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自由意志・運命

自分を赦すことは、他者を赦すことなのか?

〝自分を赦す〟という言葉があります。まさしく、苦しみが持続する原因は、自分を赦していないからです。でも、〝自分を赦す〟とは一体どういうことなんでしょうか? そこには様々な解釈があります。そのひとつに、「〝自分を赦す〟ということは、〝他者を赦す〟ことである」という解釈があります。一見、正反対の解釈であるかのようにも感じるのですが、「自分は他者であり、他者は自分である」という言葉とセットで語られることにより、「そんなものかもしれない」と感じられたりもします。でも、それは本当に〝自分を赦す〟という方向性なんでしょうか?

猫も、人と同じように、自分や他者を赦すべきか?

〝自分を赦す〟という言葉は、基本的には、人を対象にして使われるんじゃないかと思います。苦しんでいる人に対して、「自分を赦しなさい。自分を赦すということは、他者を赦すことです」と言われることはあると思います。でも、例えば、その対象が〝猫〟になるならどうなるでしょうか? 道端を歩いている猫に対して、「自分を赦しなさい。自分を赦すということは、他者を赦すことです」と言ったところで、威嚇されたり、エサをねだられるだけかもしれません。明らかにその意味は理解されないんじゃないかと思います。

でも、猫にはそれが赦されているんです。人のように、自分を赦したり、他者を赦したりしなければいけないという重圧から、猫は解放されています。あるがままに行動することが赦されているんです。人によっては、そんな猫を見て「うらやましい」と思うかもしれません。

猫の中には、人に危害を加えられた経験から、人嫌いになってしまう猫もいたりします。猫は、好き嫌いが結構ハッキリしている動物です。そんな猫に対して、人は、「他者を赦すこと」と言ってあげるべきなんでしょうか? 「もし、猫に言葉が通じるのであれば、そう言ってあげたほうがいいのでは?」と思う人もいるかもしれません。でもそれは、猫のためでしょうか? それとも、人の都合でしょうか?

猫が人嫌いになるのには理由があります。猫の中で「人=危険」という認識が作られるからこそ、猫は人を避けるようになるんじゃないかと思います。それは自己防衛本能です。ずっと家の中で飼われてきた猫が家の外に出ると、車が危険だということを認識できず、轢かれてしまうことがあるようです。ある対象を危険だと認識することは、動物にとってはとても大切なことだったりします。その自己防衛本能を考慮せずに、何の根拠も無く、「他者を赦すこと」と言ってしまうなら、人と猫、どちらの方が理性的な動物なのか分からなくなるかもしれません。

人だけが〝赦す〟ことを強いられている

人にも自己防衛本能は備わっています。でも、それと同時に、人には、その自己防衛本能を客観視することができる俯瞰的な視点が備わっています。いわゆる自我です。

人と動物を隔てる一番大きな違いは、この自我にあるのではないかと思います。猫は、人のように自分自身を客観視しているでしょうか? 猫を観察してみる限り、その可能性は低いのではないかと思います。猫は、裸で外を歩くわけですが、猫はそのことを気にしていないように思えます。でも人は、基本的には服を着て外に出かけます。裸で外を歩いていると、恥ずかしいと感じるからです(捕まるという理由もありますが)。まさしく、この客観性が自我の働きです。

聖書の創世記では、アダムとイブは知恵の実を食べることにより、突如として、自身が裸であることに気がつくというシーンが描写されています。自我の芽生えです。そして、恥ずかしくなって、局部を葉っぱで隠すようになります。その結果、神に「食べてはいけない」と言われていた知恵の実を食べたことがバレてしまい、アダムとイブは楽園を追放されることになります。

人が〝赦す〟という概念を理解できるのは自我のおかげです。でも、それは人が特別な存在であると同時に、原罪を負っているということも意味します。本来は、猫のようにすべてが赦されているはずなのに、人は自我のおかげで、すべてが赦されているようには感じられないんです。むしろ、人は自我として、自身を赦さなければならないという重責を負っているかのようです。

でも、〝自分を赦す〟とは一体どういうことなんでしょうか? 猫のように自由気ままに行動することなんでしょうか? 裸で外を出歩いても気にならないように、精神を鍛えることなんでしょうか? それとも、自己防衛本能に逆らって、苦手な他者とも積極的に関わろうとすることなんでしょうか? 自我は、〝自分を赦す〟という様々なイメージを膨らませていきます。そして、自分自身に、〝自分を赦す〟というイメージの実現を強いろうとします。〝他者を赦す〟ということも、その中のイメージのひとつです。

でも、それは本当に〝自分を赦す〟ことと言えるんでしょうか? むしろ、それは自分を束縛することのようにも思えます。それはまるで、「あなたのためよ」と言いながら、自身の理想を子どもに押し付けようとする親のようなものかもしれません。

〝自分を赦す〟とは、〝赦す〟とか〝赦される〟という構図から自身を解放すること

人は〝自我〟を得たがゆえに、楽園から追放されています。自我は、〝自分が赦す主体である〟という重荷を背負わされているかのようです。でも、それが勘違いだとしたらどうでしょうか?

例えば、猫には、あるがままな行動が赦されています。道端で、どんなに変な体勢で寝ていようが、それは赦されているわけです。人は、それを見て「うらやましい」と思ったりします。でも、それは人だって、同じだとしたらどうでしょうか? 「いやいや、私は道端で変な体勢で寝ていたら恥ずかしさを感じるよ!」と思うかもしれません。でも、〝そう思うこと自体〟が赦されているとしたらどうでしょうか? 人は、自分の意志で考えたことは特別な思考なのであって、勝手に現れる思考とは違うのだと区別しています。〝赦す〟という概念は、その区別があることが前提になっています。言ってみれば、自分の中に、〝赦す自分〟と、〝赦される自分〟がいるわけです。

でも、そう感じているのは自我の錯覚なのであって、本当のところは、人も、猫と同じように、〝赦す自分〟と〝赦される自分〟という区別は無いとしたらどうでしょうか?

〝自分を赦す〟という言葉は、自我自身に〝赦す〟という権限が備わっていることが前提です。多くの人は、自分自身にその権限が備わっていると感じているはずです。それが自我の働きです。だからこそ、〝自分を赦す〟という言葉が気になったりします。でも、〝自我〟とは一体何なんでしょうか? 人は漠然と、「自分は自我である」と思っているのですが、自我が具体的に何を指すのかは、あまり理解していません。自我とは、思考なんでしょうか? イメージなんでしょうか? 感情的な衝動なんでしょうか? それらが複合した感覚でしょうか?

人は、〝勝手に現れる思考〟や〝イメージ〟に意識を向けることは得意です。「あ〜、猫みたいに自由きままに生きたいな」という思考が現れたとして、自我はその思考に対して、「でも、道端で変な格好で寝ていたくはないな」と反応したりします。こういった内面的なやりとりは、人特有のものかもしれません。自我があるからこそ、こういった内面的なやりとりが起こっているようにみえます。

でも、人は、〝意図的な思考〟がどうやって現れているのかということには、盲目的だったりします。多くの人は、「意図的な思考は、この自分が自由にその内容を決めている」と思うのではないかと思います。でも、それは本当でしょうか? 〝意図的な思考〟の内容は、それが意識によって気がつかれるまで、自我にだって分からないんじゃないかと思います。例えば、映画の字幕というのは、上映中にリアルタイムに翻訳されるわけじゃないですよね? 映画を上映する前に、事前に、翻訳家が翻訳しているわけです。なので、翻訳家は、映画にどんな字幕が現れるのかを事前に知っています。それと同じように、もし、〝意図的な思考〟が、本当に自分自身で自由に決めているものなのであれば、自我は、それが意識によって気がつかれる前に、その内容を知っているはずなんです。

でも、自我は、無意識下で何が行われているのかを知ることはできません。あらゆる思考は、意識によって気がつかれることによって初めて認識されます。その点において、〝勝手に現れる思考〟と〝意図的な思考〟には、違いはないんじゃないでしょうか? それは、実際に今、確かめてみることもできるはずです。次の瞬間、自分が何を考えるのかを、事前に知ることはできるでしょうか? 思考が現れないことには、自分が何を考えているのかを知ることはできないのではないかと思います。可能なのは、思考が現れる瞬間と、その内容を知る瞬間が、同時であるように感じることだけなんじゃないでしょうか。そこには自由意志の感覚も伴うので、人は、そういった思考を〝意図的な思考〟と認識します。でも、それは本当に、自我の意志で考えた〝意図的な思考〟なんでしょうか?

〝自分を赦す〟とは、〝赦す〟とか〝赦される〟という構図から自身を解放することです。自我は、自身に〝赦す〟という権限が備わっていると思っています。でも、自我とは一体何なんでしょうか? 実際のところ、現れるすべての思考は〝勝手に現れる思考〟なのであって、自我が、自分の意志で考えた思考なんて、実際には存在しないのかもしれません。自我は、〝勝手に現れる思考〟の一部を〝自分のもの〟であるかのように扱い、〝赦す〟とか〝赦される〟という構図があるかのように錯覚しているだけなのかもしれません。実際のところは、現れるすべての思考は、現れることが赦されています。そのことに対して、文句を言うのは自我だけです。自我自身が、現れることが赦されている対象であるにも関わらず、自我は自身を、自分や他者を赦すことができる主体であると勘違いしているんです。

実際のところは、人も猫も変わりはありません。人も猫も、あるがままに行動することが赦されています。人においては、自我が存在することが赦されています。自我が、「私は自分や他者を赦す主体である」と勘違いすることも赦されています。すべてが赦されているという点において、人も猫も変わりはありません(知能や自我の有無があるので、行動は変わりますが)。もし、「自分は他者であり、他者は自分である」と言うことができるのであれば、「自分は猫であり、猫は自分である」と言うこともできるはずです。猫は、〝赦す〟とか〝赦される〟という構図から解放されています。もし、本当の意味で〝自分を赦す〟ことができるなら、人は、本当には、楽園を追放されてなんかいなかったんだということに気がつくかもしれません。

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