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哲学と真理の探究について【Q&A】

今回は、ハルトさんから頂いた質問メールのやりとりを公開したいと思います。

ハルトさん、ありがとうございます。

テーマは、西洋哲学と真理についてです。

ハルトさんからの質問

はじめまして。
いつも山家さんの記事を参考にさせて頂いておりますハルトです。(ハンドルネームですがよろしかったでしょうか?)

私は哲学的な探究が好きで、ある時山家さんのブログにたどり着いたのですが、日本にここまでわかりやすく、丁寧に真理について語って下さる方がいる事に驚きました。
そのような話題は世間ではタブーのような扱いがされており、なかなか聞いたり話したりできる環境ではありませんから、本当に有難い事です。

そんな状況に我慢ならなくなりついには連絡させて頂いた次第ですが、本題としては、真理へのアプローチとしての哲学的探求の可否についてです。

例えば西洋哲学の中でも、アルトゥール・ショーペンハウアーは仏教の影響を受けており、彼の思想の所々にゴータマ・ブッダの教えの脚注とも言える箇所があり、自分の中では本来の仏教と彼の哲学との連携である程度真理の片鱗?は腑に落ちてはいるのですが、そもそも哲学的な態度(特に西洋哲学)というのは真理へのアプローチとして正しいのか?と思えてきました。

何にしても手段と目的が入れ替わるというのはありがちですが、それ以前の問題として哲学的態度は真理に向かうに適した方法なのか?(あるいは瞑想など他の手法との良い組み合わせ方は?)という疑問が、質問させて頂きたいポイントになります。

極めて初歩的な質問になってしまいましたが、是非山家さんの考えを聞かせて頂きたく思います。

回答

ハルトさん
こんにちは。

メッセージありがとうございます。
このブログが参考になっているなら嬉しいです。

アルトゥール・ショーペンハウアーという方を知らなかったので、今さっきWikipediaで調べてみました。
仏教以外にも、ヴェーダのウパニシャッドにも影響を受けている方なんですね。
僕は、西洋哲学に詳しいわけではないので、もし、変なことを言っていたら反対に教えて下さい。

真理へのアプローチには、大前提として、真理を対象化することができないという問題があると思います。
「それが何か、どこにあるのかも知らないけれども、とにかくそこに向かいたい!」というのが、真理の探求ですよね。
それは、西洋哲学も、仏教などの宗教も、同じだと思います。

でも、その問題に対する対応の仕方が、西洋哲学と、仏教では、正反対かもしれません。

西洋哲学では、言葉を使って、真理を対象化しようとすると思います。
哲学者たちが、「これが真理だ!」という仮説を立てて、それを言葉で証明していこうとするんじゃないでしょうか?
そして、お互いに肯定批判を繰り返して、真理を探求するのだと思います。

一方、仏教では、対象化できないものを、対象化しようとはしません。
仮説は立てません。
(すでにブッダが真理を知っていると信じているからですが)
むしろ、瞑想などによって、対象化されるものが、無い状態を目指します。

ブッダは、四諦と八正道を説きました。
四諦というのは、この世は苦しみで満ちている(一切皆苦)、でも、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、そのためには八正道を実践すること、という4つの教えですね。
そして、八正道は、簡単に言えば、瞑想的な日常生活を送ることです。

思考からすれば、どっちのほうが、より真理に近づけるように思えるでしょうか?
たぶん、西洋哲学のほうだと思います。

思考からすると、仏教の教えというのは、あまりにも地味というか、退屈に感じられるんですよね。
だって、真理を対象化しようとすらしないからです。

でも、実際のところは、仏教というか、ブッダの教えは、真理への近道だと思います。

例えば、ブッダの言葉にこんなものがあります。

「他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。」

この世界では、「楽しい」とか「苦しい」という感覚は、共通認識だと思われていると思います。
ショーペンハウアーは、自分の苦しみと、他人の苦しみを同一に見ることを「共苦」と呼ぶそうですが、ブッダからすると、それは成り立たないんです。

僕の経験からいっても、「退屈」だと思っていたものは、実際には、退屈じゃありませんでした。
むしろ、それは「真理」でした。

こういったことは、哲学することが難しいと思います。

現代においては、仏教というと、大乗仏教のことを指すことが多いと思います。
大乗仏教というのは、ブッダの教えというよりも、龍樹の「空」の思想の影響が強いです。

僕は、龍樹は、哲学的な思考をする人だと思っています。
龍樹は、「空」の思想を、論理的に体系化するために、ブッダの言う「ニルヴァーナ」の存在を否定しました。

もし、ニルヴァーナが、唯一不変の実在であるなら、縁起の法則をベースとする、「空」の思想に、例外が起きてしまうからです。
「すべてのものには実体はなく、有ったり、無かったり、常に、縁起によって移り変わる。けど、ニルヴァーナだけは例外で、常に有る。」ということになるからです。

むしろ、それでいいのですが、龍樹は、論理的に穴のない思想にこだわってしまったのだと思います。
ニルヴァーナの実在性を否定してしまいました。
それどころか、輪廻することが、ニルヴァーナそのものだと言いました。
そうすれば、「すべてのものには実体はなく、有ったり、無かったり、常に、縁起によって移り変わる。」と言い切れるからです。

でも、そうであるなら、輪廻からの解脱を説いたブッダの教えはどうなっちゃうんでしょうか?

龍樹は、ニルヴァーナの実在性を悟ることができなかったのだと思います。
それゆえに、縁起の法則に囚われてしまったんでしょう。

確かに、ブッダは縁起の法則を説いたと思いますが、縁起の法則を超えたものがニルヴァーナです。

そして、西洋哲学も、縁起の法則を超えることは難しいのではないかと思います。
退屈を避ける方法を哲学することはできても、退屈そのものを真理だと哲学することは難しいと思います。
とても、そうは思えないからです。

縁起を超えるには、縁起を見るしかありません。
「退屈」が、どう縁起するのかを見ます。

もし、退屈が永続するのであれば、退屈は、常にここに有る実在ということになります。
本当にそうなのか、確認するんです。

苦しみについても、同じことが言えます。
「苦しみ」が、どう縁起するのかを見ます。

退屈も、苦しみも、縁起が起こって、違うものに移り変わっていきます。

でも、縁起しないものも、唯一ひとつだけあるんです。
それが何なのかということを突き止めるのが、仏教の実践的な側面です。

そして、その手段として、瞑想が使われることが多いと思います。

ただ、縁起しない、唯一ひとつのものを突き止めたとしても、その時点では、知的な理解は起こりません。
「なんでだろう?不思議だ。。」という感じなんです。

今まで、苦しみだと思っていたものが、苦しみではなくなっているし、退屈だと思っていたものが、退屈ではなくなってしまうからです。
むしろ、そこには解放感があるからです。

仏教の哲学的な側面(少なくとも、ブッダが語ったこと)というのは、この理解を前提に、語られたものです。
真理へのアプローチには、真理を対象化できないという問題があると言いましたが、この場合、真理を対象化できているんです。

まさしく、真理そのものを哲学します。
なので、真理という仮説を立てて、それについて哲学していく西洋哲学とは、ひと味違ったものになるのだと思います。

ちょっと、長くなってしまいました。
ハルトさんにとって、参考になりましたでしょうか?

もし、興味が持てるのであれば、瞑想を実践してみるのもいいと思います。

また、なにかあればご連絡ください。
それではまた。

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作成者: 山家直生

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