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Q&A 哲学・形而上学

反出生主義について【Q&A】

今回は、ハルトさんから頂いた質問メールを公開しようと思います。

ハルトさん、ありがとうございます。

テーマは、僕も、ハルトさんからご質問受けるまで、知らなかったのですが、「反出生主義」というものについてです。

ハルトさんからの質問

こんにちは。以前哲学についての質問をさせて頂いたハルトです。

今回は、最近個人的に気になっている反出生主義という思想について、山家さんのご意見を聞かせて頂きたいと思います。

反出生主義とは、その名の通り人間の出生を否定する(子を持たない)思想で、前回名前を挙げたショーペンハウアーも反出生主義者として有名です。
ゴータマ・ブッダの教えの中にもそのように受け取れる部分があります。

その思想を支える考えは環境保護や人工過多対策など色々あるのですが、真理に関連して重要なのは、生が苦痛の原因であるという考えでしょう。
特に人間は苦痛を感じる能力がとても強力だというのもあると思います。
その観点からの反出生主義の目標は人類の絶滅という事になります。

確かに産まれるから死ぬのであるし、倫理的にも誰かに危害を加えてはならないのなら、その危害を受ける原因である出生は一番やってはいけないというのは一理あると思いました。

しかし、それは人間の個人的な主観レベルの話で、例えば反出生主義が広がって人類が絶滅できたとしても、何処かで苦痛を鋭敏に感じる者が存在してしまう可能性は避けられず、その場しのぎ的なのではないかという違和感も感じました。

それに、苦痛の本当の原因が出生と言い切るのも早計です。
山家さんは「退屈(死)に恐れて生まれてくる。」と仰っていましたが、そのような出生の原因のさらに前段階の可能性も考える必要があると思います。

それなら、退屈を意識できるし、真理の探究ができるのだからどんどん人間を出生させた方が良いのか?と考えると、これも違和感があります。
単に私が極端に陥っているだけなのかもしれないですが、この辺りに最近悩んでいます。

是非山家さんの考えを教えてください。

回答

ハルトさん
こんにちは。

お久しぶりです。

反出生主義なんていう思想があるんですね。
確かに、スッタニパータの中にも「子を欲するなかれ」って書かれていたりしますね。

でも、ブッダにはラーフラという子どもがいて、確か、ブッダの弟子になっていたと思います。
ラーフラは、ブッダの「子を欲するなかれ」という言葉を、どんな気持ちで聞いていたのかということを考えると、ちょっと興味深いですね。

僕自身、子どもが欲しいとはあまり思わない方です。
でも、それを他の人にも主義として主張しようとはあまり思わないですかね。

確かに、生が苦痛の原因であるというのは、一理あると思います。
でも、苦痛の原因を、もっと詳細に見ていくと、必ずしも、生そのものが苦痛の原因というわけでもないんです。

少なくとも、3歳児とか4歳児って、精神的な苦痛は感じないと思います。
まあ、おやつが貰えなくて泣くとかはあるかもしれませんが。

僕が記憶しているなかで、1番最初の精神的な苦痛は、小学1年生のときに感じた、死への恐怖です。
たぶん、それ以前は、人生というのは苦しいものだとは思っていませんでした。

もっと言えば、それ以降だって、苦しいとは思いませんでした。
死の恐怖を感じるということは、裏を返せば、生に執着しているということでもありますし。
人生は苦しいと感じだしたのは、おそらく20歳ぐらいになってからなんじゃないかと思います。

なので、ハルトさんが言うように、苦痛の原因が出生だと言い切るのは早計だと思います。

精神的な苦痛を感じるのは、体じゃなくて、自我ですよね。
自我っていうのは、言ってみれば、意志でもあります。

意志には、「世界はこうであって欲しい」とか「私はこういう人間であるべき」とかいう理想があって、その理想と現実にギャップが起こると、苦しみを感じます。
生きていたとしても、意志がなければ精神的な苦痛は感じません。

なので、まさしく「生きんとする意志」が問題になったりします。
でも、それは、体を無くすべきということとは違うんじゃないかと思います。
むしろ、生きているときにしか、「生きんとする意志」を認識できないですしね。

そう考えると、本当に苦しみを滅したいのなら、体の出生というよりも、意志の出生を止めるべきということになると思います。
でも、それって不可能ですよね?

なので、「それだったら、やっぱり体の出生を止めるべきなんじゃないか?」という発想にもなると思います。
でも、そういった発想をするのも、実は意志というのが問題になるんです。

言ってみれば、反出生主義というのも、意志にとっての理想となり、その理想と現実にギャップがあると、苦しむことになります。
ここらへんが、自我たる意志の巧妙なところでもあります。

意志は、「世界から苦しみを無くすためにはどうすればいいのか?」と考えたりしますが、実際には、世界は苦しんでいないんです。
あくまでも、意志が、そう想像しているだけです。
「自分がこうやって苦しんでいるんだから、世界にも、同じように苦しんでいる人がいるはずだ!」って。

実際のところは、世界の中で、人間が体を持って生まれてくるから、苦しみが発生するわけではなく、意志が、理想を持つから、苦しみが発生するんです。
意志からすれば、それはなかなか認めたくないことです。

でも、意志が、それを認めるなら、沈黙するしかなくなります。
それは、人生に対してのコントロール権を手放すことであり、意志にとっては死のうとすることのようなものです。
まさしく、そのことには、退屈ということも関わってきます。
(「退屈(死)に恐れて生まれてくる。」って結構前の記事も読んでいただいたんですね)

意志が、本当に沈黙するのであれば、意志は、実は自分には実体というものがないということに気がつくことになります。
意志には実体がないんです。
有るとも言えるし、無いとも言えるものです。

それは、この世界に、意志という実体を持っている人はいないということであり、それは、苦しみには実体がないということでもあります。

ここらへんはなかなか言葉では理解することが難しいですが。

なので、反出生主義にしても、意志が沈黙するのであれば、自分が、反出生主義に対して、どう思うのかは分からなくなるんです。
もしかしたら、肯定するかもしれませんし、もしかしたら、否定するかもしれません。

自分が、どう思って、どう行動するのか、分からなくなります。
でも、そこには苦しみは無くなります。

こんな感じでいかがでしょうか?
また、なにかあればご連絡ください。

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