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形而上学

記憶があるから、空間が存在する

今回は、空間の実在性を疑ってみようと思います。

探求の世界では、「時間は存在しない」とは良く言われると思います。

僕も、以前、時間についての記事を書きました。

でも、「空間は存在しない」とはあまり言われないのではないかと思います。

時間は存在しないと言う人であっても、空間は存在していると思っていることも少なくないのではないかと思います。

実は、空間も実在はしません。

お話します。

空間が無いなんてあり得ない?

最初に、ラマナ・マハルシの言葉を引用してみたいと思います。

「我々が存在しなければ、時間や空間も存在しない。もし、我々が身体としてあるなら、時間と空間に巻き込まれる。だが、我々は身体だろうか?今も、あのときも、そしていつでも、ここでも、あそこでも、そしてどこでも、我々は同じである。それゆえ、我々は時間や空間を超えて存在するのだ。」(実在についての四十頌より)

我々は、時間や空間を超えて存在すると言っていますね。

これは、多くの人の直感的な理解に反するんじゃないでしょうか。

時間が無いということは、まだ、理屈で考えれば理解しやすいんじゃないかと思います。

確かに、過去と未来はここにはありません。

あるのは今だけです。

なので、時間が無いというのはその通りとも言うことができます。

でも、空間が無いということは、理屈的に考えてもなかなか納得し難いんじゃないかと思います。

だって、目の前に空間はありますよね?

でも、これは、記憶が引き起こす錯覚だったりします。

「空間が存在する」という確信以前の認識に気がつけるか?

「空間が存在する」という確信は、非常に強いものがあります。

一方、空間に関連する言葉として、「世界は存在しない」という言葉があります。

空間は存在していると思っているけれど、「世界は存在しない」ということは信じているという人も、少なくないんじゃないかと思います。

でも、それって、ちょっと矛盾しますよね。

空間があるからこそ、世界は存在できているはずです。

なので、多くの場合、空間と世界は、切り離されることになります。

空間というのは、テレビで言えばディスプレイみたいなもので、世界という映像が消えても、空間は存在していると考えられることが多いんじゃないでしょうか。

僕も、「空」の説明の時、便宜上そう言うこともあります。

でも、実際のところは、空間と世界というのは同一のものです。

自我が、「空間と世界は別のものだ」と想像しているだけです。

でも、なぜ、「空間が存在する」という確信は、これほどまでに強いんでしょうか?

普通に考えるなら、空間が存在しているということは明白です。

むしろ、空間は存在しないだなんて言うなら、「ちょっと頭おかしいんじゃないの?」って思われるんじゃないかと思います。

もちろん、僕も、空間を認識しています。

でも、正確に言うなら、「「空間が存在している」という認識が存在している」ことに気がついているという感じでしょうか。

記憶なしには、この認識が存在できないということに気づいています。

この世界が、空間でできていることを確認することは簡単です。

例えば、スマホを握って空間の中を動かしてみたり、部屋の中を歩いてみるだけで、そのことは確認できます。

「ほら、空間は存在するじゃん。」って言うことができると思います。

でも、その裏で、記憶が参照されていることには気がついているでしょうか?

「ほら、空間は存在するじゃん。」って言う時、その根拠として、数秒前の一連の記憶が参照されてはいないでしょうか?

スマホを握って、空間の中を動かしてみた記憶が、無自覚に参照されてはいないでしょうか?

もし、一切の記憶が無いのであれば、空間の存在を確認することはできるでしょうか?

平面的な写真を空間と認識できるのはなぜか?

ちょっと切り口を変えてみます。

写真に写った風景を見て、それを空間だと思うことはできます。

でも、写真を触ってみると、それは平面的です。

なぜ、人は、平面的な写真を見て、それを空間だと認識できるんでしょうか?

そもそも、空間って何なんでしょうか?

人は、どうしたら、それを空間と認識するんでしょうか?

例えば、最近では、オンラインで賃貸物件の内覧ができるサービスがあったりします。

まるで、その部屋の中にいるかのような感じで、360°の室内写真を見ることができます。

グーグルストリートビューもそんな感じに、360°の風景写真を見ることができますね。

その、360°の写真は、実質的には複数の平面的な写真を張り合わせて、360°の写真に見せているだけです。

それは、空間と呼べるでしょうか?

それは、空間のようにも見えるけれども、実質的には、平面の写真なんじゃないでしょうか?

であるならば、例えば、新国立競技場の前に、あなたが実際に立ってみたとします。

あなたの目を通して、新国立競技場を見ます。

その景色は、グーグルストリートビューの360°写真と変わりあるでしょうか?

まあ、画質の問題とか、レンズの湾曲、写真の撮影時期、ディスプレイ越し、などの違いはあるのですが、ここではまったく同じように見えると仮定します。

もしそうなのだとすれば、あなたは、目の前の景色を、空間だと確信することはできるでしょうか?

それは、もしかしたら平面的なのかもしれません。

でも、人は、それを空間だと認識します。

空間だと確信します。

それは、なぜなんでしょうか?

肌に風が当たる感覚が、空間を感じさせるのかもしれません。

車が道路を走る音や、鳥の鳴き声、ザワザワとした街の音が、空間を感じさせるのかもしれません。

人は、5感覚をフルに使って空間を認識しているのかもしれません。

それは、非常に説得力があると思います。

でも、5感覚すら、起こってはすぐに記憶の中に消えていくことには気づいているでしょうか?

記憶が無いのであれば、人は、空間を空間と認識できない。

新国立競技場の前に立って、そこが空間であることを確認したいなら、歩いてみますよね。

新国立競技場に沿って、歩いてみます。

自分が歩くことによって、目に見える景色は相対的に動いていきます。

道路を走る車も、相対的に、自分に近づいたり、遠ざかったりしていきます。

歩道を歩く人とも、相対的に、近づいたり、遠ざかったりしていきます。

空を見上げれば、鳥が飛びたって、遠ざかっていくところを見るかもしれません。

そこが空間だからこそ、そういうことが起こります。

それは、疑いようがないと思います。

でも、5感覚が記憶されないとしたらどうなるでしょうか?

新国立競技場に沿って歩いてみても、記憶がないなら、相対的に比較できるデータがありません。

自分がどこから歩き始めたのか?

歩いている間、目に見える景色が相対的に動いていた、という記憶もありません。

例えるなら、常に1つのピースしか見えない状態で、ジグソーパズルをやるようなものかもしれません。

ジグソーパズルは、他のピースと、今持っているピースを比較できるからこそ、繋げていくことができますよね。

でも、常に、1つのピースしか確認することができないのであれば、ジグソーパズルを解くことは不可能です。

そもそも、他のピースがあるという発想が起こりません。

記憶が無いというのは、その状態に近いかもしれません。

常に、目の前の景色しか確認できないのであれば、どうやってそれを空間と確認できるでしょうか?

それは、空間ではなく、平面なのかもしれません。

そう考えると、空間というのは、時間の流れの中にあると言うことができるんじゃないでしょうか?

時間が無い状態では、空間を認識することは不可能で、時間という流れの中でのみ、空間を認識することができます。

そして、時間というのは、記憶です。

記憶があるからこそ、時間があり、時間があるからこそ、空間があり、空間があるからこそ、世界があり、世界があるからこそ、体を持った個人がある、と言うことができるかもしれません。

我々は、時間や空間を超えて存在する。

もっと言えば、記憶も超えて存在します。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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