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サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとは何か?【自然な状態】

ラマナ・マハルシの本を読んでいると、〝サハジャ〟という言葉が良く出てきたりします。ラマナ・マハルシの本に限らず、インドの覚者・聖者に関する本にはよく登場するかもしれません。サハジャとは〝自然な〟という意味なのですが、大抵の場合には、「〝自然な〟って一体どいういうことなんだ?」と疑問に思うのではないかと思います。そして、ともすれば、〝自然な〟という言葉に、超越的なイメージを持たせてしまうことも少なくないのではないかと思います。でも、そういうわけじゃないんです。〝自然な〟というのは、言葉のとおりの意味です。サハジャであることに努力はいりません。でも、それは逆説的に、多くの人にとっては難しいことなのかもしれません。

サハジャとは〝自然な〟という意味

多くの動物は〝自然に〟生きています。でも、人だけは、多くの動物とは違っているようにも見えます。人には、言葉を操る知性がそなわっていますし、そしてまた、自分自身を客観的に判断する働きを持つ、自我がそなわっています。この二つの特徴があるため、人というのは、どこか二重人格的です。例えば、大好きなチョコレートを食べようと思った時に、「いやいや、最近太ってきたからチョコは控えよう」とか相反することを考えたりします。言ってみれば、理性(自我)と知性(本能)の間での方向性の不一致がよく見られるんです。

サハジャというのは、理性と知性の方向性が一致するということです。例えば、理性(自我)の場合、社会的な承認欲求を満たそうとする方向性に向かうことが多いのではないかと思います。「太ってきたからチョコは控えよう」と考えるのは、他者からどう見られるのかということを気にしているからかもしれません(健康を気にしてとかもありますが)。一方、知性(本能)の場合、快楽に忠実なのではないかと思います。とにかく、味覚を満たすためにチョコレートを食べたいんです。社会的な承認欲求なんて関係ないし、太ろうが虫歯になろうが関係はないんです。

なので、理性と知性の方向性が一致するだなんてことは絶望的にも思えるのですが、一致する状態があるんです。それが、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディです。ニルヴィカルパというのは、〝原因の無い〟という意味で、サマーディは、〝至福感〟や〝解放感〟のことを意味します。具体的に言えば、やらなければならない仕事から解放された解放感が、原因も無く持続しているような状態です。理性や知性からすれば、「そんなことがあり得るのか?」と思える信じがたい状態なのですが、ラマナ・マハルシが言う〝サハジャ〟というのは、そういう状態です。

原因も無く解放的な感覚が持続するようになると、〝自然と〟理性と知性の方向性は一致するようになります。もちろん、外部的な影響によって、理性優勢になったり、知性優勢になったりもします。チョコレートを食べたいと思ったら食べるし、控えたいと思ったなら控えるんです。でも、際限無く、承認欲求を求め続けたり、快楽を求め続けようとする傾向は消えてしまいます。なにしろ、欲しいと思っていたものは、原因も無くここに〝在る〟からです。

サハジャは決して、超越的で、神秘的な状態じゃない

サハジャというのは〝自然な〟状態なのですが、ラマナ・マハルシが〝サハジャ〟と言うと、なんとなくそれは超越的で、神秘的な状態であるかのように感じられたりもします。僕は、そう勘違いしました。「ラマナ・マハルシの言う〝サハジャ〟というのは、もしかして、自意識が無い状態で、世界の中で機能している状態なのかな?」と思ったりもしました。その状態は、この自我とは関わりの無い状態なのであり、良く言われる〝自我が消えている〟という表現とも一致します。「もしかして、そうなのか?」という可能性を、僕はなかなか捨てることができませんでした。

でも、そういったことはないんです。その状態は、泥酔して家に帰宅したことがある人は、経験したことがあるはずです。自意識が無くとも、この身体は勝手に機能し、家に帰るんです。それは〝サハジャ〟な状態でしょうか? もしそうであるなら、ずっと泥酔していたっていいのかもしれません。でも、そういうわけじゃないんです。サハジャというのは、自意識の有る無しに関係あるわけじゃなく、自我の有る無しに関係するわけでもないんです。サハジャとはあくまでも、原因も無く、解放感が持続している状態のことなんです。

サハジャは、〝私は在る〟ということと同じ

〝サハジャ〟という言葉は、サンスクリット語版の〝私は在る〟と言っても良いと思います。同意語です。〝私は在る〟という言葉は、もともとは聖書が由来だと思いますが、真理の本質は、西洋でも東洋でも同じだということですね。なので、〝サハジャ〟とは何かを理解することは、〝私は在る〟とは何かということを理解することと同じです。

理性と知性は、何かを求めて様々な行動を起こすわけなのですが、本当に満足するということがありません。満足したとしても、それは一時的なんです。チョコレートを食べたって、味覚が満たされるのはその時だけです。チョコレートを我慢して痩せたって、褒められて承認欲求を満たせるのは1回だけかもしれません。なので基本的に、理性と知性の欲求はエスカレートしていくことが多いのではないかと思います。欲求を満たすために、多大な努力をするようになるかもしれません。にも関わらず、満足できるのはやはり一瞬だけだったりもします。人生というのは、そういうものなんでしょうか? 際限無く、努力し続けなければいけないんでしょうか? このパターンに気がついてしまった人は、その際限の無さに絶望したりします。

でも、見落とされているのは、その絶望感すら、一時的なものだということです。人によっては、その絶望感を避けるために、嫌々でも努力を続ける人もいるかもしれません。でも、そこには出口はありません。八方塞がりです。もちろん、たいした努力もなく、様々なことを実現していくことができる優秀な人は、器用にその絶望感を避けることができるかもしれません。でも、結局のところ、死という絶望にとらわれることは避けられません。そうではなく、その絶望感は、一時的なものだということを確認してみればいいんです。もちろん、それは不愉快な経験になるかもしれませんが、その絶望感は一時的なのだということを理解することは、理性と知性どちらにとっても、意外な発見になります。

あらゆる一時的な状態が、取り除かれた状態が〝サハジャ〟です。それはベースです。基盤です。それだけは取り除くことができません。もちろん、こういったことは言葉でいくら説明したって意味をもたないと思います。実際に確かめてみるしかありません。今、あなたが感じているその状態は、一時的なものでしょうか? それとも自然で持続的なものでしょうか? 理性と知性は、同じ方向性を向いているでしょうか?

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