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真我探求

サット・チット・アーナンダをわかりやすく解説

サット・チット・アーナンダという言葉。
聞いたことがありますか?

インドなどのヒンドゥー教圏でよく使われる言葉です。

サットは”存在”、チットは”意識”、アーナンダは”至福”という意味です。

これら3つは、人の本質(真我)の3つの側面を言い表しています。

人は、体でも心でもない

サット・チット・アーナンダの話をするには、ある前提が必要です。

それは、人の本質は、体でも心でもないということです。

「何言ってるの? 人は体を持っているし、心も持ってるでしょ」と思う人は多いんじゃないでしょうか?

だって、体には5感覚があるし、心だって、人の存在理由のようにも感じます。

体も心も、自分だと思う人がほとんどだと思います。

でも、あなたは泥酔したことってありますか?
気がついたら家のベッドの上にいたという経験ありませんか?
どうやって帰ってきたか覚えていないという経験、ありませんか?

覚えていないけれども、家には帰ってきているんです。

つまりは、体は動いていたし、心も働いていたはずです。
でも、覚えていません。

そこには、自分という感覚がないはずです。

ということは、自分という感覚は、体と心にではなく、ほかのなにかに属しているのかもしれません。

人の本質は、サット・チット・アーナンダ

その何かが、サット・チット・アーナンダなんです。

サットは”存在”、チットは”意識”、アーナンダは”至福”、という意味です。

意識については、ほとんどの人が自覚しているはずです。

人は、自分の考えに気がつくことができます。

意識があるからこそ、そのことに気がつけるはずです。

であるなら、あなたは意識なんじゃないでしょうか?

多くの人は、体と心に、自分という感覚があると思い込んでいます。

体と心を持ったこの自分が、この意識に気がついていると思っています。

でも、実際は違うんです。

逆です。

実は、意識そのものに、自分という感覚があるんです。

だからこそ、意識を失っているときは、自分という感覚はありません。

体と心が動いていてもです。

そして、人の本質(真我の3つの側面)には、”意識”の他に、”存在”と”至福”があります。

詳しくお話してみます。

サット(存在)とは何か?

実は、サット(存在)を理解することはとても難しいです。

サット・チット・アーナンダの3つの側面のうちでも、もっとも理解することが難しいものです。

簡単に言うなら、サット(存在)というのは、この意識によって気がつかれるもののすべてです。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の5感覚を通して認識する目の前の世界、そして、あなたの思考やイメージ、感情、これらがサット(存在)です。

それが世界のすべてです。

この意識の外側には、世界は存在していません。

理解できるでしょうか?

この意識によって気がつかれているもののすべてがサット(存在)です。

でも、そのサット(存在)は刻一刻と変化していっているんじゃないでしょうか?

例えば、夕方になると、太陽は地平線に沈んでいきます。

そして、やがて、太陽は見えなくなって、夜になります。

その時、太陽は存在しているんでしょうか?

「日が沈んだって太陽は存在しているでしょ?」って思うかもしれません。

でも、それをどうやって確かめることができるでしょうか?

人は、この意識の中に現れるものしか確認することができません。

でも、人には記憶があり、記憶を使って様々なイメージをすることができます。

「太陽が地平線の下に沈んでいくように見えるのは、地球が自転しているからなのであって、太陽が見えなくなったとしても、地球の反対側からは見えているはず」とイメージします。

そして、それを現実だと認識します。

でも、それはあくまでもイメージです。

サット(存在)を悟るということは、記憶から作り出される世界のイメージというのは、幻想でしかないということを理解することです。

この意識の中に現れるものが存在のすべてであり、この意識の外側には何も存在しないということを理解することです。

これは、なかなか理解し難いです。

チット(意識)とは何か?

次に、チット(意識)についてです。

意識については、おなじみの言葉だと思います。

自分の意識に気づいていない人はほとんどいないかと思います。
気づいている度合いの違いは結構ありますが。

うっすらと、意識を感じている人もいれば、ハッキリと意識を感じている人もいると思います。

そして、ハッキリと意識を感じている人ほど、自分自身が体や心じゃないということに、気がつきやすいはずです。

だって、体の感覚にもすぐに気がついてしまうし、心の動きにもすぐに気がついてしまいます。

体や心は、勝手に動いているということに気がつきやすくなります。

であるなら、あなたは意識なんじゃないでしょうか?

アーナンダ(至福)とは何か?

次に、アーナンダ(至福)についてです。

これも、なかなか実感することが難しいかもしれません。

チット(意識)については、
言われれば、ほぼすべての人が感じているはずです。

自分が存在するという感覚がそこにはあります。

でも、意識に「私は存在する」という感覚が備わっているのは、実はアーナンダ(至福)のおかげだと言うことができるんです。

例えるなら、アーナンダ(至福)というのは太陽で、チット(意識)というのは月です。

月は、太陽の光を受けて輝きますが、月自身が光り輝いているわけじゃありません。

もし、太陽がなければ、月は光り輝くことができないでしょう。

もし、意識として「私は存在する」と思えるのであれば、どこかにアーナンダ(至福)があります。

でも、アーナンダ(至福)は、ある存在が邪魔をして、気づきにくかったりします。

それは感情です。

アーナンダの至福は、感情という雲に覆い隠されています。

楽しいという感情だったり、悲しいという感情だったり、寂しいという感情だったり、苦しいという感情だったり。

アーナンダの至福は、常にそこにあるのですが、感情という雲に覆われています。

なので、たまに雲の切れ間から、ほのかに感じる程度なんです。

とはいえ、ほとんどの人が、アーナンダ(至福)を感じる瞬間があります。

それは、例えば、何かから解放された時です。

試験勉強から解放されたとき、アーナンダ(至福)を感じたりします。

仕事から解放されたとき、アーナンダ(至福)を感じたりします。

アーナンダの至福は、解放感そのものです。

アーナンダ(至福)の発見はとても重要かも

人生って楽しくもありますが、苦しいことも多いです。

ブッダは一切皆苦と言っているほどです。
すべてのものはすべて苦しみだということですね。

絶望的になりますが、だからこそ、サット・チット・アーナンダを発見することは、とても大事だと思うんです。

特に、アーナンダ(至福)の発見はとても重要だと思います。

というのも、日常生活の中で、解放感を感じ続けることができるようになるからです。

まとめ

というわけで、
サット・チット・アーナンダについてお話しました。

サットとは存在、意識によって気がつかれるもののすべてです。
それが世界のすべてでもあります。

そして、チットは意識、サット(存在)とアーナンダ(至福)に気づく能力です。

そして、アーナンダは至福、常にそこにある解放感です。

人の本質(真我)は、体や心ではなくて、このサット・チット・アーナンダなんですね。

そして、このサット・チット・アーナンダを発見すること、それが悟りです。

ちなみに、サット・チット・アーナンダという言葉と、同じような意味で使われている言葉が、他にもあります。

仏教では、「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」。

キリスト教では、「父と子と聖霊」です。

言葉が全然違うので、違う意味だと思うかもしれませんが、実は、本質的には同じ意味です。

(関連記事:諸行無常・諸法無我・涅槃寂静【三法印をわかりやすく解説】

(関連記事:父と子と聖霊【三位一体をわかりやすく解説】

作成者: 山家直生

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