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探求が終わる前に書かれた記事

真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)と瞑想はどう違うのか?

真我探求という言葉があります。

本当の自分を探求すること、という意味なのですが、
その感覚っていまいち分かりづらいですよね。

どういう感覚なんでしょうか?
瞑想との違いも合わせてお話します。

私とは誰か?

真我探求というのは、
その名の通り、真我、
つまりは本当の自分を探そうとする行為です。

そのための手段として

「私とは誰か?」

(関連記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】

という言葉が使われます。
自分自身に問いかけてみるんですね。

「私とは誰か?」って。

実際にやってみるとわかると思いますが、
なにかこう、フワフワとした手応えのなさを感じるかもしれません。

そして、人によっては、
思考によって答えようとしてしまうと思います。

「私とは誰か?」
「私は体でもないし、心でもない、私は意識である」って。

でも、

「だからなに?」

という感じになってしまうんです。

そして、人によっては真我探求というのは

「私とは誰か?」

という言葉を、
マントラのように繰り返すことなのでは?
って思うかもしれません。

たしかにそれもアリかもしれないですが、
それだと、マントラを使った瞑想と変わりません。

「在る」という感覚を探してみる。

僕は、真我探求をもっと具体的に言うならば、

「在る」

という感覚を探してみる行為なんじゃないかなと思います。

こっちのほうが、
なんとなくイメージしやすいんじゃないでしょうか?

「私」というよりも「在るという感覚」のほうが、
より具体的だと思います。

まあ、それでもまだまだ抽象的ですけどね。

でも、感覚であれば、
体を使って感じようとすることができます。
心でそれを感じることができます。

ぜひ、試してみてください。

でも、なんで、真我探求というのは、
フワフワとした、手応えのなさを感じてしまうんでしょうか?

それには理由があります。

映画の中の登場人物が、自分が映っているスクリーンを探すような感覚。

真我探求というのは、
自分自身を心とした視点から、
「私」「在るという感覚」を探そうとする行為です。

これって、映画の中の登場人物が、
自分が映っているスクリーンを探すような感覚に
近いのではないかなと思うんです。

例えば、アンパンマンで言えば、
スクリーンの中に映っているアンパンマンが、
自分が映っているスクリーンそのものに、
気づこうとするようなものだと思います。

ちょっとイメージしてみてください。
不思議な感覚だと思います。

だって、映像としての自分からは、
スクリーンそのものを観察することができないんです。

ただ、感じるしかありません。

「自分は何かに映っている存在だ、何に映ってるんだろう?」って。

真我探求というのは、
そういう感じに近いんじゃないかなと思うんです。

心というのは
「私(意識)」
というスクリーンに映っている映像のようなものです。

なので、心という視点から、私を探そうとすると、
フワフワとした手応えのなさを感じて当然なんじゃないかなと思います。

意識として、心を観察するのが瞑想。

ちなみに、瞑想というのは、
意識という視点から、心を観察することです。

真我探求と真逆なんですね。

さきほどの映画のスクリーンの例でいくと、
スクリーンの視点から、そこに映されている映像に気づこうとする行為です。

しっかりと気づくことができますよね。

スクリーンに映っている、
アンパンマンや、バイキンマン、ジャムおじさんや、バタコさん、
食パンマンやカレーパンマンにもハッキリと気がつくことができます。

そこにはしっかりとした手応えがあると思います。
集中力も感じると思います。

これが、瞑想と真我探求の違いなんです。

意識としての自覚を強めてから、真我探求をはじめるのもあり?

真我を知るには、
真我探求が最短の道だと言われてはいますが、
自分自身を心や体だと確信している人にとっては、
それは難しいことかもしれません。

フワフワとした手応えのなさが続くことでしょう。

それでも、続ければいつかは真我にたどり着くかもしれません。

でも、ある程度、
自分は意識なんだという自覚を強めてから、
真我探求をはじめてもいいのではないかなと思います。

自分は意識(観察者)なんだという自覚があれば、
自分は在る(観照者)という感覚をみつけるのは簡単になっていると思います。

そこにとどまることも簡単になってくると思います。

関連記事:「観察者」と「観照者」の違いとは?

まとめ

というわけで、
真我探求の感覚、
そして、瞑想との違いについてお話しました。

真我探求のフワフワ感、手応えのなさは、
感じて当然だと思います。

というのも、映画の中の登場人物が、
自分が映っているスクリーンに気づこうとするようなものだからです。

なかなか、不思議な感覚ですよね。

人によっては、生まれつき、
自分自身は意識なんだとう感覚が強い人もいると思います。

そういう人は、最初から真我探求をおこなっていけるかもしれません。

でも、自分自身が体や心だという自覚が強い人の場合、
それは難しいと思います。

そういう場合は、やっぱり、瞑想をある程度おこなってから、
真我探求に移行するのがいいのではないかなと思います。

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