今回は、ちょっと自己紹介的な記事です。
僕には、生きた師というのはいないのですが、「師は誰か?」と言われるなら、おそらく、「ラマナ・マハルシ」と答えると思います。
僕の真理の探求は、「ラマナ・マハルシとの対話」という本に、大きな影響を受けたからです。
紙の表紙カバーとか、折り目の部分が擦り切れてちぎれてしまっています。
でも、僕がこのブログの中でお話していることは、ラマナ・マハルシの教えとは、結構違っていると思います。
どちらかというと、僕がこのブログでお話していることは、ゴータマ・ブッダの教えにとても近いのではないかと思います。
僕は、仏教徒というわけじゃありません。
スッタニパータや、ダンマパタといった、仏典を読んでみたのも、真理の探求が終わってからです。
「ちょっと、試しに読んでみよう」という感じですね。
で、読んでみると、「なんか、僕の理解というのは、ラマナ・マハルシというよりも、ブッダの理解に近くないか?」と思うようになりました。
今回は、そんなお話です。
心の師は、ラマナ・マハルシ。
僕が「ラマナ・マハルシとの対話」を購入したのは、2015年だったかと思います。
Amazonで、真理についての本を探していました。
Amazonって、色々と、興味のありそうな本を紹介してきますよね。
その中に、「ラマナ・マハルシとの対話」がありました。
沈黙の聖者というキャッチコピーに惹かれたことを覚えています。
ラマナ・マハルシとの対話は、全3巻で、結構なボリュームがあります。
そして、当然のことながら、一気に読めるような内容じゃありません。
「「私とは誰か?」ってどう問うの?」
「沈黙ってどういうことか?」
「熟睡中のことを言われても分からないよ」
「え?神々の世界って、本当にあるの?」
とか、色々と考えながら、思いながら、少しずつ読み進めていきました。
ラマナ・マハルシのすごいところは、真理を悟ったと言われている弟子や、孫弟子が、何人かいることです。
プンジャジ、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカール、ガンガジ、ムージ、などなど、本を出している覚者だけでもこれだけいます。
本を出していなくても、教えを説いていなくても、ラマナ・マハルシの元で真理を悟った人は、もっといるはずです。
世の中には、聖者、覚者と呼ばれる人は何十人、もしくは、何百人かはいるかもしれません。
でも、その人の元で、真理を悟った人がいるのかどうかは、なかなか確認できません。
例えば、クリシュナムルティの話を聞いて、真理を悟った人はいなかったようです。
クリシュナムルティ本人が、そう嘆いていたという話があるので、そうなのだと思います。
確かに、真理を悟るということは、極稀な現象なのだと思います。
でも、そう考えると、ラマナ・マハルシの、弟子、孫弟子に、覚者が現れているということは、ある意味では異常値だとも言えます。
もちろん、「本当に、その弟子、孫弟子たちは、真理を悟っているのか?」という疑問はあると思います。
真理の探求の初心者にとっては、ラマナ・マハルシだって、本当に真理を悟っているのかを、判断することはできないでしょう。
でも、そういったことを差し引いたとしても、僕は、ラマナ・マハルシに惹かれたわけです。
これだけの数の覚者が誕生しているということは、それだけ、再現性の高い教えなのだろうと判断したわけです。
僕が好きな覚者のひとりに、OSHOこと、バグワン・ラジニーシがいます。
OSHOについては、賛否両論あるかと思いますが、僕は、その語り口が、結構好きです。
OSHOは、他の覚者に対して、結構厳しいです。
そんなOSHOですが、ラマナ・マハルシのことは認めていました。
とある本に、こんなエピソードが書かれていたと思います。
ある時、色々なアシュラムを、点々とする探求者が、OSHOの元にやって来ました。
確か、オーロビンドと、グルジェフのところだったと思います。
そして、ラマナ・アシュラムを経て、OSHOのところへやって来たわけですね。
その探求者に対して、OSHOは、「もし、あなたがラマナの元を去ったというのなら、それは、あなたに問題があったのだ」と言っています。
OSHOがこんなことを言うのは珍しいです。
実際のところ、このあと、オーロビンドとグルジェフに対しては、ダメ出しをしていたと思います。
でも、至った理解はゴータマ・ブッダに近い?
ラマナ・マハルシの教えは、ハートの教えです。
ラマナ・マハルシというと、「私とは誰か?」という問いが有名ですが、僕は、「私とは誰か?」という言葉を、このブログでもあまり使わないと思います。
(関連記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】)
あまり推奨もしません。
それよりは、「心をハートに沈めなさい」という言葉の方が、シックリときます。
より、直接的な表現なんじゃないかと思います。
僕は、「ラマナ・マハルシとの対話」以外にも、何冊かの本を読んできました。
ラマナ・マハルシの弟子・孫弟子と言われている覚者の本はもちろん、いくつかのOSHOの本も読みました。
アジャシャンティ、エックハルト・トール、トニー・パーソンズ、ルパート・スパイラ、などの本も読みました。
パラマハンサ・ヨガナンダ、ラーマ・クリシュナ、サイババについての本なども読みました。
でも、読むことに意味があったかは分かりません。
読んだということは、読む必要があったのだと思いますが、知識が増えるということと、真理を悟るということは、関係がありません。
むしろ、知識に執着してしまうなら、足元をすくわれるでしょう。
探求の終わりというのは、唐突に訪れます。
段々と近づいているという感覚はありません。
例え、探求が終わる前日であっても、「いつ、真理を悟ることができるんだろうか?」って思うんじゃないかと思います。
そして、もっと言うなら、探求が終わる瞬間というのを、目撃することはできないでしょう。
この意識の中で、気づかれる現象としては、それは起こりませんでした。
この意識を超えたところで、それは勝手に起こったようです。
そして、後になって、探求がすでに終わっていたということに、ふと気がつきます。
その瞬間は、覚えています。
散歩中、上り坂を登っていて、空を見上げた時です。
そこから、このブログに書く内容が、少しずつ変化していきました。
今では、このブログは、すっかりと真理の探求のハードコア路線です。
僕は、真理を悟る前から、このブログを書いていました。
「ハート」と「私は在る」とは何かということは、理解していました。
なので、自分が知っている範囲で、書けることを書いていました。
どちらかというと、探求者向けというよりも、一般的な、心理に興味がある人向けに書いていたという感じかもしれません。
当時から、苦しみと退屈には飽きることができるということは知っていたので、そのことについても書いていました。
でも、形而上学的なことは、ほとんど分かりませんでした。
この世界が幻想だということの意味は、分かりませんでした。
私の中に世界があるだなんて、思うことはできませんでした。
悟りという現象は、この世界の実在性の崩壊です。
今では、このブログでも、形而上学的なことをいくつか記事にしています。
でも、多くの人にとっては、僕が語ることのほうが、幻想的に感じるんじゃないかと思います。
それは、仕方のないことです。
でも、なるべく、分かりやすく、理屈っぽく、体系的に書くようにしています。
「理屈としては分かるんだけどさ〜、納得はできないな〜」というところまで持っていきたいと思いながら、書いています。
そして、なんで納得できないのかということは、明白です。
言ってみれば、無知に覆われているからです。
記憶を元に作り出される認識に、リアリティを感じているからです。
それゆえに、ラマナ・マハルシは、「私とは誰か?」と問いなさいと言いますし、「心をハートに沈めなさい」とか「ただ、静かでありなさい」と言います。
僕の場合には、「苦しみと退屈を避けないこと」と言います。
極端なことを言えば、このブログで主張したいことがあるとすれば、これだけです。
他の記事、この記事だって、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの、説明のためにあります。
そして、この考え方は、ゴータマ・ブッダの、四諦(したい)と八正道の考え方に、良く似ていると思います。
四諦というのは、この世は苦しみで満ちている(一切皆苦)、でも、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、そのための方法論が八正道である、という教えです。
そして、八正道というのは、簡単に言えば、瞑想的な日常生活を送ることです。
ゴータマ・ブッダは、苦しみを滅する手段として、瞑想を推奨しています。
でも、僕は、瞑想というのは、ある意味では、自我の隠れミノになるということも、良く知っています。
もちろん、僕も瞑想することを推奨しますが、それに加えて、苦しみと退屈を避けないということを、付け加えたいなと思っています。
瞑想中でも、苦しみと退屈を避けようとすることはできるからです。
例えば、ブッダは、ヴィパッサナー瞑想で悟ったと言われることがありますが、そんなことはあり得ません。
ヴィパッサナー瞑想というのは、自我が行う行為だからです。
ある意味では、退屈を避けようとする行為でもあるんです。
本当の瞑想というのは、自我が消えている状態です。
苦しみや退屈を避けようとする限り、本当の瞑想を理解することはできないでしょう。
そして、逆説的に、本当の瞑想を理解するためには、苦しみや退屈に飽きてしまう必要があります。
苦しみと退屈に飽きてしまうなら、自然と、瞑想的な日常生活を送ることになります。
そう考えると、僕は、ブッダの八正道を推奨しているということにもなります。
実際、推奨します。
苦しみをテーマにするところとか、方法論とか、やっぱり、僕の考え方は、ゴータマ・ブッダに似ているような気がしています。
真理の探求の原動力が、同じだったというのも、影響しているかもしれません。
ブッダも、僕も、死の恐怖を克服したいというところから、真理の探求が始まっています。
性格的にも、ちょっと似ているのかもしれません。
内向的だったり、ちょっと(だいぶ?)厭世的なところだったり。
僕は、ブッダのように王子として育ったわけではなく、一般サラリーマン家庭で育ちましたが、例え、贅沢な人生を送れたとしても、本当に満たされることはないだろうなということは、分かっていました。
でも、だからといって、自分が何を求めているのかは、分かりませんでした。
とりあえず、自由が欲しいとは思っていました。
でも、自由とは何なのか、今となっては、見当違いな場所を探していたなと思います。
本当に欲しかったのは、自我にとっての自由ではなく、自我からの自由だったからです。
そして、死の恐怖というのは、自我にとってのものでした。
僕は、ラマナ・マハルシの影響を大きく受けましたが、ラマナ・マハルシの教えをそのまま伝えてはおらず、どちらかというと、ゴータマ・ブッダの教えに近いです。
そして、ブッダとも、またちょっと違うと思います。
それは、自然とそうなるものなんです。
例えば、ニサルガダッタ・マハラジは、弟子のラメッシ・バルセカールに対して、「あなたは、私とは違うように、真理を教えだすだろう」と言ったと言います。
実際、そうなりましたし、ニサルガダッタ・マハラジ自身、師とは違うように、真理を教えていたのだと思います。
真理というのは、言葉、教えとして引き継がれていくべきようなものではないんです。
真理はひとつであり、共通なのですが、真理を解釈して、言葉にするのは個人性です。
なので、覚者ごとに、言うことが違っていたり、個性があったりするのは、当然なんです。
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