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「悟り」とは「差取り」という本当の意味とは?

「悟り」とは「差取り」だと言われることがあります。

たしかに、その通りだと思います。
でも、「差取り」には2段階あるということは、
あまり言われていないと思います。

お話します。

他人との差って取れるの?

まず、ひとつめ。
差取りというのは、他人との差を取るという考え方です。

自分と他人には差がないということに気づくことが差取りというわけなんですね。

でも、これって納得できますか?

例えば、身体的な特徴。
身長が高いとか低いとかですね。

こういった差は、明らかにそこにありますよね。
足の速さだってそうです。
足が速い人もいれば、そうじゃない人もいます。

「どうやって、差を取るんだ?」って思ってしまいますよね。

でも、感性については、
差を取るという考え方はしやすいかもしれません。

例えば、ゴッホの絵と、ピカソの絵。

どちらがより優れているとか劣っているということはないと思います。

個人的な好みというのはあると思いますが、
差を取るという考え方はしやすいと思います。

「どっちの方が優れているか?」という論争はなくなると思います。

そして、日本人とアメリカ人。
どちらも人間であることには違いはありませんよね。

差を取ると。みんな同じ人間なんだから、
平和にしましょうという考え方につながるかもしれません。

でも、差取りというのは本当にそういうことなんでしょうか?

他人を認識しているのは、自分の心。

僕が思う、ひとつめの差取り。

それは、この世界のすべては、
自分の心が認識しているものだということに気づく差取りです。

僕たちは、寝ているときには、
外の世界に気づいてはいないですよね。

なににも気づいていません。
自分も他人もいません。
自分にすら気づいていないんです。

でも、起きると、そこには、自分と、他人と、世界があります。
当たり前すぎて、なかなか気づきにくいかもしれませんが、
僕たちは、自分の心というフィルターを通してしか、
世界を認識できないんです。

言ってみれば、自分の心というスクリーンがあるようなものだと思うんです。

そのスクリーンに、
いろんなものが映しだされているんじゃないかと。

もちろん、そこには他人も映しだされます。

例えば、うちの妻。
「おはよう〜。コーヒー飲む?」って言ってきます。

でも、そこに映し出されている妻は、
僕の心というスクリーンに映し出されている存在です。

つまりは、自分の心そのものでもあるんです。
そう考えると、自分も他人もありません。
すべては、自分の心なんです。

このことに気づくことがひとつめの差取りなのではないかなと思います。

「他人の役に立ちたい!」と思う人は多いと思います。

その理由は、他人だと思っている存在は、自分の心だからです。
なので「差取る」と、他人のための行為が、結果として自分のためになり。
自分のための行為が、結果として他人のためになるんだと思います。

自分の心を、観察している存在があるのでは?

つぎに、ふたつめの差取りです。

世界とは、自分の心そのものというのがひとつめの差取りでした。

でも、自分の心というのは、
単独で存在しているんでしょうか?

自分の心を、観察している存在があるんじゃないでしょうか?
そう、意識です。

ちなみに、心と意識、どういう関係性になっているんでしょうか?

突然ですが、あなたは、泥酔したことってありますか?
気がついたら家で寝ていたんだけど、
どうやって帰ってきたか覚えていないって経験はありませんか?

無意識で帰ってきたんですね。
意識がなくても、心は動いているという証拠だと思います。

でも、そこには自分だという感覚はないと思います。

ちなみに、瞑想はしたことはありますか?

瞑想を続けていくと、
だんだんと、心が静かになっていきます。
そして、なにも考えていない状態に近づきます。

ほとんど心が消えている状態です。
でも、意識はそこにあるはずです。

そして、そこには自分だという感覚があるはずです。

そう考えると、自分という感覚は、
心にではなくて、意識に属しているのではないかと考えられるんです。

自分の心は、意識というスクリーンに映しだされる他人のようなもの。

自分は意識なのだとすれば、
心って一体なんなんでしょうか?

結論から言えば、心というのは、
意識というスクリーンに映しだされる他人のようなものだと思います。

ちょっとビックリですよね。

ほとんどの人は、心が自分自身だと思っていると思います。
でも、よくよく考えてみると、納得できるはずです。

だって、僕たちは、自分の考えをコントロールすることができません。

自分で考えたように思える考えもあるのですが、
たいていは、頭の中に勝手にでてきた考えなんじゃないでしょうか。
例えば、「お腹すいたな〜」とか。

自分で考えるというよりも、勝手にでてきますよね。

他にも、例えば、美術館に行って絵を観たとします。
そのときに、どう思うかは、自分ではコントロールできないと思います。
頭の中に勝手に考えがでてくるんです。

そう考えると、自分の心というのは他人のようなものだということに、
だんだんと納得できるようになってくると思います。

自分は意識なんだという自覚が強くなると、
心は静かになっていくと思います。

意識と心の差が取れていきます。
そして、最後には意識そのものになります。

これが、ふたつめの「差取り」です。

まとめ

というわけで、
「悟り」が「差取り」だと言われる理由についてお話しました。

ふたつの「差取り」があります。

ひとつめは、他人とは、自分の心というスクリーンに映しだされた存在。
つまりは、自分の心そのものであるということ。

そして、ふたつめは、自分の心ですら、意識というスクリーンに映しだされた存在。
つまりは、意識そのものであるということですね。

差を取りのぞいていくと、
最後には意識にたどりつくということです。

「だからなんなんだ?」って思う人も多いかと思います。
でも、自分は意識なんだという感覚をもって、生活してみてください。

心を、自分ではなく、他人なんだと思って生活してみてください。

あることに気がつくはずです。
心がとても楽になることに気がつくと思います。

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