【体験談】僕が真我を自覚したときのお話。自我(観察者)が沈黙する?

僕が、真我を自覚したときのお話をしようと思います。

僕は真我を知っていました。
誰もがそうだと思います。

でも自覚してなかったんです。

お話します。

それは、本を読んでいる時に起こりました。

それは、本を読んでいる時に起こりました。

ラメッシ・バルセカールの
「誰がかまうもんか?!」という黄色い本です。

読んだことはあるでしょうか?

ラメッシ・バルセカールは、
ラマナ・マハルシの孫弟子にあたる人なのですが、

ラマナ・マハルシのように、
出家したような状態で暮らしていたわけではなく、
銀行マンとして働いていました。

銀行の頭取にもなっているようですから、
ビジネスマンとしても優秀な人だったんだと思います。

真我そのものはひとつなのですが、
それをどう語るかは、人によって結構違うと思います。

ラメッシ・バルセカールとラマナ・マハルシにも結構違いがあります。

まだ、読んだことがないという人は、
読んでみるといいと思います。

で、その「誰がかまうもんか?!」を読んでいるときに、
真我の自覚は起こりました。

しかも、本のかなり始まりのほうでです。

具体的には30Pと31P。
「沈黙と比喩」という項目です。

沈黙ってなんだろう?

そこでは、ラマナ・マハルシは、
沈黙を使って真我を伝えていた、ということが語られています。

でも、沈黙によって真我を自覚する人はかなり少なく、
慈愛ゆえに、ラマナ・マハルシは言葉を使って、比喩を使って、
話しはじめたということも語られています。

僕はラマナ・マハルシの本もいくつか読んでいるので、
ラマナ・マハルシが沈黙を重要視していたのはよく知っています。

でも、改めて、その文章を読んで、
こう思ったわけです。

「沈黙ってなんだろう?」

って、

でも、その疑問は途中で遮られました。

「沈黙ってなんだ・・・」

という感じですね。

質問の途中で、
あることに気がついてしまったわけなんです。

質問そのものが、沈黙を妨げていることに気づく。

質問そのもの、
そして、質問をする人そのものが、

沈黙を妨げているということに、
気がついてしまったんです。

質問をする人というのは、
観察者、自我、観る者、自由意志をもつ者、行為者、
いろんな名前で呼ばれていると思います。

「沈黙ってなんだ・・・」

というところで、
とうとつに気がついてしまったんです。

これは、結構不思議な感じです。

質問が遮られ、
質問する人が消えます。

そして、その後には沈黙が残りました。

そして、気がつきました。

「これこそが真我なんだ」

って。

でも、「これこそが真我なんだ」って思う人は、
そこにはいないんです。

ここが重要なところです。

もし、そこに理解する人がいるのであれば、
それは沈黙ではないし、
真我ではないんじゃないかなと思います。

なんで今まで気づかなかったんだろう?

真我の自覚は、
人によっていろんなカタチで語られていると思います。

「ジョークみたいなものだ」

と言われることもありますよね。

そこには、
大きな驚きと感動があるように語られることもあります。

でも、僕の場合は、
とても淡々としたものでした。

あったのは、ほんの少しの高揚感と、呆然とする感覚です。

「・・・なんで今まで気づかなかったんだろう?」

という感覚です。

というのも、良くも悪くも、
真我を自覚するということは、
とても普通のことだからです。

未知のものではないんです。

今までだって、真我の中にいたことはあります。
誰だって、真我の中にいたことはあるんです。

頭の中の思考が止まっていて、
自我も一時的に消えている、
そんな瞬間は、日常生活の中でもちょこちょこと訪れます。

でも、そのことを自覚することができないんですね。

真我を自覚しても、質問は起こり続けます。

ちなみに、真我の自覚に関して、
抱きがちな誤解があります。

それは、
「真我を自覚したら、ずっと真我の状態なのでは?」
という誤解です。

真我について書かれている本を読んでいると、
たしかに、そう思ってしまいますよね。

僕も、ずっとそう思っていました。

だからこそ、瞬間的な真我が現れても、
それを真我だと気づけないというか、

「真我というのはこんなものではない」

という自我がでてきてしまうのではないでしょうか。

そう思うことが、真我を遠ざけてしまいます。

実際のところ、
真我を自覚しても、
質問は起こり続けます。

さきほどお話した、
「・・・なんで今まで気づかなかったんだろう?」
という質問だってそうです。

真我に気づいてから、
数秒後に、この質問が起こるわけです。

そのとき、真我は消えて、
質問する人が現れているわけです。

ラメッシ・バルセカールだってそうなんです。

236Pと237Pにこんな質問のやりとりがあります

「賢者の場合、観照は常に起こっているのですか?」
「機能する心が進行しているときを除いて、そうです。」

と。

でも、悟りを気にしなくなります。

なので、真我を自覚すること自体は、
大したことはありません。

「だから何なの?」

という感じでもあるんです。

でも、大きな違いもあります。

それは、もう迷わなくなるということだと思います。

真我をまだ自覚していないときは、
自我はあっちこっちをさまよいます。

なにか、自分を満たすことができる何かを探し求めます。

楽しさによって、
一時的に自分を満たすことはできるかもしれませんが、
いつかは飽きるし、
生きていると苦しみだってもちろんやってきます。

定住できる家がないような感じなんです。

でも、真我は、定住することができる家のようなものです。

自我が、快楽を求めて外にでていくこともあると思います。

でも、帰るべき家があるので、
心配することがなくなってくるんですね。

悟りさえ気にならなくなってきます。
悟ろうが悟るまいが関係ない。

だからこそラメッシ・バルセカールの本のタイトルは
「誰がかまうもんか?!」なんですね。

まとめ

というわけで、僕が真我を自覚したときのお話をしました。

これはあくまでも僕の体験談です。

正しいとか間違っているとかないと思います。

人それぞれ、起こるべきタイミングで、
それは起こるんだと思います。

僕の場合は、それが本を読んでいるときでした。
人によっては、散歩しているときとか。
そんなものだと思います。

ともあれ、真我というのは、とても身近なものです。
身近すぎるゆえに気づけない。

そんな感じです。

なので、もし、あなたが、真我に対して
過度にポジティブなイメージを持っているのだとしたら、
それを捨ててみるのもいいかもしれません。

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