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真我実現と宇宙人とスピリチュアル【Q&A】

今回は、SDさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

SDさん、ありがとうございます。

※今回は7500文字ほどの長文です。

SDさんからの質問

初めてメールさせていただきます。

「悟り」について、かなり視点を下げて説明をしていただいているようで、私のレベルでも(説明はできませんが)何か理解が出来てきているような気がしています。
ありがとうございます。

早速で申し訳ありませんが、質問をさせていただきます。

「真我実現」のお話の中で、若い女性と老婆の隠し絵の例が出されていましたが、以前あるスピリチュアル系の講演会で「3Dアートを見るときの視点が変わるのと同じような感覚です」「この世界はトリックです」と話されていた講演者を思い出しました。

(関連記事:一瞥体験の延長線上に真我実現があるのか?【悟りの方向性が違う】

例えは異なっていますが、おそらく、この方も「真我実現」を体験されている方だと思います。
ただ、この方は同時に宇宙人の話や転生やカルマの話、超古代史、アセンション、パラレルワールド等についてもお話をされます。
「真我実現」とまるで同レベルの話題であるかのようにお話をされるのです。

このブログを読ませていただいて私が現時点で理解している範囲では、「意識のみが現実」ということであれば、宇宙人等の話はスクリーン上に映し出された物語に過ぎない、ということになるのではないかということです。

私としては、(それぞれとても興味深い話なので)何か意味があるのでは、という淡い期待もあるのですが。

しかしやはり、お答えとしては、おそらく、「よく出来た物語・幻想に過ぎない」ということになるのでしょうか。

レベルの低い質問になっているとは思いますが、ご教示いただければ幸いです。

回答

SDさん
こんにちは。

ご質問ありがとうございます。

真理の探求において最たる錯覚は記憶なんです。

多くの人は、記憶をまるで現実であるかのように錯覚することが多いと思います。
でも、実際のところは、記憶は単なる記憶ですよね。

例えば、ハワイに旅行に行った記憶があるなら、「ハワイは実在する(行ったことがあるから)」って思うんじゃないかと思います。
でも、その根拠はその記憶だけなのであって、正確に言うなら、「ハワイに旅行に行った記憶がここにある」と言えるだけなんです。

隠し絵と同じです。
記憶が現実に見えているけれども、実際にそれは記憶なんです。

とはいえ、感情的には「いやいや、実際にハワイは実在するでしょ!」って思う人が多いんじゃないかと思います。
理屈的には錯覚を理解できたとしても、感情的にそれに納得できないんです。

真我実現というのは、その感情的な反発が消失してしまうようなものなんです。
なので、真我実現した人が記憶を現実と錯覚することは無いんです(日常生活の中では錯覚を現実とみなして生きるんですが)。

> ただ、この方は同時に宇宙人の話や転生やカルマの話、超古代史、アセンション、パラレルワールド等についてもお話をされます。

こういった話は記憶の中の概念なのであって、それが現実かどうかはまた別問題です。
むしろ、どうやってそれを現実と認識しているのかが気になるところです。

もちろん、「こうなんじゃないかな?」という仮説を話すことはできると思いますが、それを重要視する必要はないのではないかと思います。

ちなみに、僕も宇宙人はいるんじゃないかと思っています。
確率の問題で、むしろ、宇宙人は存在しないと決めつけることの方が難しいです。
でも、そういったことはNASAに任せればいいのではないかとも思っています。

もしかすると、スピリチュアルで言う宇宙人というのはチャネリングの対象として登場するのかもしれません。
もちろん、ご本人にはリアルに宇宙人と対話しているかのように感じるのかもしれません。
でも、それは個人的な体験(記憶)なのであり、それが現実なのかということは確認しようがないのではないかと思います。

転生やカルマといった概念は、錯覚の最たるものだったりもします。
そうイメージすることはできるのですが、実際に、今ここで魂の存在を確認してみようとするとそれは見つからないと思います。
魂についてはこちらの記事が参考になるかもしれません。

(関連記事:魂は存在しないと言い切れるのか?【魂=感情+永続性?】

超古代史にしても、どうやってそれを知ることができるのかという問題があります。
2500年前のブッダの言葉でさえその真贋があやふやなのに、超古代史の真贋をどうやって判断するんでしょうか?

アセンションについてはあまり良く分かりません。

パラレルワールドについても、頭の中でそうイメージすることができるだけです。
例えば、タイムパラドックスは、頭の中では成り立ってしまいます。
「もし、おじいちゃんが戦争で死んでいたなら、自分は生まれなかったことになるよな〜」と自分が存在しないパラレルワールドを想像することはできます。

それは単なる想像です。
でも、記憶を現実と錯覚するクセがついていると、「パラレルワールドは実在する(なぜならイメージできるから)」と錯覚してしまいます。

「強くイメージすればそれは現実になる」と言われることがあるかもしれません。
確かに、そういうこともあると思います。
でも、あまりにも強くそう思うことは、記憶を現実だと錯覚することをさらに強めることになるかもしれません。

例えば、Apple創業者のスティーブ・ジョブズは、その錯覚がものすごく強かったようです。
自分のイメージをすでに実現された現実であるかのように語るため、それを聞く人はそれを現実と錯覚することが多かったようです。
人はこのジョブズの能力?を「現実歪曲空間」と呼んだそうです。

スピリチュアルを語る人の中には、この「現実歪曲空間」を持っている人も少なくないのかもしれません。

言ってみれば、真我実現とスピリチュアルは真反対の方向性なんです。
真我実現は錯覚に気づいていく方向性ですが、スピリチュアルはむしろ錯覚を強くしていく方向性なのではないかと思います。

とはいえ、どちらが良いというものでもありません。
もし、錯覚を楽しむことができるのなら、スピリチュアルな世界を楽しんでみるのも良いかもしれません。

ただ、錯覚をもう楽しめないと言う人も少なくはないと思います。
そういった人のために、このブログではその違いを明確にしておきたいなとは思っています。

SDさんからの返答

詳細なご返信をいただき、ありがとうございました。

「真我実現とスピリチュアルは真反対の方向性」とのご説明で、曖昧模糊としていた疑問がすっきり解消いたしました。

再度の質問で恐縮いたしますが、「記憶と現実」ということについてご教示いただけますか。

ご説明の中で、「ハワイが実在していると思うのは記憶に過ぎない」とのことですが、確かに記憶であることは間違いありません。

しかし、それ以上に「ハワイは無いかもしれない!」と考えることはやはり現状では全くできません。改めて考えると恐るべき固定観念だと思います。

「真我実現というのは、その(現実に見えるけれども記憶に過ぎないということについての)感情的な反発が消失してしまうようなもの」とのことですが、この感情的な反発を消し去る具体的な方法というものはあるのでしょうか。

「感情的な」という表現は、自然に湧き上がる、という意味で「努力しても変えられない」、結局「恩寵」でしかあり得ないということでしょうか。

もう一つ、「真我実現した人が記憶を現実と錯覚することは無い(日常生活の中では錯覚を現実とみなして生きる)」ということについて、山家さんが日常生活をどのような感覚で過ごしていらっしゃるのか、是非教えていただければ思います。

例えば、窓の外の風景を見ているとき、窓枠で隠された死角の部分は不確定の量子の雲がただ渦巻いているだけだと感じているのか、部屋から出ていかれた奥様は、見えなくなった途端に消えてしまっていると感じているのか、などの感覚です。

真我実現を体験していなければ、説明していただいても分からない感覚であるような気もしていますが、真我実現への何らかのヒントがいただければと思っています。

よろしくお願いいたします。

因みに、スピリチュアル系の講演をされていた方は、受講者からの質問があると、必要があれば、その場でアカシックレコード(私の理解を超えるところですが、意識の中のデータベース?)にアクセスして回答をされているようでした。これが現実の認識と言えるのか、単なる記憶に過ぎないのか、という問題になるのですね。

回答

SDさん
こんにちは。

> しかし、それ以上に「ハワイは無いかもしれない!」と考えることはやはり現状では全くできません。改めて考えると恐るべき固定観念だと思います。

そうなんです。
恐るべき固定観念なんですが、世界中のほぼすべての人が「記憶≒現実」の固定観念を信じていると思います。
むしろ、そうじゃないと生活が成り立ちませんよね。

> 「真我実現というのは、その(現実に見えるけれども記憶に過ぎないということについての)感情的な反発が消失してしまうようなもの」とのことですが、この感情的な反発を消し去る具体的な方法というものはあるのでしょうか。
> 「感情的な」という表現は、自然に湧き上がる、という意味で「努力しても変えられない」、結局「恩寵」でしかあり得ないということでしょうか。

具体的な方法は、地味なのですが僕は「苦しみと退屈を避けないこと」と言っています。
ここらへんの記事が参考になるかもしれません。

(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと

(関連記事:真我探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する

感情は自然と湧き上がるのですが、それと同じように自然と消えていきますよね。
楽しいという感情だってずっとは続きません。
なぜだか楽しいことに飽きてしまうという現象が起きるんじゃないかと思います。

苦しみも退屈も同じなんです。
あらゆる感情が一時的な性質しかもっていません。

なので、感情という実体はあるわけではないんです。
ただ、感情を生み出している実体はあるかもしれません。

感情を変えようとする努力は失敗に終わることがほとんどだと思います。
なので努力しても変えられないというのはその通りなのですが、感情(退屈含む)が消えるまで観察するという努力はできるかもしれません。

その努力ができるかどうかも「恩寵」にかかっていると言われればその通りではありますが。

> もう一つ、「真我実現した人が記憶を現実と錯覚することは無い(日常生活の中では錯覚を現実とみなして生きる)」ということについて、山家さんが日常生活をどのような感覚で過ごしていらっしゃるのか、是非教えていただければ思います。

例えば、「コロナ禍が終わったらハワイに行こうよ」と言われたとして、「いや、ハワイは単なる記憶だよ?」とはさすがに僕も言いません。
真理についての話をするときにはそう言うんですが、日常生活の中では僕も記憶を現実とみなしています。

実のところ感覚は変わりません。
SDさんが感じる感覚と、僕が感じる感覚はほとんど違わないと思います。

> 例えば、窓の外の風景を見ているとき、窓枠で隠された死角の部分は不確定の量子の雲がただ渦巻いているだけだと感じているのか、部屋から出ていかれた奥様は、見えなくなった途端に消えてしまっていると感じているのか、などの感覚です。

ただ、認識が違うんです。
窓の外の風景を見ているときには、その風景に気づいているだけです。
仮に、「窓枠で隠された死角の部分は不確定の量子の雲がただ渦巻いているだけなのか?」という疑問が起こったなら、その疑問に気づくだけです。

不確定の量子の雲という表現は、量子力学の知識の記憶があるからこそ起こるものですよね?
なので、そう思うこと自体が、記憶の中のイメージを現実に当てはめようとすることなんです。
それは単なるイメージなのであって、死角の部分がどうしても気になるのであれば、死角を目視できるところまで移動すると思います。
イメージの中身はいくら考えてもイメージでしかないんです。

部屋から妻が出ていったとしても、見えなくなったとたんに妻が消えた感覚を感じるわけでもありません。
ただ目の前の風景に気がついているだけです。

認識の他に、何かが違うのだとすれば、感情を求めていないということが違うかもしれません。
多くの人は世界に対して心地よい感情を求めていると思いますが、僕は感情が無い状態を好みます。
なので、目の前の世界に対して、心地よい感情を引き起こすことを期待していないんです(もちろん、喜怒哀楽の感情は起きますが)。

だからといって退屈しているわけではなく、感情からも退屈からも解放された感覚に浸っているんです。
逆説的にいえば、この解放された状態にとどまるからこそ、記憶と現実の錯覚が段々と薄れていくとも言えるかもしれません。

> 因みに、スピリチュアル系の講演をされていた方は、受講者からの質問があると、必要があれば、その場でアカシックレコード(私の理解を超えるところですが、意識の中のデータベース?)にアクセスして回答をされているようでした。これが現実の認識と言えるのか、単なる記憶に過ぎないのか、という問題になるのですね。

僕も、すべての人が唯一ひとつの実体に繋がっているとは思っています。
なので、アカシックレコードみたいなものにアクセスできるという人もいるかもしれません。

ただ、僕は正答率100%の人に出会ったことはありません。
確かに、「なんでそんなことが分かるのか?」と思えることもあるんですが、見当違いなことを言っていることもあれば、明らかに嘘だよねってこともあります。

なのでそういった話は天気予報ぐらいに受け取っておくのがいいのかもしれません。

SDさんからの返答

お休みの日にまでメールをお送りしてしまって申し訳ありませんでした。

さらに返信までいただき恐縮いたします。

引用された記事を読ませていただくと、なんと質問の答えが詳細に書かれていました。

しかも、山家さんのブログのメインテーマだったのですね。

お恥ずかしい限りです。

メールを差し上げる前に、すべての記事を読ませていただいてはいたのですが、『「苦しみ」と「退屈」を避けないこと』の内容は頭の中からすっかり抜け落ちていました。

大急ぎで読んだということもありますが、「苦しみ」と「退屈」を避けない、という選択は、私の今までの人生でおそらく一度もなかったので、落とし込めないままスルーしてしまったのだと思います。

山家さんは「窓の外の風景を見ているときには、その風景に気づいているだけ」とのことですが、この「気づいているだけ」とは、脳に入ってきた視覚の情報を無条件で受け入れる、評価しない、思考しない、あるがまま、つまり、エゴの働きを止めている、あるいはすでにエゴがない状態で、純粋な情報だけを受け止めている、ということでしょうか。

『「苦しみ」と「退屈」を避けない』、の「避けない」の意味も「苦しみ」や「退屈」の感情を無条件で受け入れ、思考せず、抵抗せずただ味わう、ということであれば、同じくエゴが排除された状態を作るということですね。

何分、想像だけでお尋ねせざるを得ませんので、ピント外れな表現もあるとは思いますが、ご容赦ください。

これまで、拙い質問の趣旨を正確にお汲み取りいただき、また、ご多用中にもかかわらず詳細なご説明をしていただき、ありがとうございました。

お尋ねしたいことは他にもあるのですが、すでに記事として書いていただいているのかもしれません。もう一度最初から腰を据えて読ませていただこうと思っています。

回答

SDさん
こんにちは。

お返事遅れてしまいました。

> メールを差し上げる前に、すべての記事を読ませていただいてはいたのですが、『「苦しみ」と「退屈」を避けないこと』の内容は頭の中からすっかり抜け落ちていました。

いえいえ、このブログは結構な文字数になっているのでどうしても見落としてしまうと思います。

> 山家さんは「窓の外の風景を見ているときには、その風景に気づいているだけ」とのことですが、この「気づいているだけ」とは、脳に入ってきた視覚の情報を無条件で受け入れる、評価しない、思考しない、あるがまま、つまり、エゴの働きを止めている、あるいはすでにエゴがない状態で、純粋な情報だけを受け止めている、ということでしょうか。

エゴには2種類あると思っています。
意志としてのエゴと、勝手に湧き上がる思考やイメージとしてのエゴの2つです。

「気づいているだけ」というのは意志として黙っていながらも、思考やイメージも起こっていない状態でしょうか。
目を開けているけれど瞑想状態とも言えるかもしれません。

とはいえ、その状態をキープしなければいけないとは思っていないんです。
勝手に思考やイメージは起こりますし、意志としてのエゴも実のところは勝手に起こっています。

ただ、自由意志の感覚が強い場合には、「思考が無い状態を保たなければ!」とか考えがちです。
意志というのは、自分自身が気がつく主体だと思っていることが多いと思います。
でも、実のところは、意志だって、気がつく主体に気がつかれている対象なんです(なかなかそうは思えないのですが)。

なので、「気づいているだけ」というのは、意志は単なる思考でしかないということに気づいている状態と言ってもいいかもしれません。

> 『「苦しみ」と「退屈」を避けない』、の「避けない」の意味も「苦しみ」や「退屈」の感情を無条件で受け入れ、思考せず、抵抗せずただ味わう、ということであれば、同じくエゴが排除された状態を作るということですね。

そうです、そうです。
ただ、苦しみを避けないことと、退屈を避けないことには少し違いもあります。

苦しみを避けないということは、意志としてのエゴが、苦しみを避けようとするエゴを抑えようとすることなんです。
なので、苦しみが消えた(飽きた)としても、意志としてのエゴは残ります。

というよりも、意志はむしろ強くなったりもします。

なので、退屈も避けないことが重要になってきたりするんです。
退屈を避けようとするのは、他でもない意志としてのエゴだからです。

退屈の感覚が消えているときには意志というエゴは消えてしまっているんです。
ただ、意志としてのエゴは自分が消えることに対して徹底的に抵抗しようとするのでなかなか理解が難しかったりもするんです。

とはいえ、「じゃあ1日中退屈していよう!」とか意志で決めてしまうとそれは自分自身への束縛になってしまったりもします。
なので、退屈に飽きるためには、束縛に感じない程度に瞑想を習慣化してしまうのがいいのではないかと思っています。

また何かあればお気軽にご連絡ください。
それではまた。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

プロフィールはこちらです。

このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

なにかご質問があれば、お気軽にお問い合わせください。