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意志が実在しないなら、すべてがどうでもよくなるのか?

先日、うちの妻に、「意志に実体がないということがわかると、色んなことが、どうでもよくなったりするの?」と聞かれました。

僕が、色々なことに対して、どうでもいいと思っているように感じるのかもしれません。

まあ、確かに、そういうことも多いのですが、必ずしも、そうじゃないんです。

ビックリするぐらい、細かくなることだってあります。

簡単に言ってしまえば、次の瞬間、自分がどう考えて行動するのか、他人を見ているように、分からなくなるんです。

ただ、分からない。

仮に、「意志に実体がないということを理解することは、色んなことが、どうでもよくなることだ」と思うなら、そういったバイアスがかかってしまうでしょう。

無意識的に、どうでも良く感じるように、意識してしまうかもしれません。

でも、実際のところは、「よく分からない」んです。

結果的に、どうでもいいと感じることは、確かに多いのですが、必ずしも、そうなるとは限りません。

例えば、今、全国で、GoToトラベルキャンペーンをやっていますよね。

旅行代金が35〜40%オフ、しかも、地域共通クーポンとして、15%が付与されるということで結構お得です。

まあ、いい機会だなと思って、妻に、「どっか良いところあるかな〜。お得なら行こうか。任せるよ〜。」と言ったわけです。

自分で調べるのも面倒くさいし、任せるかと。

で、妻から、いくつかの候補がリストアップされてきたわけです。

でも、僕は、それらのリストをザッと見通すと、自分でも候補地を調べ始めました。

まずは、「GoToトラベルキャンペーンとはなんぞや?」というところからです。

このブログを良く読んでいただいている方は分かるかも知れませんが、僕は、結構細かいと思います。

まあ、大雑把で適当なところもあるし、細かすぎるということはないと思うのですが、どちらかというと、細かいかもしれません。

で、自分なりの候補を見つけました。

うちの妻が提案してきた候補とは、地域も結構違うところです。

そして、「ここも良さそうだよ」とか言って、妻に提案してみました。

すると、「任せるとか言って、全然任せてないじゃん!」と言われてしまいました。

「「任せる」という言葉を、「任せない」という意味で使う人が、ここにいた!」とまで言われてしまいました。

確かにその通りです。

任せるとか言って、全然任せていないんです。

最初は、面倒くさいとか、どうでもいいと思っていたんですが、いざ、候補を選ぶとなると、自分でも調べたくなってしまったんですね。

まあ、結果としては、妻のご希望のところへ行くことになりました。

どんな結果になるのかということに対して、不安がない。

意志というのは、有ったり、無かったりします。

意志が実在するわけじゃないと理解したとしても、それは、意志が弱くなるとか、意志が変質するということじゃないんです。

まあ、場合によっては、意志が変質するかもしれません。

でも、そうであるなら、おそらく、真理の探求をしていなくても、変質していたはずです。

言ってみれば、探求が終わる前と、探求が終わった後、何も変わらないとも言えるんです。

探求者にだって、意志が有る瞬間と、無い瞬間があります。

覚者と違いはありません。

ただ、そこに、自覚があるかないかの違いがあるだけなんです。

もっと具体的に言うならば、覚者は、自分の、この意志というのは、思考と同じようなものだと理解しています。

瞑想をしていると、分かると思いますが、思考やイメージというのは、現れては消えていきます。

それと同じようなものです。

自分の、この意志というのも、思考と同じようなものであり、現れては消えていきます。

ただ、違いは、意志の場合には、自分の意志で現れて、自分の意志で消えます。

意志は実在しているわけじゃないと理解しながらも、そこには、自由意志のような感覚があります。

そして、同時に、運命が決まっているという感覚もあります。

意志からすれば、実際には自由なんてありません。

どうするべきかは、決まっているようにも感じるからです。

でも、そこには、自由の感覚があります。

矛盾しているように感じられますが、覚者は、ここに矛盾を感じません。

もっと言うならば、覚者にとって、思考と意志には、ほとんど違いがありません。

思考が、意志に取り込まれてしまったような感覚があります。

僕はたまに、「意志がなくても、体は勝手に動き、思考は機能する」と言ったりします。

でも、もっと詳しく言うなら、意志が、思考のように機能し始めるんです。

例えば、ラマナ・マハルシは、「実現してしまえば、思考を起こすほうが難しいのです」と言ったりします。

日常生活のほとんどを、瞑想状態で過ごすようになるなら、段々とそうなっていきます。

なので、「真理を悟ると、動くことができなくなってしまうのでは?」とか思ったりもするのですが、実際のところは、思考と意志が統合されたような感じになります。

多くの人は、思考というのは、頭から勝手にでてくるものだと思っていると思います。

瞑想中に、思考を観察しようと思うなら、そんな感覚がすると思います。

でも、覚者の場合には、思考というのは、ハートから現れているように感じられるんです。

しかも、意志と共にです。

なので、そこには、分離感というものがありません。

意志は思考であり、思考は意志だからです。

そこには、思考と意志の対立というものがありません。

例えば、先ほどの、GoToトラベルの例で言えば、妻からもらった候補のリストをザッと見通して、僕は、自分でも調べ始めました。

「任せる」とか言っておきながら。

そこには、「よし、ちょっと自分でも調べてみるか〜」という意志、思考、行為があり、「そうするべきだ」という自由の感覚があります。

認識としては、「任せるって言っちゃったけどな〜」というのもあったりするのですが、それを気にする人がいないんです。

「そうするべきだ」という自由の感覚に従って、行為が行われることになります。

その結果、どういうことになるのかということは、考慮されません。

結果を気にするという意志が起こらない限りはですが。

その結果、僕は「「任せる」という言葉を、「任せない」という意味で使う人が、ここにいた!」と言われることになりました。

まあ、これぐらいはかわいいものですよね。

でも、人生では、結果を気にせざるを得ない選択を迫られることもあります。

例えば、それが、死に関わっているときもあります。

覚者というのは、そんな時でも、「そうするべきだ」という自由の感覚に従う人です。

それに逆らうなんていうことは考えられません。

そもそも、逆らおうとする人がいませんし、それは、分離の始まりであり、自由の感覚の喪失だということは、明白だからです。

体の死を避けようとして、自由の感覚から、自ら分離しようと考える覚者なんて存在しません。

むしろ、それこそが死のように感じられます。

もちろん、避けられる痛みは避けようとします。

イエス・キリストだって、石を投げられそうになると逃げました。

でも、それが避けられないものであるなら、そこに、自由の感覚があって、分離感がないなら、それを避けません。

例え、その結果、死ぬことになってもです。

なので、意志が実在しないことを理解することは、死の恐怖を克服することと、ほぼ同義です。

死を恐れているうちは、死へと繋がる結果を、避けようとするんじゃないでしょうか?

そこでは、意志と思考の分離が起こりやすいです。

意志が実在しないということを理解することは、すべてが、どうでもよくなるというわけじゃありません。

ただ、自分が、どう思考して、どう行動するのか、他人を見るように、分からなくなるだけです。

でも、分からないということに対して、不安はなくなります。

どんな思考が起ころうが、どんな行動が起ころうが、そこには、分離がないからです。

それは、ワクワクしなくなるとか、ドキドキしなくなるとか、イライラしなくなるとか、シクシクしなくなるというわけじゃありません。

もし、イライラするなら、分離感なくイライラするだけです。

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作成者: 山家直生

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