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真我探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する

真理の探求って、一体いつまで続くんでしょうか?なかなか、終わりというものが見えません。「生きているうちに、探求の終わりは来るのかしら?」って不安に思う人も少なくないと思います。それは運命によります。

ただ、探求を早く終わらせる方法というか、ルートというものはあると思います。それは、まず、ハートを理解するというルートです。もし、あなたがこのルートを選択できるのであれば、真理の探求は早く終わるかもしれません。

ただ、このルートを選択するかどうかは、あなた自身ではコントロールできないというのが、真理の探求のパラドックスです。お話します。

※今回はかなりの長文です。

なぜ、ハートの理解が必要なのか?

今回のお話は、前回の「そもそも、自我ってどういうものなのか?」という記事の内容が前提になっています。もし、まだ読んでいないという人は、まず、そちらから読んでみてください。

前回、自我というのは特定の「思考」や「認識」ではないというお話をしました。あなた自身が、自我によって作り出された仮想意識みたいなものであり、あなたが思考したり認識したりするものは、すべて自我によってコントロールされているというものです。そして、感情すらも。

自我というスパイを抱えたまま、探求を続けたい?

なので、あなたが真理の探求をおこなう場合、パラドックスが起こります。真理の探求をおこないながらも、自我は、あなたを真理に近づけようとはしないということが起こるんです。

これはとても巧妙です。例えば、ラマナ・マハルシの本を読んで、真理についての情報を得たとします。そして、あなたはこう問い始めます。

「私とは誰か?」

(関連記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】

その結果、「私は、自分の思考に気がつくことができる、この観察者であり、気がついている意識である」という気づきを得るかもしれません。でも、これは自我によって作り出された認識です。あなたは、この認識から逃れることはできません。

言ってみれば、あなたは、スパイを抱えながら真理の探求を続けることになります。自我は、この世界が実在していて欲しいと思っています。自分自身が作り上げた、この世界というイメージを愛しています。そして、その世界の中で、特別な個人として存在していたいんです。でも、真理というのは、この世界は実在しているものではなく、あなたは個人ではないというものです。自我は全力を上げて、あなたを真理には近づけないでしょう。巧妙に、勘違いさせる認識を作り出し続けます。

もし、そうなのであれば、「悟り」という現象は、基本的には起こり得ないもののようにも思えます。世界中のすべての人が、3歳になって物心がついた頃には「世界は実在しているし、私は個人だ」と必ず勘違いすることを考えると、自我の力というのはものすごく強力です。世界そのものを作り出す力を持っています。

もし、「悟り」が起こるのであれば、それは自我がミスをしたときです。あなたを、真理に近づけてしまったときです。自我がミスをするとき、それは「神の恩寵」と呼ばれるかもしれません。もし、あなたがハートを理解するのであれば、それは神の恩寵が起こったということです。

あなたがハートを理解するならば、自我は少しづつ変化します。自我は、この世界の中で、特別な個人でありたいと思ってます。それは心地が良いことだからです。でも、ハートが理解されてしまうと、その図式が成り立ちにくくなってきます。なぜなら、何の理由もなく、心地よい状態が起こるということが理解されてしまうからです。「心地よい状態であるのに、世界はどうやら関係ないらしい」ということが理解されはじめてしまうんです。これは、自我にとっては致命傷になりえます。そして、同時に、自我にとってこれ以上ないぐらいの救いでもあるんです。

苦しみと退屈を、避けようとしないこと。

ハートを理解するための方法。それは、「思考」と「認識」は避けて、「苦しみ」と「退屈」は避けないということです。多くの人は、この逆をやっているんじゃないでしょうか?多くの人が、苦しみを無いことにできる何かを探していることに、僕は気がついています。そんな何かがあればいいなとは僕も思うのですが、そんな方法はありません。

苦しみの原因は明白です。苦しみというのは、理想と現実のギャップです。目の前の現実が、自分の理想と違うときに、あなたは「これは私が思っているような世界ではない!ディスイズマイワールド!」とハートの表面で叫ぶんです。

むしろ、苦しみを無いことにできる何かを探すという事自体が、苦しみを増やすことになります。あなたは、苦しみを、希望という名のオブラートに包んで、未来に希望を持つかもしれません。最初のうちはいいかもしれません。意識というものは不思議なもので、それがイメージであったとしても、現実のように錯覚させる力を持っています。心地よい気分になるかもしれません。でも、その後、どうなっていくでしょうか?多くの場合、現実は変わりません。あなたは、イメージの中の世界が、どうやら現実になることはなさそうだということを悟ります。そして、理想と現実のギャップに苦しむことになります。希望という名のオブラートで包まれた苦しみは、高揚感というエネルギーを得ることによって成長して、さらに大きな苦しみとなって、あなたの意識の中に現れます。これが、多くの人がやっていることです。もちろん、僕もそれをやってきました。

そして、重要なことは、例え、理想通りの現実になったとしても、それは長くは続かないということです。それは一時的なものです。誰しもが、1度や2度は、自分の思い通りの出来事が起きて、満足した経験があると思います。でも、その満足は今も持続しているでしょうか?それは、過去の記憶になってしまっているんじゃないでしょうか?

あなたは、理想が現実になることによって、永遠に満足し続けることはできるでしょうか?おそらく、難しいでしょう。その満足もつかの間のものになるでしょう。人は、欲しいものを手に入れた瞬間には、次に欲しいものを探し始めています。ほとんどの人が思い当たる節があると思います。そして、永遠に思い通りの人生を生き続けられる人はまずいません。最終的には、死がやってきます。世界の中で思い通りに生きたいと思う人が、世界を失うことになる出来事である死を受け入れるのは難しいんじゃないでしょうか。よく、「あ〜、いい人生だった!」と思って死にたいと言われることがあります。でも、果たしてそうなるでしょうか?実際のところは「あ〜、いい人生だった!まだ死にたくない!」となるんじゃないでしょうか?人生のパターンを観察していくと、その可能性は高いように思えます。

そう考えると、人は苦しみから逃れることはできないんじゃないでしょうか?現実を、自分の理想通りにし続けていくことは不可能です。

苦しみには、飽きることができます。

ここで、大事なことを言います。実は、苦しみには飽きることができます。飽きるという現象は、楽しさにしか適用されないと思っていませんか?そんなことはありません。苦しみにも飽きるという現象が起こります。ただ、それを確認したことがあるという人が極めて少ないだけです。苦しみには、大きく3つのパターンがあります。

1つめは、過去の記憶が原因になる苦しみです。「なんであの時にあんなことをしてしまったんだろう。。」「なんで、あの人はあんなことをしたのか!」「あんな出来事は起こるべきじゃなかった!」などと、過去の記憶を思い出すことによって苦しみが起こることがあります。これは、原因が明確な苦しみです。

2つめは、現在や未来に対する理想が原因となる苦しみです。あなたが抱えている認識が原因となる苦しみですね。これは、苦しみの原因がわからないことがよくあります。「なんとなく、重っ苦しい感情を感じるなあ。。でも、なんでだろう?」というような苦しみです。それは、環境の変化によって、その苦しみが表面化することもあります。例えば、老化なんていうのも、その1つかもしれません。「いつまでも若々しくあるべきだ」という認識を抱えながら、老化という現実に直面するとき、苦しむ可能性があります。でも、その理由をハッキリと自覚していないということは結構あります。なぜ、老化してはいけないんでしょうか?

もうひとつ、例を挙げます。僕の例です。僕は、「自分は長生きするだろう」という認識を抱えていることに、長いこと気がつきませんでした。こういった認識は、将来への不安などを引き起こすことがあります。「激動の時代だし、長生きするのも大変だなあ。大丈夫かなあ?戦争とか起こらないといいけど。。」などといった将来への不安、苦しみが起こります。でも、実際のところ、自分がいつ死ぬのかなんて分かりません。そして、それを問題視するのは自分だけなんです。「自分は長生きするだろう」という認識が苦しみを引き起こしているんです。なぜ、長生きしなきゃいけないんでしょうか?こういった認識には、なかなか気がつかないことがあります。

3つめは、原因のない苦しみです。これは、1つしかありません。退屈です。退屈というのは、この世界の中でも特殊な現象です。唯一、その原因がわからない苦しみだからです。あえていうならば、世界と関わることができないことが、苦しみの原因になります。それが退屈です。

過去の記憶からやってくる苦しみには、2週間以内には飽きる?

過去の記憶からくる苦しみというのは、わりとすぐに飽きることができます。僕の経験から言うと、長くても2週間以内には飽きると思います。

ただし、その間は本当に苦しむことになります。泣かされるかもしれません。ボコボコにされるかもしれません。まるで死ぬような思いをするかもしれません。でも、苦しみを避けずに、むしろ、苦しみの首根っこを掴んで対面し続けることができるのであれば、いずれ、その苦しみに飽きるという現象が起こります。これはとても不思議な現象です。楽しさに飽きるということは誰しもが経験していると思いますが、苦しみにも飽きるという現象が起きるということは、ビックリするような経験になります。

そして、自我はあなたがそれを経験することを恐れています。あなたが、意識の中で、自分が苦しみに飽きているということに気がついてしまうことを恐れています。というのも、自我にとっては、苦しみというのは、あなたを真理に近づけないための手段のひとつだからです。自我は、あなたが苦しみを避けるということを知っています。そして、どんな記憶に反応するのかということも知っているんです。自我は、そういった記憶を、自分の手札として揃えています。あなたを真理に近づけたくない時、自我はその記憶という名の手札を、あなたの脳裏に放り投げます。過去の嫌な記憶というのは、突如として思い出されることがあります。それは、自我の仕事です。そうすると、苦しみを避けるために、あなたが気を紛らわそうとすることを、自我は知っているんです。

でも、苦しみには飽きることができるということにあなたが気がついてしまった場合、自我はこの戦略を使えなくなります。自我はものすごい力を持っています。でも、それは、あなたが自我によって作り出される認識や感情に反応するからです。もし、あなたが、自我が作り出す認識や感情に反応しなくなるのなら、自我は力を失い始めます。

現在や未来への理想からやってくる苦しみは、飽きるのに時間がかかります。

現在や未来に対する理想からやってくる苦しみについては、飽きるのに長い時間がかかる可能性があります。というのも、特定のシチュエーションに対する苦しみではないからです。それは、いろんな認識が重層的に関わっている可能性があります。ハッキリと、その原因に気がつくことは難しいです。まあ、大抵の場合には、人間が持つ根源的な恐れが関わっていることが多いと思います。死への恐れ、孤独への恐れ、退屈への恐れ、生存本能、などなどです。「なぜ、私は死ななければいけないのか!」「なぜ、私は孤独を感じなければいけないのか!」「なぜ、私は何かから分離されたような感覚を味わわなければいけないのか!」と言ったものです。

多くの場合、その根源的な恐れは、表面的な認識に覆い隠されることになります。「私は健康的な生活を送らなければならない」「私は、人々の役に立つことをするべきだ」「私は、人に優しくしなければならない」「私はもっと瞑想しなければならない」「厭世的な生活を送ることは、真実から逃げることだから私はしない」「真理を知るために、私は霊性を高めなければならない」などと言ったものです。こういった認識が、本当に重層的に重なっていて、なんとも言えない、重っ苦しい苦しみとなって、あなたの意識の中に現れます。

この時、多くの人は、この苦しみにフタをするか、希望という名のオブラートで包みます。でも、それは根本的な解決方法にはなりません。一時的なものです。じゃあ、どうすればいいのかというと、苦しみに耐えるしかありません。「嫌だ〜!」という声が聞こえてきそうです。。「苦しいのはなぜ?」とか問う必要はありません。もし、答えがでてくるのなら、それは自然と意識の中に現れます。ただ、その重っ苦しい苦しみを感じ続けるだけでいいんです。それは、場合によっては何年もかかります。でも、それを感じ続けるだけでいいんです。だって、人は楽しいときには、「なぜ、私は楽しいんだろう?」とか考えませんよね?楽しさがやってくるのであれば、ただ、人は楽しみます。そして、いつしか、その楽しみをもたらしてくれるものに飽きることになります。苦しみの場合も同じです。苦しさがやってきているのであれば、ただ、苦しむだけでいいんです。そして、もっと言うのであれば、その苦しみとの一体化が起こるのであれば、一体化を避けないでください。人は、楽しむ時、その楽しみと一体化しているんじゃないでしょうか?それは自然なことです。

例えば、ニサルガダッタ・マハラジは、バジャンを習慣にしていました。バジャンというのは神に捧げる歌や踊りのことです。(僕はやったことありませんが)マハラジは、バジャンを観照するんでしょうか?もちろん、観照もするでしょうが、バジャンと一体化もしていたんじゃないでしょうか?「私は観照者でなければならない」「私は観察者でなければならない」という認識も、苦しみの原因になりえます。

ラマナ・マハルシは、「体は障害である」と言いました。決して「私は体ではない」とは言いませんでした。いや、言ったかもしれません。でも、それは言葉のあやであり、ただ、体に限定されないというだけです。あなたは、体でもあり、自我でもあり、意識でもあり、ハートでもあるんです。この世界が現れている限りは。なので、体との一体化が起こることは、決して、悪いことではないんです。むしろ、一体化をしないでおこうと思っている人は誰なんでしょうか?苦しみのエネルギーを保持してしまっているのは、その人なんじゃないでしょうか?

もし、あなたが苦しみを避けずに味わい続けるならば、いつしか、その苦しみに飽きるときがきます。それは、苦い飴玉を舐めるかのようです。もちろん、いつ、あなたが苦しみに飽きるのかは分かりません。そして、あなたが苦しみに飽きることを保証することもできません。飴玉のサイズがどれくらいかは、あなたが、どれだけ現在や未来への理想を抱えているのかによります。どれだけの認識を抱えているのかによります。でも、もし、あなたが苦しみに飽きてしまったのなら、自我はあなたへの影響力を失い始めます。そして、あなたは、真理に近づくことになります。

退屈が退屈でなくなるとき、あなたはハートを理解します。

真理とはハートそのものです。「私は個人ではない」「私は在る」といったものも、もちろん真理です。ただ、それらは真理への入り口です。意識すらハートから現れます。ハートが真理です。そのハートは、「退屈」によって覆われています。あなたは、気がついているでしょうか?退屈とは、自我にとっての最終防衛ラインです。自我は、絶対に、あなたに退屈に近づいてもらいたくはないんです。

人は、苦しみを避けようとします。苦しみを嫌悪します。でも、退屈に対してはどうでしょうか?退屈って、普段、意識するでしょうか?僕は、妻に聞いてみたことがあります。「ねえ、退屈ってする?」と。すると、「う〜ん、、、、しないねえ。」という答えが返ってきました。多くの人は、こんな感じだと思います。日常生活の中で、退屈を意識することがほとんどないんです。退屈について語られることもほとんどありません。

僕は1度、国会図書館で退屈についての本を検索してみたことがあります。でも、そういった本はほとんどありませんでした。唯一、読んでみようと思ったのが、とある日本の哲学者が書いた、退屈についての本です。でも、実際に読んでみると、いかにして退屈を避け続けるかというような内容でした。それほど、退屈というのは人々に避けられているんです。それは、苦しみを避けるのとまた違います。多くの人は、苦しみについて語ります。自分がいかに苦しい思いをしてきているのかを語ります。でも、退屈については語られません。自分がいかにして退屈しているのかを語る人はいないでしょう。

そう考えると、退屈というのは、とても不思議な現象です。そして、この世界の中で、まるで退屈というのはタブー視されているような印象すら受けます。それは、退屈が自我にとっての急所だからです。退屈というのは、自我が持つエネルギーが、行き場を失った状態です。退屈をすると、感情を感じる部分に、あがらいがたいエネルギーの詰まった感を感じないでしょうか?僕が自我を、ハートの表面に存在するフタのようなものと表現するのはそれが理由です。本当に、物理的なフタのようなものに感じられるんです。

自我は、退屈を避けるために、過去の記憶の手札をあなたの脳裏に放り投げます。自我にとっては、退屈するよりも苦しんだほうがいいんです。もしくは、希望という名のオブラートをあなたに差し出すでしょう。でも、あなたが希望にも苦しみにも反応しないなら、自我には打つ手がありません。ただ、退屈という名のエネルギーの放出をもってしか、あなたに抵抗することができなくなります。そして、自我の持つエネルギーには限りがあります。味のしない飴玉みたいなものです。あなたは、退屈を感じることに無意味さを感じるかもしれません。それは、自我にとっての最終防衛策です。でも、もし、あなたが、退屈さ、無意味さの中にとどまるなら、その状態は終わりを迎えます。

その時、あなたはハートの中にいます。それを、神秘的な状態として表現してもいいのかもしれませんが、それは、至って普通の状態です。それは、とても馴染みのある感覚です。決して、これまで味わったことのないような特別な状態ではないんです。至福とは、神秘体験として語られるような、特別なものではありません。それは、飽きることのない喜びです。人は、楽しさにも、苦しみにも、退屈にも飽きますが、至福には飽きることがありません。それは、寝ているときの心地よさが起きているときも継続しているような感覚です。なにものにも縛られていない感覚。それは解放とも平和とも言えます。

至福は、瞑想の中でも感じられるものです。瞑想をして、30分ぐらい経つと、思考がおさまり、胸に心地よい感覚を感じるかもしれません。それは至福です。ただ、それは瞑想をするから起こるわけじゃないんです。

もし、あなたが苦しみも退屈も避けずに受け入れるのであれば、その至福は、日常生活の中にも広がっていきます。もはや、瞑想をする必要もなく、日常生活の中で、瞑想が起こるようになります。

ちなみに、その時、自我はどうなっているんでしょうか?実は、何も変わりません。自我は、ハートを理解したとしても、依然としてその機能を果たし続けます。悟りが起こると自我は死ぬと言われることがありますが、それは言葉のあやです。死んだように見えて、依然としてその機能は継続します。ただ、それは、以前のように特別な個人であることに執着しなくなります。特別な個人でなくとも、至福はここにあるということが理解されてしまうからです。そして、世界すらも、この至福には関係ないらしいということが理解されます。それは、自我にとっての大きなシフトです。それは、自我にとって、これ以上ないぐらいの救いです。

ハートの理解は、悟りの3つの側面のうちの1つです。

僕の真理の探求は、2014年に始まりました。OSHOの「JOY」という本を購入したのがキッカケです。「ラマナ・マハルシ」、「ニサルガダッタ・マハラジ」、「ラメッシ・バルセカール」「プンジャジ」、「トニー・パーソンズ」、「ルパート・スパイラ」、「アジャシャンティ」、といった方々の本を読んできました。そして、今年の2019年のどこかで探求は終わりました。約5年ほどです。おそらく、探求が早く終わった方なのではないかと思います。その理由は、最初にハートを理解したからだと思います。

悟りには3つの側面があります。自我というのは、3つの側面をコントロールすることによって、この人生という名のゲームを成り立たせています。「世界」「個人」「感情」の3つです。

ハートを理解するというのは、この世界における「感情」の謎を悟るということです。ハートを理解することで、あなたは、自我に感情をコントロールされることは少なくなります。もちろん、ハートを理解しても、常に至福を感じられるというわけではないんです。体と心が、世界から影響を受けることは避けられません。例えば、誰かに殴られたりしたら、痛みを感じるし、怒りも湧くかもしれません。それは、至福を覆い隠します。でも、体の痛みも怒りも一時的なものです。それが去ったら、残るのは至福です。ただ、「感情」の謎を理解したとしても、「世界」は実在しているし、自分はその中の「個人」だという認識は残ります。それは、分離感を生み出します。

実は、僕がハートを理解したのは探求が始まる前です。2012年頃です。そして、その頃には自分が何を理解したのかを理解していませんでした。真理についての知識は何も持っていなかったからです。そして、それは運命なのか、分離感に突き動かされるようにして、2014年から探求が始まりました。

今では、「世界」「個人」「感情」の3つの側面の謎を理解するようになりましたが、おそらく、人が1番嫌がるのが「感情」の理解です。だって、それを理解する方法は苦しみと退屈を避けないことだからです。「げ〜!嘘でしょ〜!?」って思う人が大半でしょう。実際のところ、僕だって、自分から進んで苦しみを避けなかったわけじゃないんです。苦しまざるをえなかったというのが実際のところです。そして、苦しむことに飽きるという現象が起こりました。それは、最悪の体験ではありましたが、今となっては神の恩寵です。

僕はこうやって、ハートを理解することについてお話してきましたが、実際に、自分から進んで苦しんだり退屈してみようと思う人は極めて稀なんじゃないかと思っています。もし、そう思えるなら、それは神の恩寵です。

そして、世の中では、悟りといえば、まず、個人性を失うことだという認識が強いということにも、僕は気がついています。確かに、その通りです。私の本質というのは、この体と心ではなく、意識にあります。「私は在る」です。ただ、それだけでは足りないんです。いや、むしろ余分なんです。今まで抱えてきた認識は、苦しみのエネルギーとして残っています。分離感が残るはずです。

僕は、「私は存在しない」という言葉がどうやら流行っているということにも気がついています。「分離感を感じるような私は存在しない」という考え方が受け入れられているようだということにも気がついています。分離感があったとしても、それは、私の分離感ではないと。でも、それでいいんでしょうか?「私は存在しない」ということが分かった瞬間、「私は在る」ということに気がつくはずです。逆説的ですが、「私は存在しない」と「私は在る」は同じ意味です。空の2つの側面です。世界の中で、個人として実在する私は存在しないけれど、世界を映し出すディスプレイ(意識)としての私は在るということです。でも、この世界が現れている限り、あなたは、世界の中の個人でもあります。この世界が現れている限り、二元性は避けられません。この世界の中で、一元的であることに執着するのは滑稽なことです。本当に一元的なのはハートだけです。真我だけです。

本当の一元性は、世界も意識も超えたところにあります。言ってみれば、この人生に終わりがあるということは、究極の救いでもあります。すべての人が、一元性の中に還っていきます。でも、それを救いだと感じられる人は少ないでしょう。それを理解するには、ハートの理解が不可欠です。もし、あなたが「私は存在しない」という言葉に執着して、意識に現れる苦しみにフタをする場合、ハートを理解する機会を逃すかもしれません。

人は、実は個人性を失うことよりも、世界を失うことを恐れています。気がついているでしょうか?例えば、体が死んだとしても、霊的な存在として世界と関わることができるのであれば、それほど死を恐れないかもしれません。でも、体が不死身であっても、そこに世界がなかったらどうでしょうか?あなたはそれを恐れるんじゃないでしょうか?なぜなら、世界と関わることで得られる心地よい感情を求めているからです。

なので、例え、個人性を失う経験をしたとしても、「私は在る」を理解したとしても、世界は実在するという認識はなかなか消えません。世界というイメージは、あなたの世界においてはすべての基盤です。世界は実在するという認識は最後の最後まで残ります。そして、分離感を生み出し続けます。もし、あなたが分離感からやってくる苦しみにフタをするのであれば、探求は長引くことになります。それは、ハートを理解するまで続くことになります。

一方、ハートを最初に理解したのであれば、苦しみには飽きることができるということを知っています。巧妙に、苦しみを避けたりフタをしたりすることはなくなります。そしてその時、自我はスパイではなくて、優秀な助手になっているんです。「私は在る」、「私の中に世界がある」ということも、受け入れるのが早くなります。結果として、探求は早く終るんじゃないでしょうか?とはいえ、それは自分の意志でコントロールできるものではないというのが難しいところです。それは、真理の探求におけるパラドックスです。