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探求が終わる前に書かれた記事

瞑想しなくても、覚醒はできるかも

瞑想してますか?

覚醒を目指して、
日々瞑想しているという人もいるかもしれません。

でも、僕は瞑想しなくても覚醒はできるんじゃないかなと思います。

実際、僕は覚醒してから瞑想を知りました。
お話します。

覚醒とは、サット・チット・アーナンダを発見すること?

まず、覚醒とは何かという定義の確認からです。

というのも、覚醒ってものすごく曖昧な言葉で、
人によっていろいろと定義が違うと思います。

ここでは、僕の中での覚醒についての定義をお話します。

僕にとっての覚醒の定義は、
サット・チット・アーナンダの発見です。

サットとは存在、
チットとは意識、
アーナンダとは至福のことです。

この3つは同じ存在だという意味で使われています。

僕は、あるとき、アーナンダ(至福)を発見しました。

でも、そのときはそれがアーナンダだとは気がつきませんでした。
「なんなんだ?これは?」
という感じですね。

あとから、あれが覚醒だったのかと気づいた感じです。
僕の場合は、アーナンダでしたが、
人によってはサット(存在)が強くでるのかもしれません。

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超能力を身につけるのとは話が別です。

ちなみに、超能力を身につけることも覚醒と言われることがあるようですが、
それとは話がまったく別です。

もし、超能力を身につけることが覚醒だと思っているのであれば、
ここで、この記事を読むのを辞めたほうがいいかもしれません。

超能力の話はまったくでてこないからです。
というのも、僕は超能力はまったく使えませんし、
超能力とサット・チット・アーナンダの発見はまったく別ものだと思うんです。

瞑想の代わりに、苦しみの感情をじっくりと味わう。

僕は、形式的な座る瞑想はまったく行っていませんでした。
瞑想を怪しいものだとすら思っている人でしたからね。

ただ、苦しみの感情をじっくりと味わうということはしていました。
自主的にそうしていたわけではないですけどね。
苦しまざるを得なかったということです。

もちろん、なにか娯楽でごまかすこともできたかもしれませんが、
そういうことはしませんでした。

苦しいという感情を正面から受け入れていました。
今から考えると、それが良かったんです。
瞑想とは言わないかもしれませんが、
それは瞑想のようなものだったんだと思います。

集中対象が感情というだけです。

苦しさから逃れるために、
瞑想をしているという人もいると思います。

とくに、呼吸に集中するサマタ瞑想の場合、
感情から逃れられる効果もあると思います。
マントラを使った瞑想ならなおさらだと思います。

でも、感情はそこにあります。

いつかは味わわないといけないのではないかなと思います。
おそらく、それを避けられる方法はないと思います。

だったら、今、感情を瞑想対象にするのも良いかもしれませんよ。
そして、諸行無常。

苦しい感情も、味わっているといつかは消えていきます。
僕は今でも、感情がでてきたらそれを瞑想対象にします。

観る者としてあろうとするよりも、観る者を探す。

そして、瞑想というのは基本、
観る者としてあろうとする行為ですよね。

観照者として、
自分の心の中にでてくる思考やイメージに気づく、
体の感覚に気づこうとする行為です。

それはとても良いと思うのですが、
覚醒する前は、意識というものがなんなのか、
ちょっと漠然としていると思うんです。

たしかに、観照者としてあろうとすることはできるんだけど、
自分自身(意識)のことをあまりよく知らない状態とでもいいますか。

なので、常に観照者としてあろうとするんじゃなくて、
心の視点から、観照者を探してみるというのも、
大事なんじゃないかなと思います。

実際、僕はそのときにアーナンダ(至福)を発見しました。

「なんなんだ?これは?」

という感じです。
そこには静かな興奮がありました。

ちなみに、なんで、
観照者を探してみることになったのかというと、
脳科学系のセミナーを受けていたからです。
(瞑想系じゃないんです)

そのセミナーでは、
自分のポジティブなときの感覚を覚えておくというワークをしていました。

いつでもそれを再現できるようにという意図なんですが、
「ポジティブなときの感覚ってなんだろう?」
って感じなんです。

「それを知ってれば苦労しないよ」って。

でも、なにも得ずに家に帰るわけにはいかないので、
自分自身に問いかけてみたんですね。

「ポジティブなときの感覚ってどんな感じ!?」って。

そうしたら、そこに反応があったんです。
「ここだよ」って感じでしょうか。
そこにアーナンダ(至福)を発見しました。

まとめ

というわけで、
瞑想をしなくても覚醒はできるかもというお話をしました。

けっして、瞑想を否定しているわけではないんです。
瞑想はとても重要だと思います。

ただ、形式的な瞑想をしなくても覚醒する可能性はあるということです。

きっと、大昔の人はそうだったんだと思います。
瞑想という知識がなくても、
覚醒することは多いに考えられると思います。

瞑想は、あくまでも雑念を抑えるための、
補助輪みたいなものだと思います。

いつまでも補助輪に頼っていたら、
ずっと自立はできませんよね。

ちなみに、僕は覚醒したあとに、
瞑想を知り、習い、実践してみましたが、
結局、今もやっていることといえば、感情を味わうということです。

感情がそこにないときは、
ただ、そこにアーナンダを感じながら日常生活を送っています。

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