最古の仏典は「スッタニパータ」だと言われています。
岩波文庫からは「ブッダのことば」というタイトルで出版されています。
ブッダは、自身の生存中には、経典といったものを、作らなかったし、作らせなかったそうです。
なので、スッタニパータも、ブッダの死後に、作られたものです。
ブッダ自身は、その制作に関わっていないし、ましてや、2300年以上前に作られたものです。
それが、本当に、ブッダの言葉なのかは、疑わしいかもしれません。
とはいえ、その他の仏典に比べれば、それでも、生のブッダの言葉に、もっとも近いと言われているのが、スッタニパータです。
そこで、今回は、スッタニパータの中から、「これは、生のブッダの言葉かも?」といったものを独断と偏見で、いくつか引用していきたいと思います。
第一「蛇の章」
スッタニパータは、5つの章に分かれています。
「蛇の章」「小なる章」「大いなる章」「八つの詩句の章」「彼岸に至る道の章」の5つです。
まずは「蛇の章」からです。
蛇の章には、あの、有名な言葉がでてきます。
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
見たこと、聞いたこと、あるんじゃないでしょうか?
まあ、これは、単独で使う言葉じゃなくて、韻を踏むように、文章の最後に使われる言葉ですけどね。
例えば、こうです。
「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。」(35項)
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「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」(36項)
これらが、本当に、ブッダの言葉なのかは分かりません。
でも、僕は、蛇の章には、もっと、ブッダらしい言葉があると思っています。
これです。
「身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、」(195項)
「鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏(あぶら)がある。」(196項)
「またその九つの孔(あな)からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、」(197項)
「鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。」(198項)
「またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。」(199項)
結構、強烈じゃないでしょうか?
ここまで詳細には語られませんが、これに似たテイストの言葉が、スッタニパータには、ちらほらとでてきます。
例えば、こうです。
「われは昔さとりを開こうとした時に、愛執と嫌悪と貪欲という三人の魔女を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」(835項)
これまた強烈ですね。
ブッダは、医学的な知識を持ち合わせていたと言われています。
死体を、じっくりと観察することもあったのだと思います。
ブッダは、死の恐怖を克服するために、王子の地位を捨てて、出家しました。
なので、死という現象の結果である、死体に対しても、その本質がどんなものなのか、興味があったのかもしれません。
であるからの、こういった描写なのだと思います。
他の書物では、なかなか、こういった表現には出会えません。
ブッダらしいなと、僕は思います。
第二「小なる章」
次に、「小なる章」なのですが、小なる章には、あまり、ピンとくるものがありませんでした。
第三「大いなる章」
次に、「大いなる章」です。
次の言葉は、生のブッダの言葉なのではないかと思います。
「苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、」(724項)
「かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは輪廻を終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。」(725項)
「しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、」(726項)
「かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは輪廻を終滅させることができる。かれらは生と老いを受けることがない。」(727項)
これは、まさしく、「四諦(したい)」です。
四諦というのは、八正道と並んで、仏教の教えの根底をなすものですね。
大乗仏教では、ブッダの教えというのは、とても難解なもののように語られることが多いと思います。
空の思想だとか、唯識論だとか。
でも、実際のところは、ブッダの教えというのは、とてもシンプルなんです。
「苦しみ」にフォーカスするだけなんですから。
この言葉は、大いなる章の中の「二種の観察」という節の中のものです。
この節の中では、さらに、こう語られています。
「有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意(こころ)に適うもの、」(759項)
「それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。」(760項)
「自己の身体(個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。正しく見る人々のこの考えは、一切の世間の人々と正反対である。」(761項)
「他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。」(762項)
第四「八つの詩句の章」
次に、「八つの詩句の章」です。
この章の中には、多くの、生のブッダの言葉が含まれていると思います。
スッタニパータの中でも、ちょっと、特別な章なのではないかと思います。
実際のところ、スッタニパータというのは、5つの経の寄せ集めにすぎません。
それらの経の中でも、特に、初期に制作されたのが、この「八つの詩句の章」と、第五章「彼岸に至る道の章」のようです。
この章は、単独では「義足経」と呼ばれています。
この章で、特に印象的なのは、「論争」についてです。
例えば、ブッダと論争することを求めてやってきた、パスーラという人物に対して、ブッダは、こんなことを言っています。
「特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、「論争が起こっても、汝と対論する者はここにいない」と。」(832項)
「またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を他の諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。」(833項)
「さてあなたは「自分こそ勝利を得るであろう」と思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。」(834項)
これ、理解できるでしょうか?
人が、論争する目的は何でしょうか?
人は、自分の考えの正当性を認めさせるために、論争します。
でも、それだけでしょうか?
人は、論争に勝利することによって、称賛されることも、望むんじゃないでしょうか?
感情的に、満たされることを、望むんじゃないでしょうか?
ブッダは、パスーラに対して、「君はどうなのか?」ということを問うているんですね。
もし、パスーラが称賛を求めて、論争を求めているのであれば、まさしく、「あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。」ということになります。
真理を知っている人は、そんなことは求めないからです。
もうひとつ、引用します。
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の「道の人」は同一のことを語らないのである。」(884項)
「みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を他人から聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?」(885項)
「世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永遠のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。」(886項)
さらに、もうひとつ、引用してみましょう。
「真のバラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定して固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も優れたものだと見なすこともないからである。」(907項)
「「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄になると説く。」(908項)
「見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを見ることによって清浄になるとは説かないからである。」(909項)
「「われは知る」「われは見る」ということに執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。」(910項)
「バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。他の人々はそれに執著しているのだが。」(911項)
ブッダの時代から、ひんぱんに、真理についての論争が行われていたということですね。
これは、いつの時代にも変わらないと思います。
現代だって、様々な論争が行われていると思います。
皮肉なことですが、「仏教こそ、論争を好む宗教なのではないか?」と思う人もいるかもしれません。
でも、当のブッダは、論争することの無意味さを説きました。
もちろん、ブッダだって、論争のようなことを、してきたはずです。
ブッダは、四諦と八正道を説きましたが、それは、ある意味では、仏教以前からあった、ヴェーダの教えに対する、対立概念みたいなものです。
ブッダは、論争してはいけないと言いながら、こんなことも言っています。
「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行なってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。」(927項)
これが、本当にブッダの言葉なのかと言われるなら、おそらく、似たようなことを言ったのではないかと思います。
でも、ブッダは、必ずしもヴェーダを否定していたわけじゃありません。
むしろ、ヴェーダのウパニシャッド(哲学的な部分)は、認めていたはずです。
というのも、こう言っているからです。
「ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。」(846項)
仏教では、仏教以外の教えのことを「外道」と呼んで、真理ではないとみなしたりすることがあります。
この外道という言葉が、いつできたのかは、詳しくは分かりませんが、それが、ブッダの言葉ではないことは確かだと思います。
ブッダは、自分の教え以外の教えを、必ずしも否定しなかったからです。
第五「彼岸に至る道の章」
次に、「彼岸に至る道の章」です。
この章は、ブッダと16人の弟子との問答集みたいな形式になっています。
こちらの章も、第四章「八つの詩句の章」と同じぐらい古いものだそうです。
でも、僕としては、「八つの詩句の章」の方が、より、生のブッダの言葉に近いのではないかと感じています。
最後に、この章の中から、皮肉に満ちた、ブッダの言葉を引用して、終わりにしたいと思います。
「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝も信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」(1146項)
仏教という宗教の、開祖と呼ばれる人が、このようなことを言っているというのは、皮肉じゃないでしょうか?
「この言葉は、何かの間違いなのでは?」と思う人もいるかもしれません。
でも、僕は、生のブッダの言葉に、とても近いのではないかと思います。
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