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〝月をさす指〟の先に、月が見えないのは何故か?

禅には〝月をさす指〟という言葉があります。月が真理なのであり、禅師はその月を指さします。でも、ともすれば多くの人は、月ではなく、その指に注目してしまいます。〝月をさす指〟という言葉は、そのことを戒めるものです。「指そのものは真理ではないのだから、指に囚われてはならない」ということですね。

でも、この言葉には、見落とされている点があります。もし、月が見えているのであれば、多くの人は、指に囚われたりなんかしないんじゃないでしょうか? 月が見えているのであれば、月を見るでしょう。禅師の指に注目してしまうのは、その先に月が見えていないからです。

最初から月を指させるなら苦労はしない

最初から月を指させるなら苦労はしません。確かに、禅師には月が見えているのだと思います。それを、指さすこともできるはずです。でも、多くの人にとって、その月は雲で覆われていて、見えないんです。〝月をさす指〟という言葉は、このことが考慮されていません。もし、月が雲に隠れていないのであれば、禅師が月を指さすまでもなく、多くの人は月の存在に気がつくはずです。

なので、禅師の仕事は、実は、月を指さすことではなく、なぜ月が見えないのかの理由を説明することなんです。多くの人は、〝月が雲に覆われている〟ということに気がついていません。そもそも、月は存在していないかのように感じているんです。物心ついてからずっと、雲によって月が覆い隠されているのであれば、そう感じられたって不思議はありません。

なので、まずは〝月は雲によって覆われている〟ということに気がついてもらう必要があります。そのことを確かめてもらうための手段として、坐禅があるのではないかと思います。月を覆い隠す雲とは、感情のことであり、思考やイメージ、5感覚のことです。坐禅を実践するなら、まずは、思考やイメージというものは、一時的な雲のようなものであるということが理解されるのではないかと思います。ずっと維持し続けられる思考やイメージというものは無いんです。あらゆる思考やイメージが、現れては消えていきます。5感覚だって、ずっと持続するものでもありません。坐禅をしていると、足がしびれてくるかもしれませんが、坐禅をやめればしびれは消えていくはずです。坐禅をしていると、突如として昔の記憶を思い出して、怒りが湧いたり、苦しみが湧いたりするかもしれません。でも、そういった感情的な反応だって、ずっと持続するわけじゃありません。人によっては長い間持続するかもしれませんが、いつかは感情的な反応も消えてしまいます。

雲に覆い隠されている月が姿を現すまで、静かに待つ

坐禅はシンプルなものです。でも、それゆえに難しくもあります。もし、坐禅を正しく続けることができるのであれば、やがて、雲に隠れていた〝月〟が姿を現すことになります。禅では、そのことを〝見性〟と呼ぶのではないかと思います。一般的には、そのことは〝サマーディ〟とも呼ばれるかもしれません。

でも、正しく坐禅できる人は、どれだけいるでしょうか? 坐禅の目的は、必ずしも〝無心〟を保つことじゃないんです。〝無心〟になるのは結果論です。結果として、心身脱落することが起こります。あくまでも重要なことは、月を覆い隠す雲を、取り除くことです。もし、禅師が、月と雲の関係性を十分に理解していなければ、坐禅することの目的が入れ替わってしまう可能性もあります。つまりは、「坐禅をする目的は〝無心〟を保つことなのであって、現れる感情や思考(雲)を、意図的に追い出す必要がある」という考えになることがあります。もし、そのような考えで坐禅を実践するならば、一時的に〝月〟が現れることはあっても、坐禅をやめれば、また月は雲によって覆い隠されてしまうでしょう。

月を覆い隠す雲が取り除かれるならば、それは日常生活でも持続します。月は、坐禅をしている間にだけ現れるものじゃありません。もし、月が一時的にしか姿を現さないものなのであれば、そもそも、〝月をさす指〟という言葉そのものがナンセンスです。そこには何の重要性もありません。もし、そうであるなら、〝月をさす指〟ではなく、〝桜をさす指〟とか、刹那的な表現の方がしっくりとくるのではないかと思います。

〝禅〟と一口に言っても、その思想は達磨大師(禅の開祖と呼ばれている)の頃からだいぶ変わってきているのではないかと思います。大雑把に言えば、その思想は「月は雲で覆われている」という考え方から、「心は一切のものであり、一切のものは心である」という考え方に変化していったようです。言ってみれば、〝月〟とは何かという解釈が大きく変わっているんです。「月は雲で覆われている」という考え方であれば、月は重要なものであり、それは絶対的なものでしょう。ところが、「心は一切のものであり、一切のものは心である」という考え方になると、〝月〟は、心の中に現れる部分的な存在として解釈されるようになります。それは相対的なものであり、むしろ、〝心〟が絶対的なものであるという解釈になります。

そういった思想の変化が起こった結果、どうなったのかというと、禅の堕落が始まったそうです。「もし、『心は一切のものであり、一切のものは心である』なら、心である自分はすでに悟っているのであって、何もする必要なくない?」ということです。坐禅をしなくても良いし、修行をしなくても良いし、好き勝手にやっていいという解釈も成り立ちます。そうなると、そもそもの禅の存在意義が揺らいでしまいます。「それはいかん!」ということでさらに起こった変化が、「坐禅をする姿そのものが悟りである」という考え方のようです。「確かにすべての人はすでに悟っているんだけどさ、坐禅をすることが、悟りの中でさらに悟るということなんだよ」ということです。現代の日本の禅においては、こういった考え方が主流なのではないかと思います。なので、坐禅中にだけ〝月〟が姿を現さずとも問題ないのであり、さらに言えば、坐禅することそのものが重要なのであって、〝月〟が姿を現さずとも良いわけです。

でも、ブッダも、達磨大師も、そんなことは言わなかった可能性が高いのではないかと思います。そもそも、坐禅を正しく実践するならば、そんな結論にはならないからです。雲を取り除くということは、現れる感情や思考やイメージを、それが消え去るまでただ静かに待つということです。意図的なことは何もしないと言うこともできます。坐禅を実践していると、禅病と呼ばれる、統合失調症に似た症状が現れることがあるようです。それはどういうことなのかといえば、坐禅中に、何か意図的なことをしようとしている証拠でもあります。もしくは、坐禅のしすぎです。例えば、江戸中期に活動した白隠禅師は禅病に悩まされたそうで、禅病の症状を改善するために、〝内観の秘法〟と呼ばれる気功の一種を実践していたようです。でも、本当のところは、坐禅のやり方が間違っていないかを確認した方が良かったのかもしれません。

坐禅の本質は、月が姿を現すまで、ただ静かに待つことです。どれだけ時間がかかることになろうとも、ただ静かに待つしかないんです。「月は雲で覆われている」という前提を信じていないことには、ただ静かに待つ(雲を取り除こうという姿勢を保つ)ことは難しいかもしれません。禅に必要な信仰性というのはこれだけです。坐禅を実践することによって、その信仰性は智慧(確認されたもの)に変わっていきます。逆説的に、禅の行きつく先は、信仰性の消失です。月と雲の関係性を理解したなら、一体誰が「坐禅をする姿そのものが悟りである」ということを信じるでしょうか? 坐禅をせずとも、〝月〟はここに在るのであり、むしろ、何かを信じること自体が、月を覆い隠す〝雲〟になるということを理解してしまいます。

雲の下に、月をイメージする必要は無い

現代の日本の禅では、〝月〟は、心の中に現れる一時的な存在でしかないと解釈されることが多いのではないかと思います。でも、依然として〝月をさす指〟という言葉は使われるし、月に相当する〝仏性〟という言葉も使われたりします。なので、坐禅する姿そのものが悟りとはいえ、〝月〟がどんなものなのかを知りたいと思う禅者は少なくないのではないかと思います。

そこで起こりがちなのが、〝月をイメージしてしまう〟ということなのではないかと思います。月は雲に覆われているのであり、雲が取り除かれれば、自然と月は姿を現すことになります。そのことを確認しようとするのが、坐禅の姿勢です。でも、世の中には、〝坐禅〟と似た言葉に〝瞑想〟というものがあります。坐禅が何もしないのに対して、瞑想というのは、何か一点に意識を集中させるということをします。例えば、感情を感じる場所に、〝月をイメージ〟して、そこに意識を集中させることは瞑想です。呼吸に意識を向けて、集中するのも瞑想です。身体の感覚に意識をむけて、集中するのも瞑想です。「呼吸や身体に意識を向けるのは〝坐禅〟なのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、何かに意識を集中させようとする限り、それは瞑想なんです。「ちゃんと坐禅できてるかな?」と坐る形式を気にするのも瞑想です。なので、実質的に、坐禅を実践できている人というのはとても少ないはずです。何しろ、白隠禅師すら坐禅ではなく瞑想をしていた可能性が高いからです。

なので、〝月をイメージする〟ということも坐禅なのだと勘違いする人がいてもおかしくはありません。でも、それは実質的には瞑想なのであり、感情を感じる場所に意識を集中させるなら、その集中力ゆえに、何かしらの反応が起こる可能性が高まります。何かしらの高揚感を感じるかもしれません。何かしらの霊的な体験をするかもしれません。そして、それを〝月〟だと勘違いするかもしれません。でも、それは月などではなく、部屋の電球の明かりのようなものです。

禅師は〝月〟を指さします。でも、多くの人は、首をかしげることになります。その先には〝月〟が見えないからです。見えているのは、一面、雲に覆われた空です。それでも、禅師は〝月〟を指さします。人によっては、その指、そのものに秘密があるのではないかと思うかもしれません。その指に、何か、深淵な意味があるのではないかと勘ぐるかもしれません。でも、禅師は、シンプルに〝月〟を指さしているんです。「その指の先にあるのは、〝月〟という名の〝心〟なのでしょうか?」と禅師に問う人もいるかもしれません。禅師は「〝月〟が在るがゆえに、それは〝心〟である」と答えるでしょう。その禅問答に、その場を立ち去る人も少なくないかもしれません。でも、雲は一時的なものなのだということを知っていて、雲が取り除かれるまで静かに待つ勇気を持つ人は、その場にとどまります。そして、やがて知ることになります。禅師は、確かに〝月〟を指さしていたのだということにです。

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