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探求が終わる前に書かれた記事

「覚醒」と「悟り」にはどんな違いがあるんでしょうか?

「覚醒」と「悟り」という言葉があります。

この2つの言葉、
定義がものすごくわかりにくいんです。

たしかに、正解はないのかもしれませんが、
僕はどう定義しているのか。

お話します。

覚醒とは実技?

僕は、覚醒というのは実技なんじゃないかなと思っています。

実技っていうのは、
学校教育でいう、体育や図工みたいなものです。

実際にやってみて、
はじめてわかる類のものなんじゃないかなと思います。

例えば、体育でサッカーをやったとします。

サッカーについての本を読んだだけでは、
サッカーは上手くなりませんよね。
実際に、サッカーをやってみて、はじめて上達します。

図工で木彫りをするときだってそうです。
木彫りについての本を読んだって、
木彫りは上手くなりません。
実際に木彫りをしてみてはじめて、木彫りが上手になると思います。

覚醒も同じだと思うんです。

まあ、覚醒の場合は体を使ってじゃなくて、
頭を停止させることによってですけどね。

覚醒というのは、自分は体や心ではなくて、
意識だという確信です。
確信までいかなくても、「なんとなくそうかな〜」という感覚です。

至福をともなう感覚。頭で理解することは不可能。

覚醒には、至福をともなう感覚があります。

サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)のアーナンダです。

サット・チット・アーナンダというのは、
これら3つは同じものだということを表す言葉です。

なので、覚醒は、少なからず、至福感をともないます。

でも、それは、頭では、どうやったって理解することはできないんです。

理解しようとすることはできます。
でも、勘違いする可能性がかなり高いと思います。
過去の記憶と想像力を総動員して、
アーナンダとは何なのかのイメージを作り上げてしまう可能性が高いかもしれません。

なので、覚醒というものは、
思考を停止することによって、
実際に、体験してみないと確信することができない、
実技みたいなものだと思うんです。

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覚醒だけでは悟れない理由。

ちなみに、覚醒だけでは悟れないと思います。

覚醒というのは、自分とは意識であるという確信ですが、
そこには、自分が在るという感覚があります。

その、自分が在るという感覚が、
悟りを妨げてしまうんだと思います。

僕も、覚醒はしていると思いますが、
自分が在るという感覚はまだ持ち続けています。

でも、なんで、そこに自分が在るという感覚があるんでしょうか?

そのことを理解するのが、
悟りなんじゃないかなと思うんです。

悟りとは理解?

覚醒は実技でしたが、
悟りは理解だと思います。

自分という存在への理解です。

自分というのは、
いろんな思考やイメージの集合体みたいなものだと思います。

「あれが欲しい」とか「あれをやってみたい」とか「認められたい」とかそういった思考です。

覚醒しても、
そういった欲望は持ち続けてしまうんですね。

というのも、覚醒には少なからずの至福感をともないますが、
快楽に比べると、それはとてもささやかなものだからです。

「覚醒した状態はたしかに心地いいけどさ、アイスクリームも食べたいじゃん?」
ってなるんです。

快楽も苦しみに変わっていく?

僕はアイスクリームが好きです。
特にパルムが好きですね。

コンビニで6本入りの箱をよく買っています。

パルム、食べたことありますか?
美味しいですよね。

覚醒した状態もいいけれど、
パルムを食べることによる味覚の快楽も捨てがたいものがあるんです。

でも、パルムを食べることは、
快楽だけしか生まないんでしょうか?

僕は、虫歯になりやすい体質でもあります。
今も、歯医者に通っているし、奥歯が1本ありません。
抜歯せざるをえない状況になってしまったんですね。
まあ、抜歯とパルムがつながっているかは微妙ですが。

でも、パルムが僕の虫歯に関係しているのは間違いないと思います。

つまりは、パルムは僕に快楽を与えてくれると同時に、
虫歯という苦しみも与えてくれるわけなんです。

このことを理解すること。
それが、悟りへとつながっていくのではないかと思います。

覚醒の中にとどまれることが悟り?

ブッダはこのことを「縁起」と呼びました。
すべてのものごとはつながっているという概念ですね。

パルムは快楽でもあるけど、
苦しみにもなるということですね。

このことは、パルムだけじゃありません。

例えば、オーロラを観に行きたいという欲望だって、
そのときは快楽を与えてくれるかもしれませんが、
いずれは、それが苦しみに変わる可能性があるんです。

例えば、歳をとって、もう一度オーロラを観に行きたいと思ったとします。

でも、そのときは体が動かなくなっていたとしたら、
それは大きな苦しみになると思います。
これが縁起です。

このことを理解すると、
覚醒した状態にとどまることが、
結局は1番心地いいということに気づくんだと思います。

欲望が消えた状態ですね。

つまりは自分が消えている状態です。
それが、悟りなんだと思います。

まとめ

というわけで、「覚醒」と「悟り」の違いについて、
僕はこう思うということをお話しました。

覚醒というのは、実技みたいなものだと思います。
覚醒には、少なからずの、至福感がともなうからです。

頭では理解できないと思います。

悟りというのは、自分がなぜ存在しているのか、
どんな欲望をもっているのかの理解。

そして、その欲望が、快楽だけではなくて、
苦しみも呼び寄せてしまうということの理解だと思います。

結果として、快楽を求めなくなり、
自分という存在が消えていくのではないでしょうか。

もっと言えば、すべての苦しみは、
生まれてくることによって発生するということを理解するので、
輪廻転生もしなくなるのではないかなと思います。

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