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ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシの言葉【瞑想は自我を保たなければできません】

今回は、ラマナ・マハルシの言葉を、独断と偏見でピックアップしてみたいと思います。

「瞑想は自我を保たなければできません」という言葉です。

どちらかといえば地味な言葉だと思います。

ラマナ・マハルシと言えば、「私は誰か?」とか「心をハートに沈めなさい」とかいう言葉が有名です。

ただ、そういった言葉は抽象的で、さまざまな解釈ができてしまいます。

なので、「結局、どういうことなのか分からない……」ということになりがちかもしれません。

その点、「瞑想は自我を保たなければできません」という言葉はわりと具体的です。

瞑想と真我探求の違いについて、かなり具体的に指摘した言葉なんです。

瞑想と真我探求の違いとは?

ラマナ・マハルシは、瞑想よりも真我探求を推奨しています。

真我実現に至る方法は、真我探求以外には無いとも言っています。

なので、当然、探求者としては「真我探求って何なんだ? 瞑想とは違うのか?」と思うわけです。

『ラマナ・マハルシとの対話』という本から、対話174を引用してみます。

質問者:瞑想と真我探求の違いは何でしょうか?

マハルシ:瞑想は自我を保たなければできません。そこには自我と瞑想の対象があります。この方法は間接的なものです。一方、真我はただ一つです。自我を見いだすこと、すなわちその源を探求することで、自我は消え去ります。その後に残ったもの、それが真我です。この方法は直接的なものです。

質問者:では私はどうすればよいのでしょうか?

マハルシ:真我をとらえなさい。

質問者:どのようにするのですか?

マハルシ:今でさえ、あなたは真我なのです。しかしあなたはこの自我意識と絶対意識を混同しています。この偽りの自己同一化は無知によるものであり、自我が消えるとともに無知も消え去ります。それゆえ、自我を殺すことだけが唯一為すべきことです。実現はすでにそこに在ります。実現を達成しようと試みる必要はありません。なぜなら、それは外側に在るのではなく、新しい何かでもないからです。それは常にあまねく存在し、しかも今ここに在るのです。

いきなり真我探求できる人は極稀です

ラマナ・マハルシは、「真我をとらえなさい」と言うのですが、いきなり真我をとらえられる人は極稀です。

そのことはラマナ・マハルシ本人も認めています。

なので、ラマナ・マハルシは真我探求以外の方法も否定はしていません。

多くの人にとっては、まずは、瞑想やヨガなどの修行をする必要があるだろうとも言っています。

ただ、それらの道を選べば多くの疑いが起こるだろうということも言っています。

対話146から引用します。

実在とはただ自我を失うことです。自我のアイデンティティを探し出すことで、それを破壊しなさい。自我には実体がないため、それは自動的に消え去ります。そうすれば、真理はひとりでに輝き出すでしょう。これが直接的方法です。一方、他のすべての修練方法は自我を保持しなければできません。それらの道を選べば多くの疑いが起こり、究極の問いは最終的に直面されるまで残るでしょう。しかし真我探求では、最後の問いだけが唯一の問いです。そして最初からこの問いなのです。この探求にはいかなる修練も必要ありません。

僕自身、ある程度の瞑想修行をしてきました。

30分間、ほぼ思考せずにいられるぐらいの瞑想を実践してきました。

でも、「だから何なの?」と自我は思ってしまうんですね。

先にもっと何かがあると思ってしまうんです。

当然、真我探求が待っているわけなんですが、自我はともすれば真逆の方向に向かってしまいがちです。

例えば、自我は超能力に興味を持つこともあります。

コントロール欲求を強化する方向に向かってしまうこともあります。

自我には、消え去る気なんてないわけです。

自我は、コントロール欲求を保ったまま、真我実現したいと考えたりします。

矛盾しているのですが、その矛盾を肯定してくれる教えを見つけ出しては、本当の意味での真我探求を避けようとしたりします。

世の中には、この矛盾を肯定してくれる教えが結構あります。

ラマナ・マハルシが「それらの道を選べば多くの疑いが起こるだろう」と言うのもそれゆえです。

自我を保っている限り、それは真我探求にはなり得ないんです。

例え、「私は真我を対象にして瞑想することができる(それは真我探求だ)」と思ったとしても、それは〝真我らしき〟存在を対象にした瞑想でしかない可能性が高いんです。

瞑想をしようとする自我とはどんな存在か?

ラマナ・マハルシは、「あなたはこの自我意識と絶対意識を混同しています」と言います。

探求の世界では、すべてはひとつと感じることが重要視される傾向もありますが、実のところは、自我意識と絶対意識を識別(ヴィヴェーカ)できるようになることのほうが重要です。

(関連記事:識別する力(ヴィヴェーカ)の重要性【鏡の中は空間か?】

というよりも、この部分を識別できないからこそ、真我探求とは何かを理解できないとも言えるんです。

例えば、人と会話する時、手に向かってしゃべる人はいませんよね?

「お〜い! 手さ〜ん」とか言いませんよね。

手には耳も口もついていません。

耳と口がついているのは顔なので、その人の顔に向かってしゃべるのが普通なのではないかと思います。

多くの人は、そのことをキッチリと識別しているのではないかと思います。

手というのはあくまでも観察対象であり、物に触れるための手段なのであり、触覚を感じる器官です。

でも、それが自我意識と絶対意識となると、とたんに識別できなくなってしまいます。

自我意識というのは、あくまでも絶対意識によって観照される対象です。

それ以上でもそれ以下でもないんです。

自我意識というのは、あくまでも意識に方向性をもたせる機能性でしかありません。

例えば、自我意識は自分の手に意識を向けることができます。

そして、自分の手を観察して、「私はこの手に気がついている」と思ったりします。

でも、それは勘違いなんです。

あくまでも、気がついているのは絶対意識です。

絶対意識が、自我意識が「私はこの手に気がついている」と思っていることに気がつき、そしてまた、この手にも気がついているんです。

でも、自我意識はそのことを識別することができません。

手のように観照される対象であるにも関わらず、自我意識は、自身を眼(絶対意識)だと錯覚しているんです。

自我自身を調べようとすることが真我探求の入り口です

ラマナ・マハルシは、自我意識が自身を絶対意識だと錯覚することについて、対話146の中でこう言っています。

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』にはこう述べられています。「実在は私たちから隠され、偽りが真実として顕わになっているのだ」と。私たちは実際、実在のみを体験しています。それにもかかわらず、私たちはそれを知らないのです。これほどの不思議があるでしょうか?

これはまさしく、自身が手であるにも関わらず、自身を眼であるかのように錯覚していることの不思議さを語ったものです。

確かに、自身が眼であることは間違ってはいません。

それどころか、それが絶対意識であり真我です。

ただ、問題なのは、眼と手は一体のものだという錯覚がそこにあることです。

それゆえに、人は、この眼を個人的なものだと錯覚します。

そして、この眼と手を使って〝大いなる眼〟を探そうとしたりします。

〝大いなる眼〟を対象に瞑想することが真我探求なのだろうと想像したりします。

そして、「どのようにするのですか?」とラマナ・マハルシに問いかけたりするんです。

でも、〝大いなる眼〟は存在していません。

そもそもの前提がズレているんです。

求められているのは、眼と手の一体化が解けることです。

その識別ができることです。

そして、眼として在ることです。

手の正体を調べることが、眼と手の一体化を解く糸口となります。

ラマナ・マハルシは、「自我のアイデンティティを探し出すことで、それを破壊しなさい。自我には実体がないため、それは自動的に消え去ります」と言います。

実のところ、自我は、自我自身を観察対象にすることができないんです。

それは、その手が、その手を掴むことができないことと似ています。

そこには一種のジレンマがあります。

自我は、観察対象を隠れミノにすることによってのみ、自我を保つことができるんです。

瞑想には観察対象があり、自我はその対象を掴むことができます。

そして、自我を保つことができます。

自我は、ある意味ではその状態に安心します。

でも、それは真我探求にはなり得ないんです。

むしろ、眼と手の一体化をより強化していきます。

ラマナ・マハルシが提案しているのは、その手が掴もうとする対象を、その手自身にしてみてはどうかということなんです。

それは不可能です。

でも、その不可能にとどまろうとするなら、自我はそのうち消えてしまいます。

それが、真我探求への入り口です。

最後に、ラマナ・マハルシのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います(対話146より)。

実在として在りながら、私たちは実在を獲得しようと探求しています。これ以上の不思議はないでしょう。私たちは実在を隠している何かがそこに在り、実在が獲得される前にそれが破壊されなければならないと思っているのです。それはばかげています。あなた自身があなたの過去の努力を笑う日がやって来るでしょう。あなたが笑うだろうその日もまた、今、この瞬間なのです。

(関連記事:ラマナ・マハルシの名言【眠りのない眠り】

作成者: 山家直生

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