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哲学・形而上学

なにが正しいのか、本当のところは確認できない

このブログでは「世界は実在しない」とか「時間は記憶だ」とか「虚無は有である」とか、結構、形而上学的なこともお話しています。

できるだけ、分かりやすく、理屈っぽく、体系的にお話しているつもりなのですが、本当のところは、そういったことを、証明することはできません。

「そんなのは、ただの詭弁だ」と言われるのならば、その通りなんです。

ただ、それは、その逆についても言うことができるんです。

反対に、「世界は実在する」ということを、証明することができる人はいるでしょうか?

多くの人は、ただ、根拠なく「世界は実在する」と思い込んでいるだけなんじゃないでしょうか?

いざ、そのことを証明しようとすると、飛躍的に、その難易度は上がります。

今、この瞬間、目の前に「無い」モノを、どうやって、実在していると証明することができるでしょうか?

確認しようとすることは、記憶に依存する。

人は、何かの存在を確認しようとするときには、5感覚をフル動員します。

例えば、今、僕の目の前にある、Macbook。

確かに、目の前にあります。

指先で、キーボードに触れてタイピングします。

カチカチというタイピング音も聞こえてきますし、指先に、キートップと触れる感覚もあります。

それに合わせて、ディスプレイに、文字が表示されていきます。

確かに、Macbookは、目の前に存在しています。

それは、疑いようがありません。

そして、それを確認したという事実が、記憶されます。

この記憶のおかげで、今、目の前に「無い」モノでも、存在していると感じることができます。

例えば、僕が、これから散歩に出かけるとすると、目の前から、Macbookは消えます。

でも、記憶があるので、「Macbookは家にあるよ!存在してる!」って思うことができます。

でも、記憶は、単なる記憶です。

それは、存在の証明にはなりません。

もし、散歩に行っている間に、泥棒に入られて、Macbookを持ち去られたとしたらどうでしょうか?

記憶と、目の前の現実が、食い違うことになります。

Macbookは存在しなくなってしまいます。

「持ち去られたというだけであって、Macbookは世界のどこかに存在するんじゃない?」って思うかもしれません。

でも、もしかしたら、Macbookはアルミニウムとして溶かされて、アルミ缶として再利用されているかもしれません。

そう考えると、世界が実在していることを証明することは、かなり難しいということが分かるはずです。

記憶は、存在の証明にはならないからです。

少なくとも、世界は、記憶の通りには存在していません。

本当の意味で、この世界を知っているという人は、誰もいないんです。

記憶どころか、この意識をも、超えたもの。

僕は、「虚無」を「有」だと言います。

虚無は、恐れるようなものではなく、それはニルヴァーナであり、自分自身だと言います。

でも、それを証明することは不可能です。

記憶は、虚無に対して何の役にも立ちません。

虚無の中には、記憶するような何かは無いからです。

熟睡中のことは、なにも記憶していないのと同じですね。

そして、もっと言うのであれば、虚無に対しては、意識すら無力です。

意識があるということは、この世界においては、あらゆることの基盤です。

意識がなければ、記憶だって利用できません。

でも、虚無というのは、この意識を超えたものです。

意識が、ここに無くても、虚無は常にここにあります。

ただ、それを確認することはできないんです。

ましてや、証明することは不可能です。

意識がここにあるとき、虚無がここにあることを、ハートで感じることができます。

「虚無感」という言葉がありますよね。

その名の通り、虚無というのは、感情を感じる部分で、まさしく、感じることができます。

でも、それは、意識がここにあるときだけです。

意識がここに無いとき、ここに、虚無があるということを、証明することはできません。

それを証明しようとする存在が、そこには不在だからです。

「意識が無い状態を、確認してきた」だなんて言える人は、誰もいないんです。

確認できるのは、分離感の無さ、死の恐怖の消滅、だけです。

人が、確認することができるのは、分離感が無くなること、死の恐怖が無くなること、それだけです。

でも、真理を探求する人にとっては、それが全てです。

それだけで十分なんです。

もちろん、そういったことを確認できるのは、ここに意識がある時だけです。

でも、ここに意識が無い時も、「私は在る」ということを確信します。

虚無が、常にここに在るということを確信します。

虚無が、ニルヴァーナであることを確信します。

虚無が、自分自身であることを確信します。

意識すら、ここから発生するということを確信します。

この体が、生きていようが、死んでいようが、本質的には同じだということを理解します。

ハートが、それを理解します。

でも、それを他人に証明することは不可能です。

自分自身、マインド的には、ハッキリとは理解できないことが残ります。

マインドは、「意識が無い状態のことは、確認しようがないじゃないか!」と言います。

死後のことは、死んでみないと分からないと言われます。

でも、実際のところは、死後のことは、死んでも分からないでしょう。

でも、マインドにも分かることがあります。

それは、生きていようが、死んでいようが、求めるものは同じであるということです。

虚無を求めます。

ニルヴァーナを求めます。

ハートを求めます。

真我を求めます。

自分自身を求めます。

生きている中でも、それを求めるようになるならば、死を恐れることはなくなります。

だって、そこに、世界が有るか無いかは関係がないからです。

もちろん、生きていれば、体が傷つくことは恐れます。

体に備わった、生存本能は機能しつづけます。

でも、死、そのものを恐れることはなくなります。

それが、マインドが行き着く結論です。

「死後のことは分からないけどさ、この意識と、記憶と、5感覚が消えるだけなら、今と大して変わらなくない?」ということになります。

でも、こういったことは、個人的な見解です。

本当の意味で、それが正しいのかどうかを、他人に証明することは不可能です。

各自がそれぞれ、確認する必要があります。

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