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悟りと真理について

真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になるのか?

よく、「真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になる」と言われたりします。

探求の世界では、この言葉は、大きな市民権を得ているように思えます。

でも、一方で、「顔を水の中に沈められたときに、空気を求めるがごとく、激しく真理を求めなければならない」と言われることもあります。

確か、パパジことプンジャジがこんな表現をしていたような気がします。

この2つの言葉は、矛盾しているように感じられますよね。

一体、どっちが正解なんでしょうか?

むしろ、必須です。

結論から言えば、「真理を悟りたい」という欲求は必須です。

それも、ものすごく激しいやつが必須だと思います。

プンジャジの言う、「顔を水の中に沈められたときに、空気を求めるがごとく、激しく真理を求めなければならない」という言葉に、僕は賛成です。

自分が抱えている、他のすべての欲求を、焼き払うぐらいの激しさが必要かもしれません。

例えば、ラマナ・マハルシは、こんなことを言っています。

「人々は、「私は神に自分を明け渡した」と言いながら、世俗の中で、自分の欲が満たされることを期待します。それは、明け渡しではなく、神と取り引きしようとするようなものです。神が、それを見抜けないとでも思っているんでしょうか?」

言ってみれば、「悟りたい」という欲求が、自分の中の、その他の欲を満たすための手段として使われていることが多いということですね。

こういった言葉は、ラマナ・マハルシだけに限らず、他の覚者や聖者からも聞かれます。

例えば、こう言う聖者もいます。

「帰依者は私を欲するが、帰依者の願望はどれも世俗のことに関するものだ。そのような心構えで、どうして私に到達できるか? もし、行先が別の間違った列車に乗ったなら、どうやって目的地にたどり着くことができるか? 帰依者は私を欲するが、私を悟る努力はしない。私のところにやって来る多くの者の中で、私を悟ろうと真に努力する者は、千人に一人しかいない。」

つまりは、多くの場合、「悟りたい」という欲求が問題になるんじゃなくて、むしろ、「悟りたい」という欲求が弱いことが問題になることが多いということです。

だからこそ、プンジャジはこう言います。

「顔を水の中に沈められたときに、空気を求めるがごとく、激しく真理を求めなければならない」

なぜ、悟りたいという欲求は障害になると言われるのか?

じゃあ、なぜ、「真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になる」だなんて言われるんでしょうか?

それは、視点の違いにあります。

探求の世界では、矛盾するような言葉がたくさん出てきますよね。

例えば、「私は在る」と「私は存在しない」。

この2つの言葉は、矛盾するようで、矛盾しません。

世界の中で、個人として存在するような「私は存在しない」けれども、そのことに気がついている、意識としての「私は在る」ということです。

(関連記事:「私は存在しない」という言葉によくある勘違い

この理解は、真理への入り口です。

そして、多くの覚者は、個人としての「私」と、意識やハート、もしくは、それを超えた神としての「私」を、ごっちゃにして使ったりします。

同じ文章の中に、複数の「私」という言葉が使われているとして、それぞれ、「私」の意味が違っていたりするんです。

例えば、先ほどの、「私のところにやって来る多くの者の中で、私を悟ろうと真に努力する者は、千人に一人しかいない。」という、聖者の言葉。

最初の「私」は、体としての私を意味していて、次の「私」は、神としての私を意味しています。

まぎらわしいと言えば、まぎらわしいですよね。

こんな感じのノリで、覚者はこう言ったりするんです。

「真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になる」

その言葉は、一体、誰に対して語られるのか?

この時の論点は、この言葉は、「一体、誰に対して語られている言葉なのか?」ということなんです。

覚者は、自分自身を、個人として扱うこともあれば、神として扱うこともあります。

そして、それは、自分に対してだけではなく、他者に対しても当てはまるんです。

目の前の探求者を、個人として扱ったり、神として扱ったりします。

もし、目の前の探求者を、神として扱うのだとすればどうなるでしょうか?

その神が、「私は悟りたいのですが、どうすればいいんでしょうか?」とか言うことになるんです。

それは、とてもおかしなことでしょう。

「いやいや、あなたは神なのに、「私は悟りたい」とか言うわけ?それって、なにかおかしくない?なにか勘違いしてるはずだよ。たぶん、その、「私は悟りたい」って思い込んでることが問題なんだと思うよ。」

ということになるんじゃないでしょうか。

そうなると、「真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になる」ということになったりするわけです。

探求者からの視点では、悟りたいという欲求は必須です。

とはいえ、それを聞いて、「そうか!なるほど!」とか思える探求者はどれほどいるでしょうか?

ほとんどの場合は、「う〜ん、わかったような、わからないような。。」ということになるんじゃないでしょうか?

なので、自分を探求者だと思っているのであれば、そういった言葉を真に受けることはありません。

むしろ、激しい探究心を燃え上がらせるべきです。

探究心こそ、真理の探求における推進力です。

まあ、その探究心を自分ではコントロールできないというのが、真理の探求におけるパラドックスなのですが、もし、探究心が燃え上がるのなら、それは神の恩寵です。

もし、あなたが、なにか特定のコミュニティに属しているのであれば、身の周りに「真理を悟りたいという欲求は、探求の障害になる」と言う人がいるかもしれません。

あなたが、もし、そう言われたのであれば、「それは何で?」って聞き返してみると良いと思います。