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ラマナ・マハルシ 書籍の解説

ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】

ラマナ・マハルシには「私は誰か?(Who am I?)」という小冊子があります(日本では「あるがままに」の巻末に収録)。ラマナ・マハルシと、帰依者であるシヴァプラカーシャム・ピライとの間で問答された内容がまとめられたものです。

問答当時、ラマナ・マハルシは22歳。まだ他者とは話さずに沈黙を保っていた頃のようです。なので、ピライの質問に対しては、砂の上に指で書いた文字で応答されたもののようです。ラマナ・マハルシの初期の頃の教えということですね。

今回は、この小冊子の一部を引用しながら、「私は誰か?」の本質に迫ってみたいと思います。

私は身体でも心でもない

「私は誰か?」という問いには答えはないと言われることがあります。確かにそうかもしれません。「私は誰か?」と自分自身に問いかけてみても、言葉として答えが返ってくることはありませんよね。「私は誰か?」という問いかけの後に残るものは「……」という沈黙です。

でも、この小冊子の中では、ラマナ・マハルシはその問いに哲学的な答えを与えています。

問:私とは誰でしょうか?

答:七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である、音、感触、色、味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが、私はそれらではない。五つの生気、すなわちプラーナなどは、吸気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働きもない無知も、私ではない。

問:もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

答:今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒、それが私である。

問:覚醒の本性は何でしょうか?

答:覚醒の本性は、存在・意識・至福である。

まずは、多くの人が「私」だと思っている、身体と心を「これらは私ではない」と否定しています。私は身体が持つ5感覚でもないし、心でもないと。

でも、これ、納得できるでしょうか? 真理の探求に馴染みのある人であれば、私は身体でも心でもないということは、信じるべき概念として受け入れている人もいるかもしれません。でも、おそらく、多くの人は私は身体だと思っているし、私は心だとも思っているでしょう。

この問答では、それに対する解説というのはありません。いきなり答えを言っている感じですね。私は身体でも心でもなく、すべてを「これではない」と否定していって、最後まで残る覚醒、「存在・意識・至福」が私だということですね。

真我実現と世界の関係性

なので、当然のことながら問答は続きます。

問:真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

答:「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我は実現されるだろう。

問:世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるということはないのでしょうか?

答:ないだろう。

問:なぜでしょうか?

答:見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。錯覚である蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は得られない。同じように、世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、実在である真我の実在は得られないだろう。

問:対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

答:すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。

少し切り口を変えて、いつ、真我実現できるのかと問いかけています。どうすれば真我実現できるのかということでもありますね。その答えは、「「見られるもの」である世界が取り除かれたとき」です。言葉を変えるなら、「世界は実在していないということを理解したとき」とも言えると思います。

でも、世界は実在していないということを「はい、そうですね」と受け入れることができる人がどれだけいるでしょうか? ピライも、世界が実在していないとは思うことができなかったのでしょう。世界が実在していると思っている状態でも、真我実現することはあるのかと問いかけています。

その答えはノーです。その理由について、ラマナ・マハルシはロープと蛇の例え話をしています。インドには蛇が多いらしく、ヴェーダの時代から、蛇が例え話にでてくることが多いです。

この例え話を、少し現代風にしてみます。例えば、インターネット。今、この記事を読んでいるということは、あなたは、インターネットに繋がったパソコンやスマホを利用しているんじゃないかと思います。この空白JPというのはブログです。「今、空白JPというブログを見ているよ」と、あなたは思うんじゃないでしょうか?

でも、実際のところは、あなたが見ているのはパソコンやスマホのディスプレイです。ディスプレイの粒子が様々な色に光りながら移り変わっていくので、それが空白JPというブログとして存在しているように感じられているだけです。そして、その奥にインターネットの存在を感じられているだけです。

ラマナ・マハルシの例で言えば、蛇が空白JPというブログに相当し、ロープがディスプレイに相当します。薄暗がりの中、道端にロープの切れ端が落ちていると、それを蛇と勘違いして驚いてしまうというのが、蛇とロープの例えの意味です。

実のところ、この世界も同じだとラマナ・マハルシは言っているんです。世界が実在していると思っているのは勘違いだと。世界が実在していると思っているのは、薄暗がり(無知)の中にいるからだと。それゆえに、世界が実在していると思っている限り、真我実現はできないと言います。

じゃあ、どうすればその勘違いが消えるのか? ラマナ・マハルシは、「すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき」と言います。

認識作用というのは、記憶をベースにしています。例えば、そもそも、蛇という存在を知らなければ、薄暗がりの中でロープを見つけても、それを蛇だとは思わないでしょう。ブログにしてもそうで、もし、日本語という言語の記憶がなければ、この文章を意味があるものだとは認識しないでしょう。単なる絵のように感じるかもしれません。目の前の世界を、意味があるものに感じさせているのは、記憶をベースにした心なんです。

心とは何か? どうすれば心は静かになるのか?

そして、ピライは心について問い始めます。

問:心の本性とは何でしょうか?

答:「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はすべての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは存在しない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。深い眠りのなかに想念はなく、世界もない。クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れるのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなかへ還元させる。真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。人が絶え間なく心の本性を探求しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。

問:心の本性を理解する探求の道とは何でしょうか?

答:身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探求するなら、それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所である。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

問:どうすれば心は静かになるのでしょうか?

答:「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪(たきぎ)の山をかき混ぜる棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

ラマナ・マハルシは、心というのは想念が現れる源であって、それは、身体の中に「私」として立ち現れると言います。すべての想念はそこから現れてくると。そして、その「私」がどこに立ち現れるのかを調べなさいと言います。そうすれば、「私」はハートの中に立ち現れることに気がつくだろうと。

このことを試してみたことがある人はいるでしょうか? ラマナ・マハルシのこの応答は、実のところ、熟達した探求者向けです。あなたは、想念というのはどこから現れると思いますか? 「頭の周辺から現れるよ」という人は多いんじゃないでしょうか?

確かにその通りです。もし、そうであるなら、ラマナ・マハルシのこの応答はあまり参考にならないかもしれません。ラマナ・マハルシは、真我探求について語ることが多いです。真我探求というのは、十分な瞑想修行を積んできた人向けのものです。瞑想するまでもなく、頭から現れる想念がほとんどないという人向けです。

なので、想念という言葉を、そのまんま、頭から現れる思考のことだと捉えるならば、ラマナ・マハルシの真意をなかなか理解できないかもしれません。

でも、「想念」という言葉を、「意志」と置き換えるならどうでしょうか?あなたのその意志は、頭から現れているでしょうか?それとも、他の場所から現れているでしょうか?もしかして、あなたのその意志は、ハートから立ち現れてはいないでしょうか?突然、名前を呼ばれて「ドキッ」っとするのはその場所なんじゃないでしょうか?

それが、「私」という想念であって、心です。その心が、世界を対象にして、あらゆる行動と思考を引き起こします。その心を静かにするための方法が、「私は誰か?」と問うことだと、ラマナ・マハルシは言います。

「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればいいのか?

「私は誰か?」と問うことが心を静めると言われても、日常生活の中ではそのことを忘れてしまうこともあります。そこで、ピライはこう問いかけています。

問:「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

答:他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探求すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。そこで、すぐに「私は誰か?」と探求すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。心がハートの中にとどまっていれば、名前と形は消え去る。心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このように、心がハートの中にとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

ラマナ・マハルシは、どんなに想念が起ころうとも、それを追いかけることをやめて、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきだと言います。そして、心を源に引き戻すべきだと言います。瞑想のやり方については様々な方法がありますが、真我探求については、これしか方法はないでしょう。

ただ、必ずしも「この想念は誰に起こったのか?」とか「私は誰か?」と問う必要はないかもしれません。問いかけずとも、「あ、想念が起こったんだ」と気づくだけでも大丈夫です。結局のところ、「私は誰か?」と問うことの目的というのは、心をハートにとどめることだからです。「私は誰か?」と問うことにばかり意識が向いてしまい、心がハートから出ていくのであれば本末転倒です。

また、ハートという感覚が分からずとも、沈黙にとどまっているだけでもいいんです。沈黙の中で、様々な感覚が来ては去っていきます。でも、来ることもなく、去ることもない感覚が1つだけ残ります(相対的に、来たり去ったりするようにも感じられるかもしれません)。それがハートです。

そして、心をハートや沈黙にとどめておくことと、行為をすることは矛盾しません。「心をハートや沈黙にとどめるには、瞑想するみたいに座って黙っていなければいけないのでは?」と思うかもしれません。でも、行為をしながらでも、心をハートや沈黙にとどめておくことはできます。

ラマナ・マハルシ自身、「仕事をすることと、真我探求をすることは矛盾しない」と言ったりもします。この問答でも、「人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである」と言っています。

「私は誰か?」

その答えは、「私」という自我性なしに「私」自身が確認する必要があります。

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作成者: 山家直生

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