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魂と輪廻の思想の成り立ちと、人格の継続について

最近は、Q&Aの記事は公開していませんが、ちょこちょことご質問をいただいています。その中で、特に多いと感じるのが、魂と輪廻に関することです。感覚的には、60%ぐらいの割合で、そうなんじゃないかと思います。空白JPには、すでにいくつかの魂と輪廻に関する記事がありますが、中には、僕が魂と輪廻を肯定(or否定)していると思って、ご質問される方もいますし、中には、僕の輪廻に関する表現の仕方が、禅問答のようで分かりにくいということで、ご質問をされる方もいます。

確かに、魂と輪廻というのは、単なる思想というのにはとどまらず、その人の信念体系の根幹になっていることも多く、その話題になると、黙っていられなくなるという方も少なくないかもしれません。言ってみれば、魂と輪廻に関する話題は、ちょっとセンシティブなところがあります。

なので、今回は少し視点を変えて、魂と輪廻の思想の、そもそもの成り立ちから考察してみようと思います。現代においては、魂と輪廻についての情報というのは溢れるほどに行き交っていますが、この世界では、魂と輪廻という思想が無かった時代もあったはずです。そこから、一体どのようにして、魂と輪廻という思想は生まれたんでしょうか?

※今回は、15000文字ほどの長文です。

人は死んだらどうなるのか?

現代の日本では、お盆にはお墓参りに行って、お墓の前で、親族や先祖をイメージして、多少の会話をするという行為は、当たり前のように行われているのではないかと思います。でも、よく考えると、こういった行為は全然当たり前ではないんです。少なくとも、死後の思想がその前提になければ、そういった習慣は成り立たないのではないかと思います。

死後の思想が無かった時代、そもそも、お墓というのは存在したんでしょうか? お墓自体が、死後の思想を前提にしているので、きっと、(現代的な意味での)お墓は無かったんじゃないかと思います。であるなら、人が死ぬとどうなったのかというと、ただ単純に、その遺体は、土に埋められるか、火葬されるかなどして、単なる物質になったのではないかと思います。死後の思想がなければ、人というのは、単なる物質として扱われます。

それは、現代においてだって、唯物論的にはそうなんじゃないでしょうか? 人は単なる物質なのであって、死んだら、この体を構成している物質は、土となったり灰となったりして、世界の一部になるというだけです。人は、一時的に有機物としての形態をとり、その活動を終えれば、無機物となって霧散します。

なので、「人は死んだらどうなるのか?」という問いの答えは、あまりにも簡単なんです。「無機物となって霧散します」というのが答えでしょう。

人は死んでも、記憶の中で生き続ける

無機物として霧散するということは、主観的な認識においては、ほぼ存在しなくなるということに等しいです。「死んだ体は、灰となって、土となって、もしかすると、また誰かの体となって、この世界を循環(輪廻)していくんだ」という唯物論的な輪廻観とも呼べる考え方もあるかもしれません。

でも、そういった唯物論的な考え方に、納得できる人はどれだけいるでしょうか? 人が、親族や友人や、もっと言えば、自分自身の死を恐れるのは、その〝人格〟が存在しなくなることなんじゃないかと思います。実際のところ、死んだ人のことを思い浮かべる時、その遺灰を思い浮かべる人は少ないでしょう。多くの場合には、生前の姿が思い浮かべられ、そこには、生前の人格も備わっているのではないかと思います。人によっては、その人格と会話すらするかもしれません。それこそ、現代において、多くの人がお墓の前でするようにです。

よく、「人は死んでも、記憶の中で生き続ける」と言われるように、何をもって、その人が〝生きている〟と言えるのかは、結構あやふやだったりもします。「人は死んでも、記憶の中で生き続ける」ということを、かなりの確信を持って受け取る人もいれば、その言葉を、気休め程度に受け取る人もいるでしょう。生物学的にも、脳死の状態を〝生きている〟と言えるのかは、結構な難題なんじゃないかと思います。「それは人格の死であって、その人の死だ」と認識する人もいれば、「体が生きている限り、それはその人の死ではない」と認識する人もいるでしょう。

何をもって、その人が〝生きている〟と言えるのかという判断基準には差があります。でも、それが死の苦しみを癒やすという方向に向かう場合、圧倒的に採用されやすいのが、その人の〝人格〟が継続することです。「体は死んで灰になっても、人格は生きているんだ」と考えることは、死の苦しみを、多少なりとも癒やすかもしれません。

とはいえ、当然予想される指摘として、「それって、あなたの単なるイメージなんじゃないの?」というのがあります。その指摘に対する反応だって、人それぞれでしょう。「まあ、そうだよね」と思う人もいれば、「何言ってるの? 単なるイメージなんかじゃないよ」と思う人もいると思います。確認しようがない形而上学的なことについては、基本的には、結論をだすことができません。にも関わらず、それは多くの人にとって興味のある話題なのであり、空白JPにも魂と輪廻についてのご質問が多くあるように、議論の的になりやすいです。その結果として、構築されていったのが、魂と輪廻の思想なのではないかと思います。

死の苦しみを癒やすための、魂と輪廻の思想

死後にも人格が継続するということはイメージすることができます。でも、それが形而上学的な議論となると、どうしても都合が良くない部分もでてきます。それが何かと言えば、人格は、記憶に大きく依存しているという点です。言ってみれば、脳死になれば、体が死ぬ前に、その人格も消滅してしまうのであって、死後にも人格が継続するというような考え方はナンセンスなのではないかということです。脳死でなくとも、例えば、老後にボケてしまうこともありますよね。その体が死んだ場合、ボケた人格が継続するんでしょうか? そう考えると、体の死後にも、(継続して欲しいと願っている)その人格が継続すると考えることには、かなり無理があるのかもしれません。

そもそも、この人格が継続するということが明らかなのであれば、死の苦しみというのは存在しません。例えば、映画アバターでは、生身の体を捨てて、アバターにその人格を移行するというシーンが描かれたりします。その場合には、死の苦しみというのは存在しないでしょう。でも、現実的には、そのことは明らかじゃありません。なので、人は、せめて死後にもこの人格が継続するということを期待するわけなのですが、実際のところは、生きているうちにも、この人格は消滅することがあり、そのことは期待できないのかもしれません。

その結果として登場したのが〝魂〟という概念なのではないかと思います。魂とは人格の入れ物なのであって、人格が消滅しようが、変化しようが、魂そのものは〝不変〟なのであって、死後にも継続するという考え方です。そして、その考え方であれば、当然、体が生まれる前にも魂は存在していることになり、自然と、輪廻という考え方も生まれます。

とはいえ、世の中には、輪廻を認めない死後の思想もあります。例えば、キリスト教では、輪廻を認めてはいないと思います。イエス・キリストが輪廻するというイメージはないですよね。ただ、死後に、神の国にいったというイメージです。つまりは、死後にも人格は継続し、人格そのものが〝不変〟であるという前提です。もしそうなら、人格の入れ物としての〝魂〟という概念を作り出す必要はなく、〝輪廻〟という派生的な概念も登場しません。もちろん、人格の継続性に関する疑問というのはあるでしょうが、論理的にどうであれ、死後にもこの人格が継続し、それが不変であるということを信じることが、キリスト教では重要視されるのではないかと思います。

多くの人が望んでいるのは、死後にも、この人格が継続することなのであって、キリスト教では、その理想に沿ったような死後の思想が用意されています。ところが、魂と輪廻の思想というのは、その理想を否定するようなところがあり、その代わりに、〝魂〟と〝輪廻〟という概念が用意されています。

そう考えると、魂と輪廻の思想というのは、死の苦しみを癒やすために考えられた思想のように思えるのですが、それは多くの人にとってはベストな思想とは言えないのかもしれません(少なくとも、人格が失われる可能性は認めなければいけないので)。どちらかと言えば、それは形而上学的な議論にも耐えうる形で残った、論理的な思想のようにも思えます。

輪廻に解脱の考え方があるのはなぜか?

魂と輪廻の思想を考える上で、謎となるのは、〝解脱〟という考え方なのではないかと思います。死の苦しみを癒やすために考えられたであろう魂と輪廻の思想が、解脱という考え方からすれば、輪廻そのものが苦しみの原因として認識されます。これは、明らかな矛盾です。

このことは、魂と輪廻の思想が、形而上学的な議論にも耐えうるようになっていることが影響しているのではないかと思います。本来は、魂と輪廻の思想というのは、信じたい人だけが信じるべき、選択肢だったのではないかと思います。言ってみれば、死の苦しみを癒やしたいという人だけが信じればいい思想です。でも、魂と輪廻の思想というのは、現代においても大きな影響力を持つ思想となっています。人類史上、一位二位を争うほどに大成功している思想とも言えます。それは何故なのかと言えば、誰も、魂と輪廻が〝無い〟と否定することができないからでしょう。

これは形而上学的なこと全般に言えるのですが、確認しようがないものを〝無い〟と言うことはできないんです。なので、魂と輪廻の思想を信じない人や、否定的な人であっても、「魂と輪廻が〝無い〟と証明することはできませんよ」と言われると、なんとなく、その可能性を感じてしまうんです。僕自身は、このロジックを禁じ手だと思っていて、もし、哲学者がこのロジックを使うのであれば、僕はその人を哲学者だと認めないと思います。でも、魂と輪廻の思想というのは、宗教と結びついていることが多く、宗教者であれば、「魂と輪廻が〝無い〟と証明することはできませんよ」と踏み込んでも不思議はありません。実際のところ、このロジックは多用された(されている)のではないかと思います。

そんなわけで、世の中には不思議なことに、輪廻を否定したい(輪廻したくない)と思っているのに、無意識下で魂と輪廻の思想を、どことなく(もしくは強く)信じているという方もいたりします。「別に、死後にもこの人格が継続して欲しいとは思わない」という方もいるでしょう。現実的に考えれば、死後にも、この人格が継続すると考えることは、むしろ難しいのではないかと思います。輪廻を否定したい(輪廻したくない)と思っているのなら、なおさらです。でも、無意識下で、魂と輪廻の思想をなんとなく(もしくは強く)信じているゆえに、その可能性を感じるということもあるようです。これは、「魂と輪廻が〝無い〟と証明することはできませんよ」というロジックの強さゆえであり、意図せずして、魂と輪廻の思想が、苦しみの原因になっていることがあるということでもあります。

実際のところ、魂と輪廻の思想は、あくまでも〝魂〟が継続するという思想なのであって、〝人格〟が継続するという思想じゃありません。でも、魂と輪廻の思想を信じる人の中でも、その区別がついていない人というのは、少なくないように思えます。形而上学的な議論においては、魂とは、あくまでも人格の入れ物なのであって、人格そのものではないという前提が必要です。でなければ、魂という言葉に〝不変的である〟という性質を付与できません。でも、実際のところ、魂という言葉を、人格という意味で認識している人は多いような気がします。

例えば、死んだ人とイメージの中で会話するにしても、もし、輪廻が実際にあるのなら、その魂の中には、すでに違う人格が入っているんじゃないでしょうか? こういったことを指摘するのは野暮なのかもしれませんし、「魂の中には、今まで生きたすべての人格(記憶)が保存されている」という反論もあるかもしれません。もちろん、こういったことは形而上学的なことなので、客観的には確認しようがなく、主観的に自由に想定することができます。

でも、見落としてはならないのは、魂と輪廻の思想に条件を付け加えれば付け加えるほど、それを信じることが困難になるということです。例えば、魂という概念を信じることはそれほど困難ではないと思います。感情を感じる場所に、魂はあると言われれば、なんとなくそのようにも感じられるからです。ところが、「魂の中には、今まで生きたすべての人格(記憶)が保存されている」という条件がそこに付け加えられるなら、そのハードルはグッと上がってきます。

信じることのハードルは、どこまで上げることができるのか?

僕は7歳の時に強烈に死の恐怖を感じて以来、死の恐怖の克服を、人生の裏(表)テーマとして生きてきたようなところがあります。そんな人にとっては、当然、魂と輪廻の思想というのは気になるものでしょう。なので、もし、魂と輪廻の思想が、死の恐怖を取り除けるなら、できれば「きれいに信じさせて欲しい」と思うわけです。

魂と輪廻の思想というのは、信じがたい思想じゃありません。否定することができないので、「もしかしたら、そうなのかな」という感覚です。でも、魂と輪廻の思想というのは、人格が継続することを保証はしません。あくまでも、継続するのは魂であるというのが、魂と輪廻の思想の、論理的で、ドライで、否定しがたい部分です。なので、人格が継続することを望んでいた僕は、魂と輪廻の思想に何かを期待するということはありませんでした。でも、だからといって、人格が継続するという、キリスト教的な死後の思想を信じることは、僕にとってはハードルが高いものでした。信じるのが難しいことを信じようとすることは、救いだけではなく、時には苦しみを生み出します。そのことは、多くの人が経験的に理解しているんじゃないかと思います。それこそ、キリスト教内でだって認識されているでしょう。それは、確認することができない形而上学的なことではなく、明らかに確認できることです。

僕は、魂と輪廻の思想の構築には、そのことをよく理解している人が関わっていたのではないかと思っています。だからこそ、魂と輪廻の思想というのは、ある程度は論理的に考えられていますし、信じるためのハードルがかなり下がっているように思います。それこそ、逆説的に、信じる気がない人にまで、無意識下で信じさせてしまうというほどにです。

そう考えると、魂と輪廻の思想に、「魂の中には、今まで生きたすべての人格(記憶)が保存されている」というような、信じるためのハードルがグッと上がってしまう派生が起こることは、よくよく考えれば、おかしなことなんです。魂と輪廻の思想の成り立ちを考えれば、人格の継続が望めないからこそ、魂という概念が登場したように思えます。一旦、人格の継続を否定しなければ、〝不変の魂〟という概念は登場しないでしょう(キリスト教と同じように、人格そのものが不変であるということにすればいいんですから)。

ところが、その成り立ちが考慮されずに、最初から〝魂〟と〝輪廻〟という概念だけが用意されている場合、反対に、「なぜ魂の中に、今まで生きたすべての人格(記憶)が保存されているということになっていないのか?(そうであるべきだ)」という、疑問(願望)が起こっても不思議じゃありません。多くの人が望んでいるのは人格の継続なのであって、魂と輪廻の思想にも、人格の継続を期待するというのは当然だと思います。

でも、そうなると、思想が先祖返りしたかのように、形而上学的な議論が避けられなくなります。例えば、魂の中に、今まで生きたすべての人格(記憶)が保存されているのなら、今この瞬間だって、それが認識されてしかるべきですが、それを認識できる人はいるでしょうか? 当然、そんな人はほとんどいないわけです。なので、そこには「瞑想修行をすれば、過去生の記憶を思い出せるようになる」、「魂と輪廻の思想を強く信じれば、過去生の記憶を思い出せるようになる」、「奉仕活動をして魂が進化していけば、次第に過去生の記憶を思い出せるようになる」というような、条件が付け加えられていくのではないかと思います。

でも、もし仮に、瞑想修行をして何かしらの記憶と呼べるようなものを思い出したとして、それが過去生の記憶であるということを疑いなく確信することはできるんでしょうか? この人格というのは、この体が生まれてから積み上がった記憶がベースになっています。それは、断片的な記憶で成り立っているわけじゃありません。なので、例え、断片的に過去生の記憶を思い出したとしても、それは、その時の人格が継続しているということにはならないでしょう。それは、あくまでも断片的な記憶なのであって、この人格に認識されうる対象でしかありません。

多くの人が期待しているのは、この人格が継続することなのであって、自分が保持しているであろう記憶を、来世の別の人格を持った誰かに、断片的に思い出してもらうことを期待しているわけではないはずです。なので、実際のところは、人格の継続性を確認したいのなら、自分の中に、突如として別人格が現れることを確認しなければいけないのではないかと思います。そして、その別人格が、本当に過去生の人格なのかということを確認しなければならないでしょう。もし、それが人格として機能しているのなら、そこには、この人格と同程度の記憶の積み重ねがあるのではないかと思います。であるなら、記憶は断片的ではなく、統合的なのであり、過去に起こった出来事などにも、(この人格と同程度に)一貫性を持って答えられるのではないかと思います。でも、僕はそういった人格を保持しているという人に出会ったことはないですし、そういった話を聞いたこともありません(知らないだけかもしれませんが)。

もちろん、こういった指摘に対しても、さらに条件を付け加えていくことができるはずです。例えば、「体を持って生きている間は、すべての人格(記憶)を把握することはできないけれども、体を去って魂だけの状態の時には、すべてが把握されている状態になる」というようなものです。この場合、確認しようがない形而上学的なことなので、ただ、信じるということが求められます。そのようにして、この派生的な思想は、どんどんと信じることのハードルが上がっていく傾向があるように思います。

もちろん、信じることは自由ですし、僕は、信じるということを必ずしも否定するわけじゃありません。むしろ、死の恐怖を取り除くために、「きれいに信じさせて欲しい」と思っていたぐらいなんですから。でも、信じがたいことを信じようとすることは、時には苦しみを生み出します。なので、むやみに信じることのハードルを上げてしまうことは、僕は、誰のためにもならないと思っています。

もちろん、ハードルを上げているという自覚がないことも多いかもしれません。魂と輪廻の思想というのは、どこか娯楽というか、エンターテイメントとして機能しているようなところもあります。輪廻は、壮大な時空間をイメージすることができるので、様々な想像を楽しむことができます。死後にこの人格がどうなるのかという想像を、楽しむことすらできるかもしれません。世の中には、そういった輪廻の世界観を提供している人も多いでしょう。でも、フッとした瞬間に、楽しむことが疑いへと変わるとき、それは信じるべきハードルとして認識されるかもしれません。

解脱という考え方において、輪廻(の思想)が苦しみの原因だとみなされることがあるのは、おそらくは、このようにして信じることのハードルが無制限に上がっていってしまうことが原因なのではないかと思います。解脱という考え方は、この派生的な思想の〝中〟に組み込まれていることも多いですよね。例えば、「解脱するためには、1000年を超える寿命を達成しなければならない」というような考え方です。そういった根拠は、寿命1500年以上と推定される伝説上の人物が根拠になっていたりするのかもしれませんが、それを実現できる可能性はどれほどでしょうか? もちろん、今生で実現できずとも、来世以降で実現されればよいという考え方になるのだと思いますが、一体、どれほどの輪廻を繰り返せばいいんでしょうか? 気が遠くなるんじゃないかと思います。そしてまた、本当に解脱を求める人にとっては、大きな苦しみの原因になるかもしれません。

でも、そもそも、魂と輪廻の思想というのは、死の苦しみを癒やしたいという人のために構築されたものなのであって、死後に人格の継続を望まないという人にとっては、信じる必要のないものなんじゃないかと思います。なので、解脱を求める人にとっての、本当の解脱というのは、この派生的な思想を含む、魂と輪廻の思想を信じることをやめることかもしれません。それだけで、少なくとも、信じることによって生み出されていた苦しみ(と同時に理想)は、消えてしまうのではないかと思います。

魂が自分自身なのであれば、確認できるのではないか?

魂と輪廻の思想は、信じるべき思想だと思われがちですが、必ずしもそういうわけじゃないんです。魂と輪廻の思想は、人格の継続を保証はしません。でも、魂と輪廻の思想は、人格が継続するという思想からは導き出されないある可能性を示します。それは何かと言えば、「自分とは、人格ではなく、魂ではないか?」という可能性です。

それは、あまりにも当たり前でシンプルなことなのですが、その可能性は見落とされがちです。というのも、多くの人にとって関心があるのは人格の継続なのであって、魂という概念そのものは、どこか信じるべき対象というか、他人事のようなところがあるからです。でも、魂が人格の入れ物なのであれば、それは、魂は、人格以上に自分であるということでしょう。

ものごとを論理的に考えていたであろう、魂と輪廻の思想を構築した人たちが、そのことに気がついていなかったわけはないと思います。もし、自分であるはずの魂を確認することができないのであれば、〝魂は人格の入れ物である〟という考え方自体、疑わしいものになります。なので、当然、「どうすれば魂を確認できるのか?」ということになったのではないかと思います。今でこそ、魂というのは、その性質が様々に語られているのではないかと思います。サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)という言葉もありますし、魂の性質についての派生的な考え方もあると思います。でも、何の情報もない状態にあっては、魂を確認する手がかりは〝不変〟であるということ以外にはありません(稀に不変の何かを認識する人が現れて、そういった事例が参考にされた可能性はありますが)。

そこで考え出されたのが、〝瞑想〟という手段なのかもしれません。よくよく考えれば、瞑想というのはとても不自然なことですよね。なぜ、黙ってジッとしていなければいけないんでしょうか? 何の理由もなしに、そんなことをする人は考えづらいです。でも、それが、〝不変〟の何かを確認するためだというのであれば、不思議はないのではないかと思います。

現代においては、瞑想というのは、様々な考え方、様々な実践方法、様々な目的があると思います。多種多様です。それは何故なのかと言えば、〝不変〟の何かを確認しようとすることは、つまらなくて苦痛だからでしょう。多くの人にとって、不変であるかのように感じられる感覚のひとつに、退屈というものがあります。退屈は常に感じられるわけではありませんが、人はどうすれば退屈するのかを何故だか知っており、退屈は永続するものだと認識していることが多いのではないかと思います。それは、退屈の感覚が、魂である可能性があるということなんじゃないでしょうか? 不変の何かを確認しようとすることは、そういったことを確認しようとすることです。

でも、多くの人が望んでいるのは、そういうことではないのかもしれません。現代においては、サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)という予備知識もあるので、「魂の性質は至福なのであって、退屈の感覚ではない」と否定することもできてしまいます。意図的に至福感を感じられるような、マントラや、ヨガなどの瞑想方法の方が好まれるかもしれません。でも、その結果感じられる至福感が、一時的なものなのであれば、やはり、それは不変の魂とは呼べないのではないかと思います。

そう考えると、多くの人が望んでいることと、魂と輪廻の思想を構築した人たちが、実際に確認しなければならなかったことの間には、大きなズレがあるということが分かるのではないかと思います。魂と輪廻の思想を成り立たせるには、(論理的な理由で)人格の継続を否定せざるを得ず、(魂の実在を確認するために)退屈の感覚(に限らずあらゆる感覚)が不変なのかどうかの確認が避けられません。でも、魂と輪廻の思想を構築した人たちは、本気でそれを確認したでしょう。サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)というのは、その結果、理解されたことなのであって、最初から知っていたわけではないはずです。言ってみれば、先行きが見えない中、〝不変〟ということだけを頼りに、探求の旅に出たようなものです。もしかすると、退屈の感覚が〝不変〟なのであり、死ぬまでずっと退屈していた可能性もあります。さらに言えば、〝不変〟と呼べるものなんて見つからなかった可能性もあります。であるなら、魂の性質は、サット(存在)・チット(意識)・ボーリング(サンスクリット語で退屈って何て言うんでしょう?)として伝わった可能性もありますし、そもそも、魂と輪廻の思想が取り下げられた可能性もあります。

実際のところ、〝不変〟を認めない思想だってありますよね。例えば、仏教の「空」の思想では、不変の実在を認めてはいないと思います。もしかすると、魂と輪廻の思想を構築した人たちが、そういった結論に至った可能性だってあるわけです。その結論は、主観的には決して間違っていないと思います。ただ、その場合、死の苦しみに対する解決策は何もないという結論になるんじゃないかと思います。

死後に人格が継続することは期待できず、不変の魂として死後に継続する可能性もなく、死後には灰となってこの世界の中を循環することが予想されるだけです。でも、多くの人は、そんなことは望んでいないでしょう。なので、仏教の「空」の思想にも、数多くの派生的な思想が登場しているのではないかと思います。例えば、「魂ではなく、(不変ではない)心がこの世界を輪廻する」というような考え方です。でも、魂と輪廻の思想の成り立ちを考えればわかると思いますが、〝輪廻〟という考え方は、〝魂〟という不変の実在が想定されるからこそ派生的に生まれます。なので、心は不変ではないのなら、輪廻という言葉は使われるべきではないのかもしれません。もし、本当に、心は不変ではないのなら、「魂ではなく、心がこの世界を〝循環〟する」と表現した方が適切でしょう。

個人的な体が、非個人的な灰となって、この世界の中を〝循環〟するように、個人的な人格が、非個人的な心となって、この世界の中を〝循環〟する、という表現の方が「空」の思想にはピタリと当てはまるのではないかと思います。とはいえ、こういった表現に違和感を感じる人もいると思います。それは何故なのかといえば、やはり、本当のところは心を人格だと認識しており、死後にも継続して欲しいと願っているからではないかと思います。死んだ人のことを思い出す時は、非個人的な心ではなく、その人格を思い出すのでしょう。だからこその〝輪廻〟という表現になるのかもしれません。

それゆえか、仏教では「空」そのものを不変の実体であるとみなす派生もよく起こります。輪廻を成り立たせるために、心を、魂のように不変であるとみなすこともあるようです。であるなら、心と魂というのは同じものなのではないかとも思えるのですが、仏教では、その違いにこだわる傾向があるように思えます。というのも、魂という言葉を使うと、感情を感じる場所に、それを確認しようとすることができてしまうからです。心という言葉であれば、場所は特定されず、確認しようがない概念として使うことができます。不変なのは「空」(と心)なのであって、魂の不変性を確認しようとすることはナンセンスである、と考えることも、こういった派生の重要な側面のひとつです。このことは、魂と輪廻の思想の、特に、魂を確認することができるという実践的な考え方への否定として使われることが多いと思います。

でも、こういった派生は、「空」とは何かということの誤解から生まれています。この場合、「空」とは何かと言えば〝空間〟のことを指すのだと思われがちです。でも、龍樹の『中論』を読めば分かると思いますが、龍樹はそんなことは言っていません。むしろ、「空」を不変の実体であるとみなす考え方を、〝空見〟と呼んで否定しています。〝空間〟とは、〝5感覚〟と〝気づく働き〟の縁起によって存在しているように感じられるものなのであって(現代的に言えば、空間とは脳内で認識されている内的表現)、それそのものは実体を持たないというのが、本来の「空」の思想です。

なので、こういった派生的な考え方は、そもそもの始めから論理的に破綻しているようなところがあります。特に、輪廻を成り立たせるために、心は不変であるとみなすことがある場合には、その破綻は顕著です。その根拠は、心とは、「空」という不変の実在の一部だからということになるかもしれませんが、そんなことを言えば、心に限らずにあらゆるものが不変でしょう。この体だってそのはずです。でも、実際のところはどうでしょうか? つまりは、この考え方では、自身の都合によって、「これは不変であり、これは不変ではない」と自由に想定しているようなところがあるんです。一体、何を根拠にしているんでしょうか? そこには、ただ信じることだけが求められるような気がしています。そういった意味で、こういった「空」の派生と、魂と輪廻の派生(魂の中には今まで生きたすべての人格(記憶)が保存されているという)には同じようなところがあって、どこまでも信じるためのハードルが上がっていく傾向があるように思います。

というわけで、魂と輪廻の思想の成り立ちについて考察してみました。魂と輪廻の思想というのは、宗教的に構築された、信じるべき対象であるかのように感じる人も多いかもしれませんが、実際のところは、〝不変〟の魂が確認されることによって、最終的に成立するに至った論理的かつ実践的な思想なのではないかと思います。

とはいえ、魂と輪廻の思想には不思議なところがあり、〝魂〟を確認している人ほど、次第に、魂と輪廻の思想を否定するようになる傾向があります。もちろん、「それはおかしいじゃないか」と思う人は多いと思います。不変の〝魂〟が確認されるということは、魂と輪廻の思想が正しいということなのであって、否定されるようになるというのは確かにおかしいです。でも、そういう可能性もあり得るんです。

例えば、「あの山の頂上には神様がいて、この世界を創造している」という信仰があったとします。この場合、あなたならどうするでしょうか? 山頂の神様をイメージして、「この世界を平和にしてください」と願うでしょうか? それとも、実際に山に登って、神様が本当にいるかどうか確認しようとするでしょうか? それとも、「そんなの迷信だ」と否定するでしょうか?

実際のところ、山頂には神様なんていない可能性だってあるわけです。なので、実際に山を登って、山頂に神様がいたのであれば、まずは、そのことを喜ぶでしょう。「あぁ、本当に神様はいた」と。でも、だからといって、それは、その神様が、この世界を創造していることを保証はしないということです。喜び勇んで神様の元に駆け寄って、「この世界を平和にしてください」と願っても、「私も創造されているのであって、そんなことはできないよ」と言われる可能性だってあるわけです。それと同じような構図が、実は、魂と輪廻の思想にも隠れています。

もし、輪廻が人の想像でしかないのであれば、魂という言葉の意味も変わってくるでしょう。例えば、〝真我〟という言葉の方が適切かもしれません。とはいえ、それはあくまでも僕の主観的な認識なのであって、客観的にそれを証明することはできません。何が正しくて、何が間違っているかということは、形而上学的なことに限って言えば、客観的には証明し得ないことです。

なので、魂と輪廻の思想については、あらゆる可能性があります。強く信じることで、あらゆる疑いを消滅させることだって可能なのかもしれません。それは、派生的な思想も含みます。ただ、歴史上、それを達成した人はまだ現れてはいないであろうことは、理解しておいてもいいかもしれません(それは、僕が信じるという道を選ばない理由でもあります)。言ってみれば、信じるという道は、それを実践する人は多いかもしれませんが、その道はゴールまで続いてはおらず、その道を行こうというのであれば、前人未到の偉業を達成するという覚悟が必要かもしれないということです。

一方、実際に魂を確認しようとすることは、前例があり、前人未到ではありません。魂と輪廻の思想を構築した人たちの中にも、それを確認した人はいるでしょうし、歴史上でも、それを確認したと思われる人たちがいます。僕も、主観的にそのことを確認していますし、空白JPの読者の中にも、そのことを確認している人がいるかもしれません。なので、ある程度はこの道は整備されているようなところがあり、それでも迷いやすそうだというところについては、空白JPで補足するようにしています。この記事だって、そのひとつです。とはいえ、この道は、決して楽な道ではないと思います。特に、その入口は狭く険しいです。そしてまた、この道を選ぶ人はどんな時代であれ少なく、心細い思いはするかもしれません。

とはいえ、この2つの道は、矛盾するものでもなく、バッティングするものでもありません。魂と輪廻の思想を信じながらも、魂を確認しようとすることもできると思います。さきほどの例え話で言えば、信仰を信じながらも、実際に山に登ることもできるようにです。それは、同時並行が可能です。むしろ、本当に強く信じているのなら、確信をもって、魂を確認することができるんじゃないでしょうか? 反対に、魂を確認することに抵抗を感じる場合には、どこかに、魂と輪廻の思想への疑いが潜んでいるのかもしれません。

もちろん、魂など実在せず、それゆえに、輪廻も無く、人格の継続も望めないという結論に至る可能性もあります。その場合には、死の苦しみに対する対処法は無いという結論になり、死後についてあれこれと考えるよりも、今をいかにして充実させるかという方向性になるでしょう。科学者が感情についての話題を避けるように、感情について盲目であることは続くかもしれませんが、それはそれで、現代的な考え方とも言えます。

最後に、最古の仏典と呼ばれるスッタニパータから、ブッダのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。(784・785)

邪悪をはらい除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪をはらい除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか? かれはもはやたより近づくものがないのである。諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの論議(誹(そし)り、噂さ)を受ける。(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見をはらい去っているのである。(786・787)

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