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赤ちゃんは悟っているのか?【覚者との違い】

よく、「赤ちゃんは悟ってる」とか言われることがあると思います。

「赤ちゃんは、マスターだ」とか。

まだ、物心つかない子供とかもそうですね。

そう言われると、「じゃあ、赤ちゃんみたいになればいいのかな?」と思う人もいると思います。

でも、そんな必要はありません。

実は、赤ちゃんの悟りと、覚者の悟りは、似ているようで全然違います。

一体、どう違うんでしょうか?

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「No」にも「Yes」を【ジャッジしないという意味】

探求というか、スピリチュアルな世界では、「ジャッジ」という言葉がでてくることがあると思います。

「ジャッジをしないように」とか。

でも、この言葉。

スピリチュアルな言葉の中でも、1位、2位を争うほど、誤解されている言葉でもあるようにも思います。

一体、「誰」が「何」をジャッジしてはいけないんでしょうか?

右頬を殴られたなら、喜んで、左頬も差し出さなければいけないんでしょうか?

「ジャッジ」って、一体、なんなんでしょうか?

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気づきが先か?観察が先か?【本当の瞑想】

瞑想についての本を読んだりすると、「気づき」と「観察」という言葉がよく出てきます。

この2つの言葉、どういう関係にあると思いますか?

観察するから、気づくんでしょうか?

それとも、気づくから、観察することができるようになるんでしょうか?

はたまた、その両方でしょうか?

もし、あなたが、「本当の瞑想」とは何かを知りたいと思うのであれば、この違いは、知っておいたほうがいいかもしれません。

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どうすれば「世界は実在している」という認識は崩壊するのか?

探求の終わりには、「世界は実在している」という認識が崩壊します。

「私は在る」とは何か?

「ハート」とは何か?

を理解した人にとって、最後に残っているのが、この認識の崩壊です。

これが起こるまで、少なからずの分離感が残り続けると思います。

でも、どうすれば、「世界は実在している」という認識が崩壊するんでしょうか?

「私は在る」にとどまり続けることによって、この認識は、自然に崩壊していくと思います。

なので、「私は在る」「ハート」を理解している人にとっては、それは時間の問題とも言えるんです。

でも、僕の場合には、多少の思考的な理解も、役に立ったようにも思います。

それは、どんな理解なのか?

お話します。

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瞑想とは思考との戦いである!【観察者=思考】

瞑想というのは、基礎トレーニングのようなものです。

エベレスト山に登ろうとする人が、事前に、体作りをするようなものです。

瞑想そのものが、あなたを真理に導くわけじゃないんです。

あなたを真理に導くのは「沈黙」です。

でも、沈黙にとどまろうと思っても、思考に圧倒されるようでは、仕事になりませんよね。

なので、瞑想というものがあります。

瞑想の目的は、「思考」との戦いに勝利することです。

そのために、重要なことを2つお話します。

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非二元論と不二一元論は違うんですね。。

以前、「非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】」という記事を書きました。

「ラマナ・マハルシの教え(不二一元論)と、非二元論って違うよなあ。。」というところから書いた記事なのですが、どうやら、違っていて当たり前だったようです。

そもそも、非二元論と不二一元論というのは、似ているようですが、別物なんですね。

勘違いしていました。

僕みたいに、「同じようなものでしょ」と思っていた人は少なくないんじゃないでしょうか?

じゃあ、一体どう違うのか?

お話します。

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真理の探求に、師は必要か?【サットグルとは?】

真理の探求において、「師(グル)」というのは必要なんでしょうか?

グルというと、なんか宗教っぽいですが、言ってみれば「先生」とか「教師」ということですね。

僕も、以前、このことに頭を悩ませていたことがありました。

「師は必要か?」ということは、真理についての本の中でも、よく、取り上げられているテーマです。

「師は必要でしょうか?」

覚者に対して、こういった質問がされることはよくあります。

それに対する覚者の答えは、「必要」ということもあったり、「不要」ということもあります。

探求者からすれば、「一体、どっちなんだ!?」って思いますよね。

実際のところ、師というのは必要なんでしょうか?

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ラマナ・マハルシは意志を持つのか?【意志とハートについて】

ラマナ・マハルシの本を読んでいると、「ラマナ・マハルシは平等主義者なのかな?」って思われるエピソードが書かれていたりします。

例えば、食事。

ごはんの量が、みな、平等であることにこだわっていたようです。

アシュラム内で、自分の分だけ、ごはんの量が多かったりすると、「平等であるべきです」と指摘していたようです。

そう考えると、ラマナ・マハルシは、「ごはんの量は、みな、平等であるべきだ」という明確な意志を持っていたように思えます。

それって、理想や執着のようにも感じますよね。

これは、非常に言葉にしにくいのですが、ラマナ・マハルシは、理想や執着を持っていたわけでもなく、ましてや、意志を握りしめていたわけでもないんです。

でも、周りから見ると、まるで、意志や理想や執着を持っているかのように見えます。

それは、なぜなのか?

お話します。

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真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になるのか?

よく、「真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になる」と言われたりします。

探求の世界では、この言葉は、大きな市民権を得ているように思えます。

でも、一方で、「顔を水の中に沈められたときに、空気を求めるがごとく、激しく真理を求めなければならない」と言われることもあります。

確か、パパジことプンジャジがこんな表現をしていたような気がします。

この2つの言葉は、矛盾しているように感じられますよね。

一体、どっちが正解なんでしょうか?

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真我実現した人(覚者)は残りの人生をどう生きる?【Q&A】

前回、Aさんから頂いた、ひとつめの質問「理想を手放すということと、自殺、バクティについて【Q&A】」にお答えしました。

今回は、Aさんから頂いた、残りのもうひとつのご質問についてお答えします。

真我実現した人は、残りの人生をどうやって生きるのか、ということについてです。