲求によって、自分で自分を縛っている」という構図に気づけるようになっていったのです。

そして、最終的には「ハートはコントロールできるものではない。在る時は在るし、無い時は無い」と割り切って考えられるようになり、ハートを得ようとしてもがくことはやめました。

コントロール欲求が消えたのです。

そうすると、次第にかつて感じた胸の解放感が戻ってきました。

おそらくコントロール欲求が無くなったからなのだと思いますが、胸の蓋が外れたような感覚がして、閉塞感も消えました。

もう飽きてしまったと思っていたのに、実際にその感覚が戻ってくると、私はホッとしました。

胸の閉塞感がないということが、こんなに心地よいことだとは、前はわかっていなかったからです。

以来、この胸の解放感を大事にしながら日々を過ごしています。

一度関心を失い、さらには感じることさえもできなくなりましたが、今は改めてこの感覚の大事さを噛み締めています。

ただ、それでも「一度関心を失ってしまった」という点は気にかかっています。

今はもう無関心ではないのですが、一度は飽きてしまったように感じるので、この感覚はハートではなく、別の何かなのではないかとも思っています。

もしこれがハートであれば、飽きることはないはずなので。

そこで、山家さんにお聞きしたいです。

ハートの感覚というのは、こんな風に関心を失ったりすることがあるものなのでしょうか?

一度見失って再度戻ってきたことで、「やっぱりこの感覚を大事にしよう」と思い直しましたが、過去に無関心になったことがあるのは事実なので、「そんなことあるの?」と疑問に思っています。

ハートの感覚が安定するまでは、それが失われたかのように感じられる経験もすると、空白JPでは書かれていたかと思いますが、「ハートに飽きたかのように錯覚する」ということもありうるのでしょうか?

実際、「もう飽きた」と思っていたのに、再度感じるようになったらそんなことはなかったので、「前は飽きてしまったと勘違いしていたのかな?」とも思っております。

またお時間のある時にお教えいただけますと幸いです。

ここらへんは、実際にそう感じるのであれば問題ないと思いますが、必ずしも、観察者(意志)は自分ではないと思う必要はなかったりもします。それこそ、真我実現してからも、観察者(意志)が自分であるというような錯覚自体は続くんです。だからこそ、ラマナ・マハルシも、自身をハートの〝帰依者〟と表現したりもします。

実際のところ、ハートの感覚に飽きることがないのかを検証しようとすることには観察者(意志)が自分であるという感覚が必要だと思います。そしてまた、その意志をこの自分が持つということ自体は、真我実現のための障害にはならないんです。というよりも、それが唯一の道なのであって、真我探求です。

探求において、観察者(意志)を自分でないと思う必要はないとのこと、わかりました。

これに関しては、私の誤解と思い込みが解けていなかったように思います。

以前のメールでも「錯覚に気づいても錯覚そのものは継続する」と教えていただいていたのに、まだよくわかっていませんでした。

ご指摘いただき、ありがとうございます。

私はずっと、観察者(意志)と自分自身との同化を打ち破らなければならないと思い込んでいました。

観察者(意志)と自分との同化が破られれば、観照者(意識)に留まることができると考えていたのです。

それゆえ、観察者(意志)の考えることと同化せず、それを距離を取って眺めるという練習をしていました。

そして、時々はそれがうまくいったように感じられることもありました。

あくまで主観的な感覚ですが、観照者(意識)が観察者(意志)を観照しているように感じられたことが何度かあったのです。

そういった経験をしたことで、「観察者(意志)との同化を破るのがついに成功しそうだぞ!」と思い込み、前回のメールをお書きしました。

しかし、今にして思えば、いつも通り観察者(意志)が自動的に湧いてくる思考を観察していただけであって、別に観照していたわけではなかったのかもしれません。

結局、観察者(意志)と自分との同化も解けていませんし、観察者(意志)を自分だと思う感覚も強く残っています。

そして、そのことで落胆してもいました。

「これではだめだ、観察者(意志)との同化を打ち破らなければ」と思っていたためです。

ただ、山家さんからのメールをお読みして、「そんなことをする必要はないのだ」ということがはっきりして、気が楽になりました。

実のところ、観察者(意志)との同化を破ろうとするたびに失敗してしまい、落ち込んでいたところだったので。

いずれにせよ、私に限らず、「真我探求とはこうこうものだ」という先入観や思い込みによって、いろいろ余計なことをしてしまっている探求者も多いのだろうなぁと思いました。

実際に必要なことは「苦しみと退屈を避けないこと」であり、「ただ静かであること」だと思うのですが、本当にそれだけだとなんだか不安で、ついついあれこれ余計なことをしてしまうのかもしれません。

さて、今回のお便りも、ずいぶん長くなってしまいました。

お返事は遅くなっても全く構いませんので、山家さんのご都合のよろしい時にお願いいたします。

それでは。

回答

KAYUさん、こんにちは。

またまたお返事遅くなってしまいました。

そこで、山家さんにお聞きしたいです。ハートの感覚というのは、こんな風に関心を失ったりすることがあるものなのでしょうか?

一度見失って再度戻ってきたことで、「やっぱりこの感覚を大事にしよう」と思い直しましたが、過去に無関心になったことがあるのは事実なので、「そんなことあるの?」と疑問に思っています。

これはおおいにあると思います。というよりも、人の感覚というのは、自然とそうなっていくような仕組みになっているようなところがあります。

例えば、小さな子どもがハートの感覚を忘れていく(関心を失っていく)のは自然なことだと思います。ほぼすべての子どもがハートの感覚への戻り方を忘れてしまいますよね。そして、大人になって、ハートの感覚について語っている人がいると、「そんな感覚があるのか」と興味を持ったりするわけです。

小さな子どもと、ハートの感覚に気がついた人の違いは、ハートの感覚への戻り方に自覚があるかどうかだけだったりします。ハートの感覚を忘れていくようになっているという自然の仕組み自体は変わらないんです。

なので、真理の探求というのは、確信(真我実現)に至るまでは、どこか自然の仕組みに逆らっているような感覚が否めないかもしれません。

ハートの感覚が安定するまでは、それが失われたかのように感じられる経験もすると、空白JPでは書かれていたかと思いますが、「ハートに飽きたかのように錯覚する」ということもありうるのでしょうか?

実際、「もう飽きた」と思っていたのに、再度感じるようになったらそんなことはなかったので、「前は飽きてしまったと勘違いしていたのかな?」とも思っております。

これは「飽きる」という言葉の綾もあるかもしれません。

相対的に見れば、ハートの感覚よりも魅力的に感じる感覚というのはありますし、ハートに留まろうとすることが退屈であるように感じるということもあると思います。なので、そう感じることを「飽きる」と表現することもできるかもしれません。その場合には、ハートにも飽きてしまうということになります。

一方で、「飽きる」という言葉は、そもそも、そのことを再び楽しむことが難しくなってしまうというニュアンスも持っていると思います。例えば、飽きてしまって興味がないことをしようとすることは、ともすれば苦痛に感じることもありますよね。「ただ疲れるだけで、そんなことはしたくない」と思うわけです。

言ってみれば、人は何らかの感情を得るのに、何かしらの行為が必要だと思っており、自覚があるにせよ自覚がないにせよ、そこには一種の取引みたいなものがあったりします。

でも、ハートの感覚の場合、そもそも、何かしらの行為をするわけではないので、「飽きてしまったからそんなことはしたくない」と思う取引の過程が飛ばされてしまうというか、ハートの感覚が無条件で与えられるというようなところがあり、そこが他の感情とは違うように感じられるようになるかもしれません。

僕がハートの感覚について「飽きることがない」と表現するのは、もしかすると、そもそも「飽きる」とか「興味がなくなる」という取引の過程が飛ばされているからかもしれませんね。

そして、最終的には「ハートはコントロールできるものではない。在る時は在るし、無い時は無い」と割り切って考えられるようになり、ハートを得ようとしてもがくことはやめました。コントロール欲求が消えたのです。

そうすると、次第にかつて感じた胸の解放感が戻ってきました。おそらくコントロール欲求が無くなったからなのだと思いますが、胸の蓋が外れたような感覚がして、閉塞感も消えました。

そうなんです。ともすればハートの感覚はコントロールできると感じられるのですが、それ(取引)をしようとすると、反対にハートの感覚への戻り方が分からなくなるという逆説があるんです。

「在る時は在るし、無い時は無い」という理解は重要なことだと思います。にも関わらず、最終的には「ハートは不変である」という結論に至るのは、真理の探求の不思議とも言えるかもしれません。

いずれにせよ、私に限らず、「真我探求とはこうこうものだ」という先入観や思い込みによって、いろいろ余計なことをしてしまっている探求者も多いのだろうなぁと思いました。

実際に必要なことは「苦しみと退屈を避けないこと」であり、「ただ静かであること」だと思うのですが、本当にそれだけだとなんだか不安で、ついついあれこれ余計なことをしてしまうのかもしれません。

そうだと思います。特に、ハートの感覚が良く分からないという場合には、その傾向は顕著になると思います。観察者(意志)は取引をすることに慣れてるので、ハートの感覚もそのようにして感じられるようになるのだろうと思ってしまうんですよね。

でも、取引しようとすることが、むしろハートの感覚を覆い隠してしまうのだという逆説を理解してしまうなら、自然と、先入観や思い込みというものは失われていくのではないかと思います。

それは、「苦しみと退屈を避けないこと」、「ただ静かであること」、「ハートにとどまる」ということも例外ではなく、自然とハートの感覚に戻っていくことが当たり前になってしまうと、そのことを気にする必要がなくなってしまうという感じでしょうか。

例えば、「ハートにとどまる」という言葉を指標にすると、ハートの感覚から彷徨い出そうとする衝動を否定したくなったりするのですが、彷徨い出ても自然とハートの感覚に戻ってくるということを知っていれば、そのことを気にしなくなってくるんです。ラマナ・マハルシはそのことを「あるがまま」と表現したりもしますが、そのことも気にしなくなっていくのではないかと思います。

ただ、山家さんからのメールをお読みして、「そんなことをする必要はないのだ」ということがはっきりして、気が楽になりました。実のところ、観察者(意志)との同化を破ろうとするたびに失敗してしまい、落ち込んでいたところだったので。

観察者(意志)は実現不可能な目標をでっち上げて、自身の存続を図るということをよくやります(笑)

前回のメールでの例えで言えば、観察者(意志)というのは「<>」の部分なのですが、実質的に「<>」だけで存在するということは不可能で、存在する場合には必ず「<ー>」とか「>ー<」という風に「ー」が入ることになります。なので、観察者(意志)「<>」の観点から言えば、「ー」との同化を破るということは不可能なんです。

もちろん、「本当の自分は『ー』の部分なのであって、『<>』の部分との同化を破らなければならない」と想定することはできるのですが、ハートにとどまっていることが当たり前だったり、自然とハートの感覚に戻ってくるのが当たり前な状態になっていないことには、あくまでも、「<>」として「ー」のフリをしているということになり、結局のところ「<ー>」とか「>ー<」になってしまうんです。

なので、意図的に同化を破ろうとする必要はなくて、順番としては、まずはハートの感覚が当たり前になること「ー」が優先で、それが当たり前になったのであれば、自然とその錯覚が見破られる瞬間が訪れるのではないかと思います。

KAYUさんからのメール

山家さん。

こんにちは、KAYUです。今回も丁寧なお返事をいただき、ありがとうございます。

またまたお返事遅くなってしまいました。

いえいえ、お返事いただけるだけで本当にありがたいです。むしろ、これくらいインターバルが空いたほうが、いただいたメールの内容を消化する時間も取れますし、ちょうど良いような気もします。

小さな子どもと、ハートの感覚に気がついた人の違いは、ハートの感覚への戻り方に自覚があるかどうかだけだったりします。ハートの感覚を忘れていくようになっているという自然の仕組み自体は変わらないんです。

ハートの感覚を忘れていく(関心を失っていく)ということ自体は、ある意味で自然なことでもあるのですね。前までは「一度ハートの感覚を理解したら、もう安心だ」と思っていたので、急に関心が無くなってしまいびっくりしましたが、そもそもそういうものということですね。

相対的に見れば、ハートの感覚よりも魅力的に感じる感覚というのはありますし、ハートに留まろうとすることが退屈であるように感じるということもあると思います。なので、そう感じることを「飽きる」と表現することもできるかもしれません。その場合には、ハートにも飽きてしまうということになります。

そうなんです。だんだんとハートの感覚だと物足りなく感じるようになっていってしまったのです。なんとなく刺激が足りないというか、もっと「ガツン」と来る感情が欲しくなってしまいました……。

それに、「目標を設定し、それを達成することで快楽を得る」という今までのパターンに馴染んでしまっていた部分もあります。「自分で目の前にハードルを置いて、それを自分で飛び越えることで観察者(意志)が気持ちよくなる」というパターンに慣れ切っていたのです。

ですが、ハートの感覚は無条件に与えられているので、「目標の設定」も「その達成」も必要ありません。そのため、はっきりとした手応えみたいなものも感じにくく、「こんな風にただ心地よさを感じているだけでいいのかしら?」と思ったりもしました。

しかし、一度関心をなくして見失ったことで、「やっぱりこの感覚が大事なんだな」ということがわかった気がします。強い刺激を求めたり、はっきりした手応えを欲したりするのは、観察者(意志)の癖に過ぎず、それに流され過ぎないようにすることが必要なのだと思います。

それは、「苦しみと退屈を避けないこと」、「ただ静かであること」、「ハートにとどまる」ということも例外ではなく、自然とハートの感覚に戻っていくことが当たり前になってしまうと、そのことを気にする必要がなくなってしまうという感じでしょうか。

例えば、「ハートにとどまる」という言葉を指標にすると、ハートの感覚から彷徨い出そうとする衝動を否定したくなったりするのですが、彷徨い出ても自然とハートの感覚に戻ってくるということを知っていれば、そのことを気にしなくなってくるんです。

実は、この半月ほどで、「ハートの感覚に戻っていく」というのがどういうことかを実感できる出来事がありました。

このところ仕事が忙しく、同僚との関係がぎくしゃくしていたこともあって、メンタルが不安定になっていたのですが、私は「良い機会なので苦しみをとことん味わってみよう」と思い立ちました。そして、次から次に現れる苦しみを、空白JPに書かれていることを参考にして味わってみたのです。

もちろん、それは辛いことではあったのですが、苦しみがいつまでも続くことはなく、どんな苦しみも必ず終わりを迎えました。そして、苦しみが去った後にはいつも、懐かしいハートの感覚が在ったのです。

それまでの人生において、苦しい時には「この苦しみは永遠に続くのではないか?」と思うことが多かったです。苦しみの渦中にある時には、自分の苦しみに終わりがないように思う傾向があったのです。

ですが、実際にはどんな苦しみもずっと味わっていれば溶けて消えてしまいます。そして、後には心地よいハートの感覚が残るのです。

こういった経験をしたことで、「苦しみというのは決して永遠に続くものではなく、むしろ一時的な現象なのだ」という理解が生じました。そして、苦しみという一時的な覆いが取り除かれた後に残るもの(ハート)こそが、「一時的ではないもの」なのだろうとも思ったのです。

面白かったのは、苦しみが消えた時に私は別に「ハートの感覚に戻ろう」とは考えていなかったことです。苦しみが消えたら何故かいつも自動的にハートの感覚に戻っていたわけで、そこには「戻ろう」という意志さえ不要でした。

それで私は、「ここが自分にとっての『帰るべき家』なんだな」と思いました。生きていれば苦しみが湧き起こることもありますし、時には思考に巻き込まれることもありますが、それらはあくまでも一時的なものであって、苦しみや思考が消えれば、自ずからハートの感覚に戻っていくことになる。今回の一件で、そのことに対する確信が深まりました。

前までは「ハートの感覚に留まらなければならない」という風に考えて、かえってハートを束縛してしまうこともありました。でも、「ハートの感覚には自然と帰っていけるだろう」という確信が強まったことで、前ほど神経質に考えることはなくなった気がします。

今では、ハートをコントロールしようとすることもほとんどなくなりましたし、その結果として、さらにハートの感覚に留まりやすくなりました。ハートの感覚に留まろうとする努力を止めたことで、かえってハートに留まれるようになったのです。

普通なら、何かを得るためには努力が必要なのに、むしろ努力の放棄によって得られるものがあるというのは面白い逆説ですよね。

なので、意図的に同化を破ろうとする必要はなくて、順番としては、まずはハートの感覚が当たり前になること「ー」が優先で、それが当たり前になったのであれば、自然とその錯覚が見破られる瞬間が訪れるのではないかと思います。

ともあれ、ハートの感覚(らしきもの)が感じられるようになってから、まだひと月半くらいだと思うので、ひとまず今はそれがもっと当たり前のものになるまで、瞑想的な日常生活を続けていこうと思います。今回もお読みいただき、ありがとうございました!