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サットヴァな心は真我と同じなのです【ラマナ・マハルシの言葉】

今回は、ラマナ・マハルシのこの言葉について解説しようかと思います。

サットヴァな心は真我と同じなのです。

うろ覚えです。前後の文章も正確に引用したいのですが、どこに書かれているのか忘れてしまいました。すみません……。僕は、この言葉を読んだ時、「心は想念の束なのであって、むしろ、真我を覆い隠している存在なんじゃないの?」と感じたのを覚えています。沈黙することを重要視するラマナ・マハルシが、「サットヴァな心は真我と同じなのです」と言うことは、どこか矛盾するように感じられたからです。真理についての本に矛盾はつきものですが、僕と同じように感じる人もいるのではないかと思います。今回は、その真意について考察してみようかと思います。

心は泥棒ではなかったのか?

ラマナ・マハルシは、心を〝泥棒〟と表現したりします。前々回の記事でも引用しましたが、もう一度、引用したいと思います。

心が存在するかどうかと探求すれば、心は存在しないということがわかるでしょう。それが心を制御する方法です。しかし心が存在すると見なしたうえで、それを制御しようとすれば、心が心を制御することになってしまいます。それはちょうど泥棒が警官を装って泥棒を捕まえようとするようなものです。心はそのような方法にばかり固執しておいて、巧みに逃れるのです。

心が〝泥棒〟なのだということについて、『ラーマーヤナ』に登場する、ジャナカ王のエピソードも語っています。

心を知りなさい。そうすれば、あなたはそれが作り話であることを知るでしょう。ジャナカ王は「ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。即刻死刑に処してくれよう! これで私は幸せになるだろう」と言いました。同じことが他の人にも言えるのです。

心という名の〝泥棒〟を捕まえることは重要なことだと思います。でも、鋭い空白JPの読者の方なら、こう思う人もいるんじゃないかと思います。「『ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。即刻死刑に処してくれよう!』と言う〝その人〟も泥棒なんじゃない?」って。

それはまったくその通りなんです。〝その人〟も泥棒です。ラマナ・マハルシが沈黙することを重要視するのは、言葉を使おうとする限り、それは〝泥棒〟でしかあり得ないからです。「この思考は泥棒じゃなくて、この思考は泥棒である」だなんて、誰が決められるでしょう? まさしく、それを決めようとする〝その人〟が泥棒である可能性が高いんです。なので、ジャナカ王が「ついに私を台なしにし続けてきた泥棒を捕まえた。即刻死刑に処してくれよう!」と言うエピソードは、ある意味では比喩的なのであり、便宜的なのであり、ツッコミどころがあります。

ラマナ・マハルシの「サットヴァな心は真我と同じなのです」という言葉も、質問者から、そのツッコミが入った時に語られたものだったんじゃないかと思います。

サットヴァな心とは、自身が泥棒であることを自覚している心

サットヴァとは「純質な」という意味の言葉です。「激質な」を意味するラジャスと、「暗質な」を意味するタマスという言葉と対比されることが多いです。

日本ではヨガでよく使われる言葉なのではないかと思いますが、「じゃあ、サットヴァな心とは一体何か?」と言われると、結構、答えに困るんじゃないかと思います。「う〜ん、なんか純粋でニュートラルな感じ?」と漠然とした答えになるか、もしくは、自分にとって理想的な心のイメージになりがちなんじゃないかと思います。

でも、ラマナ・マハルシの言う〝サットヴァな心〟が何を意味しているかは明白です。サットヴァな心とは、自身が泥棒であることを自覚している心のことです。これ以上に、誤解を生まない答えはないと思います。そしてまた、多くの〝泥棒〟にとっては、それは受け入れがたいことなのではないかと思います。

心は、まさか自分自身が〝泥棒〟だなんて思っていないんです。むしろ、この自分がいなければ、ラジャスやタマスな性質を取り除いて、サットヴァな性質を目指すこともできないじゃないかと思っているんです。確かに、この自分がいなければ、どこも目指すことはできません。この世界の中で機能することもできないでしょう。真理の探求を志すことすらできません。

でも、結局のところ、〝どこも目指す必要はない〟ということが見落とされているのであり、その原因は、心が自身を〝泥棒〟だと自覚していないところにあります。

ラマナ・マハルシは、基本的には、心の実在性を否定して、沈黙することを勧めることが多いです。なので、ラマナ・マハルシの本を読むと、マハルシは、そもそも思考することそのものを否定していると感じられがちです。でも、必ずしもそういうわけではないんです。何しろ、沈黙の聖者と言われ、ある時期まで無言を貫いていたラマナ・マハルシが、ある時期から探求者との対話を始めています。人と人が会話する時、そこには心が働きます。それは、覚者であっても例外ではないんです。

サットヴァな心は、真我にとどまることを好む

サットヴァな心は、自身が〝泥棒〟であるということを自覚していて、自身が消えることによって真我にとどまるということを好みます。

言ってみれば、サットヴァな心は、真我の帰依者です。サットヴァな心が何かしらの行動をする時、それは、真我にとどまることを目的としています。真我を知らない〝泥棒〟の行動には、終わりというものがありません。際限なく、何かを求めて行動しつづけます。でも、サットヴァな心は、真我にとどまることが目的なのであり、真我にとどまることは、行動の終わりを意味します。そして、真我は未知のものではなく、ここに在るものです。

そういった意味で、サットヴァな心は〝泥棒〟でありながらも、〝真我〟と同じものだとも言うことができると思います。

ただ、ここらへんの表現は視点の問題なのであり、覚者と呼ばれる人の間でも、認識や表現が違うことが多いのではないかと思います。ラマナ・マハルシは、どちらかといえばインドの保守的な考え方をします。例えば、「世界は実在しない」としながらも、「アルナーチャラ山はシヴァ神の現れです」と特別扱いする傾向があったりします。この矛盾は、探求者から質問もされていたかと思いますが、それがもし、ニサルガダッタ・マハラジであれば、「確かなことは、『私は在る』ということだけだ」と答えるのではないかと思います。この点については、僕はニサルガダッタ・マハラジに似た考え方をします。

ラマナ・マハルシは、「私を身体だとみなさないでください」とよく言うのですが、会話をする時、まるでその身体が真我であるかのように話すことがあります。インドには帰依という文化があり、マハルシは、帰依の対象としての役割を演じているようなところもあります。とはいえ、その一方で、身体を持った個人だという認識も持ち合わせています。例えば、頭にココナッツミルクを掛けられた時にビックリしたというエピソードを語っていたりします。インドでは、石像などの頭にココナッツミルクなどを掛ける文化があるそうです。

決して、身体を持った個人が真我に成るわけではないのですが、この二元的な世界では、身体を持った個人が真我になるのだと勘違いされがちです。僕の場合には、二元的であることを前提に、身体と心と真我を分けて考えることがほとんどです。例えば、この文章を書いているのは、個人性をもったサットヴァな心であり身体であり、真我はその観照者です。文章の場合には、そういったことがやりやすいのですが、口頭で話す場合には、その身体の口から言葉が発せられるということはさけられず、やはり、勘違いされてしまうことは多いと思います。そしてまた、覚者自身もそれを演じなくてはいけないということになりがちかもしれません。

「サットヴァな心は真我と同じなのです」という言葉は、この世界の中の、相対的な視点から見れば、そうとも言えます。でも、その場合には、「サットヴァな〝身体〟も真我と同じなのです」という解釈の発展にもなりかねません。頭にココナッツミルクを掛けようとする人も現れるかもしれません。なので、僕の場合には、「サットヴァな心であっても、それはあくまでも〝泥棒〟です」と言うことが多いと思います。とはいえ、それは、覚者によって結論が違うというわけではなく、あくまでも、この世界の中の、相対的な視点の違いです。「唯一実在するのは真我だけです」という結論に変わりはないと思います。

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