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悟りと真理について

意志(自我)が弱い覚者は存在しない

真理を悟った覚者には、自我は存在しないと思われるかもしれません。

あったとしても、自我はとても弱いのではないかと思うかもしれません。

それこそ、最低限の日常生活を送れる程度にです。

ところがどっこい、そうはなりません。

覚者の自我(意志)というのは、まず間違いなく、強いです。

これは、おそらく多くの探求者が、勘違いするポイントなのではないかと思います。

歴史上、それほど少なくもない覚者が登場してきていますが、意志が弱いように感じられる覚者というのは、いるでしょうか?

覚者にとって、意志というのは、道具のようなものです。

自分自身のアイデンティティは、そこにはありません。

そして、道具なのであれば、便利なほうがいいんじゃないでしょうか?

意志であれば、強いほうが便利なんじゃないでしょうか?

覚者には、意志が強いからこそ、真理の探求という荒波を乗り越えてこれたという側面があります。

自我は、有ったり、無かったりする。

自我というのは、有ったり、無かったりします。

決して、弱くなって、最後には消えるとか死ぬというようなものではないんです。

もし、そうなのであれば、自我という実体があるということになってしまいます。

そうではなく、そもそも、自我には実体がないんです。

生きてもいないので、死ぬこともできません。

ただ、この世界においては、様々なものとの関係性の中で、自我というのは機能します。

必要な時には現れて、不要な時には消えています。

覚者は、そのことを自覚していますが、多くの人にとっては、自我というのは、常にここに有るもののように感じられるんじゃないでしょうか。

「自我が消えるなんて不可能でしょ」って思うんじゃないでしょうか。

でも、それは、自我とは何かを勘違いしているからです。

自分が存在するという感覚と、自我という機能性は、同一のものじゃありません。

でも、自我は、同一のものだと思い込んでいます。

自我が消えるということは、この、自分という存在の感覚も消えることだと思っているんです。

それは、自我が、自身の実在性の無さをごまかすために、そう思い込んでいるだけなんです。

真理を悟るということは、この「自分が存在するという感覚」が消えることだとイメージする人もいるかもしれません。

でも、それは不可能です。

もし、そのイメージを膨らませるなら、それに相当する神秘体験をするのがオチなんじゃないかと思います。

それだと、真理に近づくどころか、真理との分離感が強くなるでしょう。

僕は、「自我」という言葉を、「意志」という意味で使うことが多いです。

真理の探求というのは、最終的には、意志の問題です。

意志は、その実在性を失います。

でも、意志はそのことを恐れます。

自由意志を失うことを、世界に対してのコントロール権を失うことを恐れます。

自分が存在するというアイデンティティを失うことを恐れます。

それはつまり、死への恐れです。

それゆえに、自我は、スケープゴートを用意することが多いです。

スケープゴートというのは、身代わりですね。

勝手に湧き上がる「思考」のことを、自我は「自我」だとみなそうとします。

自身は、意志というポジションをとり、思考という名の「自我」を、管理したり、観察しようとします。

そうしようとしている限り、意志は、実在性を保つことができます。

この状態にとどまろうとする探求者は、結構多いんじゃないでしょうか。

場合によっては、この状態を「真理」だとみなそうとする人もいるかもしれません。

でも、覚者というのは、この状態に満足することができなかった人達です。

意志が自我なんです。

覚者というのは、自我が感じている恐れの正体を、突き止めようとするだけの、意志の強さを持っていた人達です。

世界の中で、ひとりだけでも「NO」と言える意志はあります。

少なくとも、覚者には、世界中の人が「YES」と言っている中、ひとりだけでも「NO」と言えるだけの、意志の強さがあります。

もちろん、覚者といっても、体を持った個人として、日常生活を送ることになります。

日常生活の中では、あーだ、こーだ、と、相手に意見を合わせることもあったり、妥協することだってあると思います。

覚者は、全てを知っているわけじゃありません。

弁護士のように、法律に精通するわけでもないんです。

税理士のように、税金に精通するわけでもありません。

悟りという現象が起こったからって、何か、言葉や概念として、知識が頭の中に入ってくるということはありません。

むしろ、知らないことだらけです。

ただ、知ろうとするならば、真理と世界との関係性が、非常に良く分かるようになるというだけです。

そして、そのことに、非常に強い確信があります。

それこそ、世界中の人が「YES」と言っていたとしても、それが違うと思うのなら、ひとりだけでも「NO」と言います。

意志が強いというより、真理に帰依してしまっています。

真理の探求において、ある段階までは、意志の強さというものが求められます。

でも、ある段階を超えてしまうと、意志の強さというのは、それほど、重要ではなくなってしまいます。

特に、悟りという現象が起こるのならば、それは、非常に明白になります。

意志を使って、真理を証明しようとするまでもなく、それは、明白だからです。

真理がここに在るということは、非常に明白です。

それは、例えるならば、火にかけたヤカンを手で触れると、「熱い!」と感じることと、同じぐらいに明白です。

手の触覚で、熱いって感じますよね。

誰も、「冷たい!」とは思わないはずです。

熱いということは、非常に明白です。

それを説明する必要なんてないわけです。

それと同じように、真理がここに在るということは、明白です。

そのことを伝えるのに、意志の強さなんて要らないわけです。

あまりにも、明白だからです。

でも、真理は、火にかけたヤカンのように、対象化することができません。

もし、真理が、手で触って確認できるようなものであるなら、真理の探求というのは、とても簡単なことでしょう。

でも、それはできません。

それが、真理の探求の難しさでもあります。

真理は、5感覚では対象化することができず、ただ在るということによってしか、認識できません。

意識としての「私」が、真理たる「私」を認識します。

ラマナ・マハルシの言う、「私-私」という状態ですね。

でも、自我たる「意志」は、意識とも一体化しようとします。

意識に方向性を持たせようとします。

意識を向ける方向を、コントロールしようとします。

世界に意味を見出し、世界に意識を向けようとします。

もちろん、それもいいのですが、世界の中に真理を見つけようとしても、見つけることはできないでしょう。

さきほど、火にかけたヤカンの話をしました。

火にかけたヤカンは、熱いのが当たり前です。

でも、もし、「火にかけたヤカンは、冷たい」と教えられて育つなら、どうなるでしょうか?

実際に、触ったことがない人は、それを信じるんじゃないでしょうか?

真理の探求では、これに似たようなことが起こる可能性があります。

というより、その可能性は高いです。

世の中には、様々な、真理についての教えがあります。

それを信じてみることも必要なことですが、本当にそうなのか、確認してみるということも、それ以上に大事なことだと思います。

そして、確認しようとしてみることには、意志の強さが求められるかもしれません。

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