アートマンとブラフマンは違うもの?それとも同じもの?

ウィキペディアによると、
アートマンとは個の根源、
ブラフマンは宇宙の根本原理とあります。

違うもののように感じますが、
仏教には梵我一如という言葉もあります。

梵(ブラフマン)と我(アートマン)は
同じものという意味ですね。

どうなんでしょうか?

アートマンとは「観察者」としての自分の意識?

アートマンとは個の根源ということですが、
それって、観察者としての自分の意識のことでしょうか?

瞑想をしているとき、
僕たちは、自分自身が、
心と体を意識する観察者だということを強く実感すると思います。

心が何を考えているのかを、
観察することができるし、
体がどう感じているかも、
観察することができます。

そして、観察者としての意識は、
体でも心でもないように感じます。

アートマンは意識とも呼ばれています。

観察者としての自分の意識のことを
アートマンと呼ぶのではと思う人は多いと思います。

それだったら、アートマンとブラフマンは違うものです。

そう思っているのであれば、
アートマンとブラフマンは違うものです。

ブラフマンというのは、宇宙の根本原理とあります。

つまりは宇宙の意識みたいなものだと思います。

もし、自分を、
観察者としての意識だと思っている場合は、
宇宙という存在も、観察対象になると思います。

自分の体があります。

そして、自分の体は地球に存在し、
地球は宇宙の中にあります。

宇宙の意識がブラフマンなのだとすれば、
それはアートマンとは違うものですよね。

アートマンすらも含む、
究極の意識がブラフマンなのではないかという印象を持ちます。

実は、自分なんていない?

でも、違う考え方もあります。

自分なんていないという考え方です。

観察者としての自分の意識というのは、
本当は存在しないという考え方ですね。

僕は、こちらのほうが正しいと思います。

たしかに、観察者としての自分の意識は、
存在しないとも言えるからです。

存在しているときもあるし、
存在していないときもあるという感じでしょうか。

ブッダが「空」と言ったのはこれが理由です。

自分という存在は無いともいえるし、
有るともいえるという感じです。

観察者が観察者であるためには、
観察対象が必要です。

でも、どこにも観察対象がないときに、
観察者が消えるという現象が起こります。

そして、後には観照者が残ります。

アートマンとは観照者としての意識?

実は、アートマンというのは
観察者としての意識ではなく、
観照者としての意識のことを言うのではないかなと思います。

観照者というのは、
意志を持たない意識みたいな感じでしょうか。

世界に気づいてはいるのですが、
そこに、意味づけをしません。

花を観るときは、ただ、花を観ます。
そこに、思考やイメージをともないません。

知覚反応する心が消えている状態ですね。

それゆえに、観察者も消えているんです。

観察者は意志を持っています。
心を観察して、反応したり、コントロールしようとする意志を持っています。

それゆえに、個人という感覚をともなうんですね。

それだったら、アートマンとブラフマンは同じものです。

この、観照者としての意識をアートマンと呼ぶのであれば、
アートマンとブラフマンは同じものだと言えると思います。

というのも、世界を知覚反応する心が消えているからです。

僕たちが一般的にイメージする宇宙というのは、
心がイメージしたものです。

実際にこの眼で確認しているわけではないですよね。
観照者としての意識の場合、
実際に知覚しているものが世界のすべてです。
それが宇宙になります。

もし、今、部屋の中にいるのだとしたら、
部屋の中で感じるものが、宇宙そのものになります。

つまりは、観照者として知覚している世界とまったく同じものなんです。

それゆえに、アートマンとブラフマンは
同じものだと言われるんですね。

仏教では梵我一如です。

まとめ

というわけで、アートマンとブラフマンについてお話しました。

アートマンとブラフマンは、
違うものとも、同じものとも言われています。

どうして、そうなるのかというと、
人によってアートマンの定義が違っているからなんですね。

人によっては、観察者としての意識のことをアートマンと言います。

その場合は、アートマンとブラフマンは違うものです。

一方、観照者としての意識のことを
アートマンと言う人もいます。

その場合は、アートマンとブラフマンは同じものです。
梵我一如ですね。

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