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悟りと真理について

現実から逃げるってどういうことか?

「現実から逃げるな!」って言われたこと、あなたは、あるでしょうか?

僕は、面と向かって言われたことはないと思いますが、まあ、そう思われているんだろうなと感じることはあります。

どう思うのかは、人の勝手ですし、そう思われる事に対して、僕は、「誤解を解こう」とかいう努力をしません。

あんまり気にならないんです。

でも、人によっては、気にする人もいると思います。

特に、真理の探求をしていると、「現実から逃げるな!」と言われたり、そう思われることは多いと思います。

今回は、そんな人に向けて、援護射撃となるようなことをお話しようと思います。

探求者にとっての、ひとつの試練。

現実から逃げているように思われることは、探求者にとっては、ひとつの試練だと思います。

そして、自分自身、「確かに、現実から逃げているのかも?」という疑問がぬぐえないんじゃないでしょうか。

「別に、現実から逃げているわけじゃないんだよ」ということを、明確に、反論することができないんです。

「現実から逃げている!」と言われるなら、「まあ、確かにその通りかもね」となってしまうんじゃないかと思います。

現実から逃げようとする人と、それを揶揄する人の構図は、別に、今に始まったことじゃありません。

実は、その歴史は古いです。

少なくとも、2000年前まで遡ることができます。

大乗仏教を起こしたのは、現実から逃げようとする人を、揶揄した人たちです。

真理を悟るために、瞑想修行と、ブッダの言葉の研究に明け暮れる、部派仏教(小乗仏教)の人たちを、彼らは「現実から逃げている」と批判しました。

そして、「ブッダだって、前世では、人類を救済するための活動をしていた、だから、我々も、まずは人類を救済しなければならない」と主張しました。

そうやって起こったのが、大乗仏教です。

さらに、こういった構図は、覚者と、探求者の間でも、起こったりします。

「世界では戦争が起こっているのに、苦しみに満ちているのに、なぜ、あなたは何もしようとはしないのですか?」と、探求者が、覚者に問いかけることも、少なくありません。

すべての人が、死によって、現実から逃げることになる。

ある意味では、現実から逃げようとする人を、揶揄する人たちの主張には、ごもっともなところがあります。

確かに、目の前に困っている人がいれば、助けてあげたほうがいいですよね。

目の前に、餓死しそうな人がいれば、僕だって、お粥を差し上げる可能性は高いと言えます。

ただ、問題なのは、目の前に居ない人のことまで、想像しようとしてしまうことです。

そして、それを現実だと思い込もうとしてしまうことです。

例えば、被災地で水が足りないというニュースが流れたとき、多くの人は、水のペットボトルを被災地に送ろうとします。

良かれと思って、それをします。

でも、実際のところはどうでしょうか?

水が過剰になって、本当に必要な物資は不足しているというニュースも流れたりしています。

自分が現実だと思っていることは、実は、現実じゃなかったりもします。

僕は、記憶の中のニュースを元に、こうやって、とある状況を描写をしますが、そもそも、この描写は現実でしょうか?

これは、僕が、頭の中で、でっち上げた、単なる想像なんじゃないでしょうか。

現実って、一体なんなんでしょうか?

現実から逃げようとする人を、揶揄する人は、実は、自分自身も、真理の探求者であることが多いと思います。

そして、「人類を救済しなければならない」「世界を救わなければならない」と思っている人が多いように感じられます。

でも、そう思うことと、真理の探求というのは、何か関係があるんでしょうか?

もちろん、人類を救済しようとすること、世界を救おうとすることは、とても素晴らしいことです。

でも、そのことと、真理の探求には、なんの関係もありません。

そこに、関連性を持たせようとすることが、何かの勘違いなんです。

僕は、そのことについて、説得力のある話を聞いたことがありません。

そして、皮肉なことに、「現実から逃げるな!」と言う人自身が、現実から逃げずにはいられません。

体の死を迎えることにより、その人は、現実から逃げだすことになります。

もし、この世界が現実なのであれば、この現実から逃げずにいられる人はいないでしょう。

反対に、現実から逃げずにいるには、どうすればいいんでしょうか?

本当の現実とは何か?

本当の意味での、真理の探求というのは、どうすれば、現実から逃げずにいられるのかということの探求です。

言ってみれば、「現実とは何か?」ということの探求です。

この世界を、現実だと決めつけていたり、現実だと信じ込もうとする限り、本当の意味での、真理の探求はおこなうことができません。

なので、覚者というのは、探求者の意識を、世界ではなく、自分自身に向けさせようとします。

もちろん、覚者は、探求者の資質に合わせて、世界に意識を向けさせようとすることもあるかもしれません。

でも、それは、「世界の中に真理があるよ」ということを言っているのではなく、むしろ、その逆で、「真理の探求をするのには、まだ早いみたいだから、もうちょっと世界の中で遊んでみたほうがいいかもしれない」ということなんです。

別にそれは、良い悪いという問題ではなく、むしろ、まだまだ世界の中で遊べるということは、それはそれで幸運なことでもあります。

世界の中で遊ぶことに興味を持つことができない探求者は、八方塞がりです。

でも、それぐらいでないと、本気で真理の探求はできないでしょう。

そして、そういった本気の探求者は、はたから見ると、まるで現実から逃げているように見えるかもしれません。

それを、揶揄する人もいるかもしれません。

でも、もし、揶揄されるようなことがあるなら、そして、それが気になるなら、半沢直樹風にこう言ってあげればいいんです。

「じゃあ、おまえは絶対に現実から逃げるなよ!例え、死んだとしてもな!1000万回でも輪廻転生を繰り返すがいい。」

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