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Q&A 真我探求

日常生活の中で「瞑想的」であることを習慣化するには?【Q&A】

今回は、Aさんから頂いた質門メールを公開したいと思います。Aさん、ありがとうございます。テーマは、日常生活の中で瞑想的であることを習慣化するにはどうすればいいのかということについてです。

※今回は8500文字ほどの長文です。

Aさんからの質門

山家さん、お久しぶりです。

Aです。

今年最初の挨拶なので、あけましておめでとうございます、でしょうか。

ブログもKindle版も拝見しています。

特に進展したことはないのですが、気になることがありまして、メールいたしました。

気になることというのは、「習慣化」についてです。

真我実現ということを知り、探求している者としてのプロセスとして、瞑想の習慣化を言っていただいて、実践しているつもりですが、何をもって「習慣化」されたと言えるのか?という疑問が湧いてきました。

例えば生活する上で、歯を磨いたり、お風呂に入ったりということはほとんどの人が習慣化しています。虫歯や歯周病になる恐怖に怯えながら毎回歯を磨いている人はほぼいないでしょう。

では、瞑想が習慣化したと言える段階は何なのか?当たり前にやることを当たり前すぎて当たり前だとすら思わない段階が習慣化されたことなのか?

コロナのニュースを見ていて、マスクをつけたり、アルコール除菌をしたりを習慣化できる人もいれば、なかなかできない人、しない人もいます。会食は控えてと言われて、全くしなくなった人もいれば、ついつい行ってしまう人もいれば、そんなことお構いなしの人もいます。

全くする気のない人は別として、やろうという意志はあるけど、やるその度合いには差が出るものです。

真我探求において、山家さんのブログやメールのやりとりで、知識として理解し、後は実践するのみのはずが、真我実現が優先順位の1位であるならば、仕事、食事、トイレ、お風呂、寝ることなど、必要最低限のこと以外の全ての時間を瞑想にあてることがあたりまえになってもよさそうなのにそうならない。

例え話で言えば、先日エヴァンゲリオンの映画を見に行きました。上映時間と映画館までの往復の移動時間を合わせれば4時間ほどです。

4時間瞑想する余裕があるにもかかわらず、映画に行きました。行ったことを後悔しているわけではないのですが、冷静に考えると真我実現して、後々DVD化されてからレンタルして見ることもできたはずです。

真我実現したいというのも自我であり、映画を見たいというのも自我です。

やはり「自我」と「退屈」というものは厄介です。

山家さんは、「苦しみ」と「退屈」を避けないこととおっしゃいますが、山家さんの場合、「苦しみ」を避けないことを通して、「ハート」の理解に至ったと思うのですが、「苦しみ」の場合、向き合わざるを得ないということもありますが、「退屈」に向き合わざるを得ないということはなかなかないでしょう。

だから、意識的に瞑想を習慣化させる必要があるのでしょうが、現状このザマです。

私も山家さんの行かれた、ヴィパッサナー瞑想の合宿に行ったことがあります。5年くらい前だったと思います。まだ真我実現ということを全く知らない、スピリチュアルなことに希望を抱いていた時期です。

合宿では瞑想をやらざるを得ない環境なのでいいのですが、今の暮らしの中でなるべく瞑想する時間の割合を増やし、習慣化するためのやり方などはあるんでしょうか?

真我実現への不安や焦りという感じではなく、改良の余地がまだまだあるのではと思い、質問させていただきました。

回答

Aさん
こんにちは。

お久しぶりです。
そうですね、あけましておめでとうございます、ですね。

Kindle版も読んで頂いてるとのことありがとうございます。

> 真我実現したいというのも自我であり、映画を見たいというのも自我です。
> やはり「自我」と「退屈」というものは厄介です。

そうですね。
自我と退屈というのはなかなか厄介なものです。

ただ、真我実現したいと思うことには問題はなく、映画を見たいと思うことにも問題はないんです。
そして、「真我実現したいなら映画を見るのも我慢して瞑想しないといけないのでは?」と思うこと自体も、問題はありません。

> 合宿では瞑想をやらざるを得ない環境なのでいいのですが、今の暮らしの中でなるべく瞑想する時間の割合を増やし、習慣化するためのやり方などはあるんでしょうか?

ちなみに、Aさんは瞑想するときはどれくらいの時間でしょうか?
修行としての瞑想時間はそれほど増やさなくても大丈夫だと思います。

僕は、長くても1時間ちょっとでしたし、大体は1回あたり30分ぐらいなことが多かったです。
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想推奨の1日2時間は実践してきませんでした。

瞑想を習慣化するということは、瞑想時間を段々と増やしていくということでもないんです。
1日1分であろうが、瞑想しない日があろうが、瞑想をしない日がずっと続いているわけではないなら、それでいいのではないかと思います。

反対に、あまり瞑想時間を長くしてしまうと、瞑想をすることが「どっこいしょ」になってしまうので、瞑想することが嫌になってしまうかもしれません。
なので、瞑想時間も、自分にとって負担に感じない程度の長さに調節するというのもいいかもしれません。
物足りないぐらいの長さの方が、次の日にも瞑想しようという気になれるかもしれません。
今から4時間瞑想することは腰が重く感じるかもしれませんが、5分ぐらいなら反対に物足りなく感じるかもしれません。
毎日一定の長さじゃなくてもいいと思います。

瞑想において、本当の意味で習慣化された状態というのは、瞑想をするまでもなく、思考が収まっている状態です。
思考に振り回されることがとても少なく、意志(観察者)としての感覚が強い状態という感じでしょうか。

そうなると、映画館にエヴァを見にいくという事自体も瞑想的になります。
努力しているという感覚なく、瞑想時間は積み上がっていきます。

なので、まだ努力しているという感覚があるなら、瞑想時間は長さよりも、集中力を保てるかを重要視する方がいいかもしれません。
自我が退屈を避けたがるエネルギーというのは強力なので、きちんと食べやすいサイズの退屈に切り分けてやる感じでしょうか。

こんな感じで参考になるでしょか。
また何かあればご連絡ください。
それではまた。

ちなみに、僕もエヴァ世代で、おそらく来月あたり見に行くと思います。

Aさんからの返信

ありがとうございます。

私の言う「習慣化」という言葉が曖昧だったのかもしれませんが、瞑想的な日常生活になるのは、瞑想の「自動化」という言い方のほうがしっくりくるかもしれません。

まず、意識的に瞑想に取り組む期間があり、だんだん瞑想することが「習慣化」され、最終的に日常生活そのものも瞑想的になる「自動化」へと移行するのかなと。

なので、「自動化」の前段階の「習慣化」するためにはどうしたらいいのかということなのですが、日常生活において、気を抜くとすぐ真我探求から逸らす自我が出てきます。ある程度は仕方ない事なのですが、それがどんどん侵食されている感じがします。

瞑想しない日ももちろんあります。

瞑想のことが1ミリもよぎらない日もあります。

そして、これではダメだと気づき、また瞑想をやり出します。

瞑想時間については、1回につき1時間から長くて2時間です。

体感ですが、目を瞑って45分くらいからようやく思考がおさまっている感じで、それが15分くらい続いて、トータル1時間過ぎたくらいに途切れるかなと思います。

そこでやめるときもありますが、時間があるときはそれでも無理矢理続けようとして2時間くらいになることはありますが、1度途切れるとなかなか復活しないことが多いです。

瞑想していない時間の日常生活において何かできないか、ここ最近考えているのですが、何かを選択するときに「これは真我探求に必要か?」と常に問うことは有効なのか?とか、テレビや映画を見ているときでも、真我探求者の目線で見てみるのはどうか?とか

またエヴァの例えになりますが、映画を見に行きたいと思った時に、「これは真我探求に必要か?」と問うと、答えは「必要ない」になるはずです。おそらくほとんどのことが「必要ない」になるでしょう。だからといって、いきなり瞑想三昧の生活は厳しいので、仮に映画を見に行ったとしても、話の内容を真我探求と絡めて咀嚼すると意識づけになるかな?とか考えたりもします。

エヴァは特に真我探求と絡めやすい内容ではないかと思います。(ネタバレになるので内容は言えませんが)

他の例で言うと、最近ジャニーズの方がパニック障害でジャニーズも芸能界も辞められたというニュースがありました。

私は男なので、ジャニーズに興味はないですが、パニック障害について専門家の方が「脳の恐怖を司る部分が暴走している感じ」とおっしゃっていました。療養や薬の服用などの話もされていましたが、結局恐怖とは何かを理解しないことには解決しないよな。結局真我探求するしかないよな。とか自分自身の言い聞かせながら意識づけに利用できるんじゃないかと、真我探求のことを方時も忘れないためにそういうスタンスでいるように心がけています。

山家さんから見て、こういうことはたいして効果はなかったり、逆に真我探求の邪魔になっているように思えますか?

回答

Aさん
こんにちは。

なるほど、そういうことですね。

> 山家さんから見て、こういうことはたいして効果はなかったり、逆に真我探求の邪魔になっているように思えますか?

これは、あまりやらないほうがいいかもしれません。
というのも、まさしく「これは真我探求に必要か?」と問う人が、ハートからさまよい出てる人だからです。

ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問いなさいと言うのですが、その真意を理解するのは結構難しいかもしれません。
小冊子「私は誰か?」(「あるがままに」の巻末に収録)に書かれている1問答を引用してみますね。

問:「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

答:他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探求すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。そこで、すぐに「私は誰か?」と探求すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。心がハートの中にとどまっていれば、名前と形は消え去る。心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このように、心がハートの中にとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

「これは真我探求に必要か?」と問うことは、外へ向かうことになってしまうんです。
名前や形に向かってしまうということですね。

なので、もし、日常生活でも真我探求のことを忘れないようにしたいと思うのであれば、「この想念は誰に起こったのか?」とか、「ハートからさまよい出たのは誰か?」とか問うのがいいかもしれません。

問わずとも、気づくだけでもいいと思います。

僕は、「私は誰か?」と問いかけてみたことは1回しかありません。
「これで答えがでてくるわけがないよな〜」で終わってしまいました。

「私は誰か?」の真意は、心を外に出さずにハートの中にとどめておくことです。
ハートを認識できずとも、沈黙の中にとどまっていればいいんです。

こういったことは、日常生活を送ることと矛盾しません。
世界に気づきながらも、心をハートの中にとどめておくということはできます。
映画を観ながらも、沈黙の中にとどまるということもできます。

思考が起ころうが、意志としてハートの中に、沈黙の中にとどまること、それが真我探求です。
もちろん、意志として思考することが必要なのであれば、それをすればいいんです。
でも、そのことに継続性を持たせないことが重要なんじゃないかと思います。

> 体感ですが、目を瞑って45分くらいからようやく思考がおさまっている感じで、それが15分くらい続いて、トータル1時間過ぎたくらいに途切れるかなと思います。

思考が収まるまでの時間というのは、思考の流れの継続性と関わっていると思います。
様々なものを対象に、思考する癖がついてしまうと、思考の流れは強くなってしまいます。

日常生活の中では、それは、侵食されているという感覚として現れるかもしれません。

意志として思考することで答えを知ろうとする必要はないんです。
僕も、空白JPや、こうやって返事を書いているということは、思考しているということでもあるかもしれません。
でも、実際のところは思考しているというよりも、待っているという感覚の方が強いです。
書く内容が頭に現れるまで待つという感じですね。

思考に継続性は持たせません。
なので、日常生活の中でも、思考が収まっている瞑想中の状態が持続しています。
もちろん、思考が現れないということでもないんですが、静かな状態が続きます。

思考が収まっている状態を経験しているなら分かると思いますが、その状態の時って、意志として思考することはとても目立ちますよね。
シーンとした静寂の中、突如として思考が現れるからです。
あまり、思考したいとも思わないんじゃないかと思います。

でも、そこに思考の流れがあるのなら、意志として思考することは、思考の流れに紛れて目立たなくなってしまいます。
そうなると、余計に意志として思考することが加速したりもします。

ものひとつ無いキレイな部屋に何かを置くと目立ちますが、散らかった部屋に何かを置いても目立たないことと似ていますね。

ラマナ・マハルシの言うように、いきなり真我探求(ハート・沈黙の中にとどまること)ができるのならそれがベストだと思います。
でも、多くの人には思考の流れがあり、沈黙にとどまるということがかなり難しいです。

なので、僕はまずは修行としての瞑想を勧めています。
瞑想するまでもなく、思考の流れが途切れるならば、真我探求は簡単になります。

こうやってAさんから質問頂いて、日常生活の中で、思考の流れを途切れさせるように意識することは、瞑想の上達を手助けするのかもしれないなとも思いました。
まあ、日常生活の中で、思考の流れを途切れさせるように意識すること自体が瞑想とも言えますが。

なので、もし、日常生活の中でも真我探求を意識してみたいのであれば、ぜひ、試してみてください。

> またエヴァの例えになりますが、映画を見に行きたいと思った時に、「これは真我探求に必要か?」と問うと、答えは「必要ない」になるはずです。おそらくほとんどのことが「必要ない」になるでしょう。

こういう風に思う必要はないと思います。
意志の力と、束縛というのは紙一重だったりします。
意志の力が束縛へ向かってしまうと、ハートを覆い隠してしまったりします。

もし、なにかやりたいと思ったなら、我慢する必要はないんです。
意志として、ハート、沈黙にとどまりながら、行為すればいいんです。

結局のところ、実在性を失うのはその意志です。

Aさんからの返信

「ハート」と「心」、「想念」と「思考」、「私」と「私」

これら似た単語や字面では同じ単語の解釈がわからず、考えれば考えるほど混乱してしまいお手上げ状態です。

(メールのやりとりの間に投稿した記事「ラマナ・マハルシの「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】」の内容についてです)

ムージも普段できるエクササイズのようなものを教えていますが、

「私はイライラしている」から「私にイライラが湧き上がってきている」というように変えてみる

この時の「私は」と「私に」の「私」は同じ「私」なのか別なのか

マハルシの「私は誰か?」や「この想念は誰に起こったのか?」もムージのエクササイズも単語の解釈ができないため迷路にはまっています。

1番しっくりくるのは、山家さんのブログに書かれていた「ネイティ、ネイティ」と真我以外のものを否定する

これがシンプルでわかりやすいかなと思っているのですが。

『七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である、音、感触、色、味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが、私はそれらではない。五つの生気、すなわちプラーナなどは、吸気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働きもない無知も、私ではない。』

「私はイライラしている」→「これは私ではない」

「私は今美味しいものを食べたい」→「これは私ではない」

「私はエヴァの映画を観に行きたい」→「これは私ではない」

こんな感じで切り捨てていく方がシンプルでやりやすそうですが、このやり方だと

「瞑想をしたい」→「これは私ではない」

にもなりますし、これだけ除外するというのも「?」になるんですが、「この想念は誰に起こったのか?」とかムージの動画よりもしっくりくるような気がしていて

とりあえず瞑想以外をネイティ、ネイティとやっていくやり方はどうでしょうか?

回答

Aさん
こんにちは。

> 「ハート」と「心」、「想念」と「思考」、「私」と「私」
> これら似た単語や字面では同じ単語の解釈がわからず、考えれば考えるほど混乱してしまいお手上げ状態です。

さすが、するどいですね。
僕自身もどう表現しようか迷ったりする部分です。
人の言葉を引用するときには結構こうなりがちですね。

ムージの動画も見てみましたが、このエクササイズは反対に思考が活性化してしまうリスクもあるなと思いました。
言葉を使う限り、それは意識そのものではありえず、意志が意識のフリをして自分を観察しているということになりますから。

なので、「ネイティ、ネイティ」がしっくり来るのであればそれが1番いいと思います。
「ネイティ、ネイティ」と言うのも意志ですが、内容を深堀りするのではなく、切り捨てていくので思考も活性化しにくいかと思います。

ちなみに、最終的には「瞑想をしたい」→「これは私ではない」という風にもなると思います。
瞑想するまでもなく、思考が収まっている状態であれば、意図的に瞑想する必要もなくなってきますから。

そして、「ネイティ、ネイティ」と言う必要も最終的にはなくなってしまいます。

マハルシの言葉を借りるなら、まさしく、こんな感じですね。

「ネイティ、ネイティ」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
そして燃えている薪(たきぎ)の山をかき混ぜる棒のように、ついには「ネイティ、ネイティ」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。

「私は誰か?」を「ネイティ、ネイティ」に置き換えているんですが、問題なく機能すると思います。

Aさんからの返信

ありがとうございます。

ネイティ、ネイティは実際やってみても思考の流れ、継続を断てるのに良さそうなので続けてみようと思います。

瞑想直後はある程度思考は収まっているので、この感覚をテレビを見ながらとかでも維持できるのか

ニュースをただ見てるだけでそこに自分の思考や感情を乗せずにただ情報を静かに眺めるだけの瞑想もどきみたいなこともやっています。

真我実現したら思考しなくなるというわけではないので、思考、想念=悪とは思わずに、気楽にやっていこうと思います。

思考することそのものというより、思考にのまれてしまっているかどうかが大事なような気がして

エヴァの映画を観終えて、あのシーンはこういう意味かなとか、ネットの考察ブログを見て、やっぱりそういうことか、考えれば考えるほど楽しいものですが、1つの題材に対しての思考の流れがあったとしても5分なり10分なり予め許容してしまえば、そのあとは切り替えてまた瞑想したり、ネイティネイティの生活を送ればいいのかなと思っています。

また何かありましたら、よろしくお願いします。

回答

Aさん
こんにちは。

そうです、そうです。
思考、想念=悪ではないんです。

自分への束縛にならない程度に、瞑想、「ネイティ、ネイティ」としていくのがいいのではないかと思います。

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作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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