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哲学・形而上学

哲学に意味はないのか?【哲学の限界を知る】

「哲学には意味がない」と言われることがあると思います。

確かに、科学のように、日常生活を便利に変えるような影響力はないと思います。

また、文学のように、エンターテイメント性が強いわけでもありません。

でも、僕は、哲学は意味なくは無いと思っています。

というよりも、結局のところ、人が最終的に求めるのは、便利さでもなく、エンターテイメントでもなく、「人生とは何か?」「真実とはなにか?」「自分は何を求めているのか?」というところなんじゃないかと思います。

哲学とは、そのことを追求する学問でしょう。

そういった意味では、むしろ、最重要な学問なのではないかとも思います。

ただ、僕は、哲学という学問スタイルには限界もあると思っています。

多くの人が哲学に抱くイメージは何でしょうか?

「なんとなく小難しそう……」というものなんじゃないでしょうか?

僕だってそう思っているんです。

今回は哲学の意味と、哲学の限界についてお話したいと思います。

なぜ、哲学は「在る」ということを未だに証明できないのか?

まず始めに断っておきますが、僕は、哲学に詳しいわけじゃありません。

むしろ、疎い部類なんじゃないかと思います。

でも、哲学の研究対象である「在る」とは何かということを知っています。

「私は在る」

聖書にも出てくる言葉です。

哲学ではそれに相当する言葉として、イデア、クオリア、存在、などの言葉も使われているんじゃないかと思います。

哲学は、おそらくは紀元前の古代ギリシャから続いている学問だとは思います。

でも、「在る」ということを未だに証明することができていません。

そして、これからも証明することは出来ないでしょう。

僕は、哲学的な考え方自体は結構好きです。

このブログも、どちらかといえば理屈っぽく哲学的な表現で書かれていることが多いのではないかと思います。

記憶があるから、時間が存在する」「記憶があるから、空間が存在する」「世界は幻想なのか?」といった形而上学的なこともいくつか記事にしています。

できるだけ分かりやすく、話が飛躍しないように、帰納法と演繹法を適度に組み合わせて文章を書いていたりもします。

ただ、「在る」ということや形而上学を、言葉で証明すること自体は不可能です。

言葉に依存しなければならないのが哲学の盲点

哲学の盲点のひとつに、言葉への依存があります。

「哲学=言葉」ですよね。

言葉を使わない哲学者は存在しないと思います。

多くの哲学者が、言葉を使って、自身の思想を語っているんじゃないでしょうか?

言ってみれば、言葉を使って、「在る」とは何かを定義づけようとするわけですね。

そんなことは不可能です。

そもそも、言葉というのは、受け取る人によってその解釈が大きく違ったりします。

そんなあやふやな言葉によって、「在る」という存在を定義づけることなんてできるんでしょうか?

そしてまた、受け取る人によって解釈が違うのは、人それぞれ、持っている記憶が違うからです。

人は、自分の記憶に照らし合わせて、言葉の意味を解釈します。

そしてそれは、自分自身に対しても言えるんです。

例えば、自分自身が書いた文章を、1年後とかに読んでみると、書いた時とは違った風に感じたりするかもしれません。

恥ずかしくて読めないなんてこともあるんじゃないかと思います。

言ってみれば、今の自分と、1年後の自分は、おそらくは別人なんです。

そんなあやふやな自分という存在が、「在る」という存在を言葉によって定義づけようとしているんです。

そんなことは不可能でしょう。

人は、記憶という枠を超えて思考することができません。

天才的に頭の良い哲学者はいただろうし、いるだろうし、これからも現れるはずです。

でも、多くの哲学者は見落としているのではないかと思います。

自分という存在は記憶でしかないんです。

他人を論破することが重要か?それとも自分を知ることが重要か?

哲学的な表現は「詭弁」と呼ばれることもあると思います。

哲学では、他人を論破することも重要な能力だと位置づけられているからかもしれません。

僕自身は、哲学的な考え方は好きですが、詭弁はあまり好きではありません。

多くの人にとって理解が難しいですし、本質的ではないところで頭の思考力が奪われてしまうからです。

西洋の哲学書ではないですが、「中論」という「空」の思想を体系化した仏典があります。

西暦100年頃に活動した龍樹という仏教徒が書いたものです。

(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】

この「中論」は詭弁(論理的トリック)のオンパレードです。

本質そのものよりも、詭弁を読み解くことの方に時間がかかってしまいます。

例えば、龍樹の主張を西洋哲学風に言えばこうなります。

「イデアは存在するとは言えない。イデアは存在しないとも言えない。イデアは存在したり、存在しなかったりするとも言えない」

これが、いわゆる「空」の思想の考え方です。

「中論」はこの主張を成立させるために、論理的トリックのオンパレードになっています。

その目的は、当時対立していた、他の仏教徒を論破することです。

おそらく、西洋哲学も真っ青な詭弁スタイルなのではないかと思います。

でも、イデアは実在します。

ブッダの言うニルヴァーナはイデアのことです。

龍樹の「空」の思想は机上の空論です。

すべてを否定することで、すべてを記述できたように勘違いしてしまったんです。

龍樹は、記憶の枠を超えることができなかったのだと思います。

どれだけ頭が良くとも、思考で記憶の枠を超えることはできません。

じゃあ、どうすればいいのか?

記憶を参照しないことです。

つまりは、黙ることです。

言葉を使わないことです。

イメージしないことです。

そもそも、枠は無いということに気づくかもしれません。

自分を知るのに言葉は不要です。

僕は、哲学的に物事を考えることは重要なことだと思っています。

でも、記憶を超える方法を取り入れることも、哲学にとっては重要なことなんじゃないかと思っています。

(関連記事:「私は在る」という感覚をインスタントに悟る方法