ラマナ・マハルシ|生涯・教え・実践方法を詳細解説

空白JPにはラマナ・マハルシに関する記事が数多くあります。そこで、ここではラマナ・マハルシに関する情報を体系的にまとめました。


ラマナ・マハルシ|その生涯と人物像

ラマナ・マハルシ(1879〜1950)は、南インドのアルナーチャラ山で生涯を送った覚者であり、僕にとっても心の師と呼べる存在です。16歳での覚醒体験から、アシュラムでの日々の立ち振る舞い、立場の違う相手との対話まで。ここでは、伝記や数々のエピソードをもとに、ラマナ・マハルシの人物像を見ていきます。

16歳の覚醒体験

ラマナ・マハルシの生涯で最もよく知られているのは、16歳のときに、これといった修練もなく起こった覚醒体験でしょう。突然の死の恐怖に襲われた彼は、身体の死を模倣しながら「死ぬのは何か?」と自らに問いかけ、真我(自己の本質)に目覚めたと語っています。その後まもなく、家を出てアルナーチャラ山へと向かいます。この体験の詳細については、伝記の解説記事で取り上げています。

→個別記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】

アルナーチャラ山での日々と帰依者の出現

アルナーチャラ山にたどり着いたラマナ・マハルシは、飲まず食わずで、ほとんど世界を忘れたような状態で真我に没入し続けたといわれています。日々は穏やか(肉体的には)とは言えず、近所の子どもたちに石を投げられることもあったようですが、やがて帰依者が現れ、居場所を転々としながら過ごしました。そのひとつがマンゴー果樹園で、ここでの滞在をきっかけに古典を読むようになったと伝えられています。こうして帰依者が集まるなかで、のちにラマナアシュラムと呼ばれる場が形づくられていきます。

→個別記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】

私は行為していない

ラマナ・マハルシは、一時期はアシュラムの厨房に自ら立って料理も作っていたようです。それでいて、「行為することを止めなさい」と説き、料理を作るという行為について問われると「私は行為していない」と答えました。また、帰依者たちが暮らすラマナアシュラムで、自分の分だけ多く盛られていると「平等であるべきです」と指摘したと伝えられています。傍から見ると、ラマナ・マハルシは、まるで意志を持って行為し、平等であるべきだというこだわりを持っているかのように見えます。ラマナ・マハルシの、この理解し難い、一見矛盾する立ち振る舞いを、空白JPでは、手のひらに乗る思考と、握りしめようとする意志の関係性で解説しています。

→個別記事:ラマナ・マハルシは意志を持つのか?【意志とハート】

全般的な教えというものはありえない

『あるヨギの自叙伝』で知られるパラマハンサ・ヨガナンダは、ラマナアシュラムを訪れ、ラマナ・マハルシと言葉を交わしています。「なぜ、神はこの世に苦しみをあらしめているのか?」と問うヨガナンダに、ラマナ・マハルシは「誰が苦しむのですか? 苦しみとは何でしょうか?」と問い返しました。対話は最後まで噛み合わないまま終わりますが、そこには、相手の立場や段階によって答え方が変わるラマナ・マハルシの姿勢が表れています。

→個別記事:ラマナ・マハルシとパラマハンサ・ヨガナンダとの対話

→個別記事:ラマナ・マハルシの教えはどう実践するべきか?【段階別3パターン紹介】


教えの核心:私は誰か?(真我探求)

「私は誰か?」は、ラマナ・マハルシの教えを象徴する問いです。ただ、この問いは答えを思考で見つけるためのものではなく、意識を外側から内側へ向けるための、言ってみれば方向を示す言葉です。その答えとして語られるのが、私という存在の根源としての「ハート」です。このハートに向かい、とどまることが「真我探求」であり、瞑想とは区別されます。

『私は誰か?』

『私は誰か?(Who am I?)』という小冊子があります。ラマナ・マハルシと帰依者シヴァプラカーシャム・ピライとの問答をまとめたもので、日本では『あるがままに』の巻末に収録されています。問答当時のラマナ・マハルシは22歳で、まだ沈黙を保っており、質問には砂の上に指で文字を書いて答えたようです。「私は身体でも心でもない」という答えに始まり、心の性質、私という存在の根源としてのハート、世界の実在性まで、初期の教えが凝縮されています。

→個別記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】

心は、警察のフリをした泥棒

ラマナ・マハルシは、心を、「警察のフリをして、泥棒を捕まえようとする泥棒のようなもの」と言います。古典『ラーマーヤナ』の中で、ジャナカ王は、自分を台なしにし続けてきた泥棒(自我)をついに捕まえたと喜び、彼を死刑にしようとしました。けれど、そう言っている王自身も、実は泥棒なんです。心を泥棒だと見抜いたつもりの心もまた、心だからです。この場合、心は一体どのような結末を迎えるんでしょうか? ラマナ・マハルシが沈黙を重んじる理由はここにあります。

→個別記事:サットヴァな心は真我と同じなのです【ラマナ・マハルシの言葉】

ハートを表すもうひとつの表現「私−私」とは何か?

ラマナ・マハルシの本には、「私−私」という言葉が出てきます。「私は在る」(私は存在するという感覚に留まっている状態)とほぼ同じ意味ですが、苦しみや退屈を感じている状態も含む「私は在る」より、さらに具体的な言葉です。意識としての「私」が、ハートとしての「私」に気づいている状態です。ラマナ・マハルシは対話のなかで、これを真我実現の前兆と語り、不変の自然な状態(サハジャ)になったときが真我実現だと述べています。

→個別記事:「私−私」と「私は在る」は違う意味なのか?【ラマナ・マハルシ】

→個別記事:サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとは何か?

世界は幻想なのか、それとも実在なのか?

「すべては意識である」という言葉は、真理についての本でよく見かけますが、ラマナ・マハルシはこの言葉をあまり使いません。「すべては意識である」という言葉は、仏教の「空」の思想を肯定するものでもあり、ハートの実在性を否定するものでもあるからです。つまりは、ハートだって一時的な存在だという結論につながります。そのため、ラマナ・マハルシは、探求者の段階では、意識を内側に向けさせるために、世界は幻想だと言わなければならないと述べています。その上で、「世界は幻想である」「世界は実在である」のどちらも真実だと語ります。

→個別記事:なぜ、ラマナ・マハルシは「すべては意識である」とは言わないのか?


「私は誰か?」の思考実験

バーチャルリアリティの世界の中で、「私は誰か?」と問うとどうなるのかということをシミュレーションしてみた記事です。

→個別記事:バーチャルリアリティの中心で、「私は誰か」をさけぶ


教えの実践方法について

ラマナ・マハルシの教えの実践というと、「私は誰か?」と問うことだと思われがちです。でも、ラマナ・マハルシは、探求者の段階に応じて、伝える言葉を変えていました。

探求者の段階によって、実践方法が変わる

ラマナ・マハルシは、「全般的な教えというものはありえない」と語っています。人によって資質や心の成熟度が違うからです。1、「私は誰か?」と問うこと。2、沈黙にとどまること。3、ハートにとどまること。ラマナ・マハルシが探求者に応じて使い分けていた3つの実践の段階を、こちらの記事で解説しています。

→個別記事:ラマナ・マハルシの教えはどう実践するべきか?【段階別3パターン紹介】

私は誰か?(真我探求とは何か?)

ラマナ・マハルシは、真我探求を勧める一方で、瞑想とは明確に区別しています。瞑想とは、何かひとつの対象に意識を集中させることで、ラマナ・マハルシは「瞑想は自我を保たなければできません」と語っています。それは、ハートにとどまる真我探求とは、向く方向が真逆です。ただ、ラマナ・マハルシは、思考を黙らせる手段としての瞑想までは否定していません。ただ、瞑想は補助輪であって、その延長線上に真我実現があるわけではないと、僕も思っています。

→個別記事:ラマナ・マハルシは瞑想を否定しているのか?肯定しているのか?

→個別記事:ラマナ・マハルシの言葉【瞑想は自我を保たなければできません】

→個別記事:ラマナ・マハルシの名言【眠りのない眠り】

沈黙にとどまりなさい

ラマナ・マハルシは、ハートが何か分からない人に「沈黙にとどまりなさい」と言います。ただ、「沈黙」の受け取り方は人それぞれで、瞑想やマインドフルネスのことだと思われがちです。でも、そうではなく、ラマナ・マハルシの言う沈黙とは、思考やイメージを黙らせることではなく、観察している、他でもない「この私」自身が黙ることです。それは、感情に対してもそうで、感情を黙らせようとするのではなく、感情が現れては消えていくのに気づき続けることです。

→個別記事:沈黙することは、ハートにとどまることに繋がるのか?

心をハートに溶かしなさい

ラマナ・マハルシは、「心をハートに溶かしなさい」と言ったりします。ただ、この言葉は実際に何をすることなのか分かりにくい言葉です。「私−私」と同じようなものですが、ハートとは何かを知らないまま、心をハートに溶かすことはできないでしょう。実は、ハートと退屈とは紙一重なところがあります。何もしない時間は、退屈にも、解放的にも感じられたりしますが、退屈の中に自我が消えると(溶かすと)ハートの解放感が感じられたりします。つまりは、溶かすとは、ハート(退屈)から抜け出そうとする自我の衝動が弱まるまで、そこにとどまることだとも言えます。

→個別記事:ラマナ・マハルシの「心をハートに溶かしなさい」の意味は?【Q&A】

至高の力にすべてを任せなさい

ラマナ・マハルシは、「どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える」と言います。この言葉は、自我が感じている重荷を、神に明け渡しなさいという意味で使われます。でも、明け渡すとはどういうことなんでしょうか? 自我がやっていることさえも任せるということなんでしょうか? そんなことは、自由意志の感覚を感じているうちは不可能なように感じます。実は、これは「私は誰か?」のもう一つの側面です。ハートとは何かが注目されることが多いですが、自由意志を感じている自我とは何か、実際のところは自由意志など実在していないということを理解すること。もし、自由意志など無いのであれば、至高の力にすべてを任せるしかありません。そして、その理解は真我実現が間近であることを示しています。

→個別記事:ラマナ・マハルシの「至高の力にすべてを任せる」とはどういうことか?【Q&A】


悟りの境地:サハジャ(自然な状態)とは?

ラマナ・マハルシの本には、「サハジャ」という言葉がよく出てきます。「自然な」という意味ですが、何が自然なのかは分かりにくく、超越的で神秘的な状態のように想像されがちです。でも、そうではないんです。

サハジャとは何か?

「サハジャ」は、サンスクリット語で「自然な」という意味です。これは超越的な状態でも神秘的な状態でもなく、原因もなく解放感が持続している状態のことです。その状態では、理性と本能の方向性が自然と一致し、際限なく何かを求め続ける傾向が消えていきます。

→個別記事:サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとは何か?【自然な状態】

サマーディの種類について

サハジャとは「サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ」の略で、サマーディには、大きく2つの種類があります。ひとつは、サヴィカルパ・サマーディ。サヴィカルパとは「分別の有る」という意味で、サマーディを感じるのに原因が必要なものです。例えば、瞑想するからサマーディが得られる場合、それはサヴィカルパ・サマーディになります。もうひとつが、ニルヴィカルパ・サマーディ。ニルヴィカルパとは「分別が無い」という意味で、サマーディを感じるのに原因が必要無いものです。自我からすると、原因が無いということは理解し難く、逆説的に言えば、自我が原因を求めていない時に感じられるのが、ニルヴィカルパ・サマーディです。

→個別記事:〝ニルヴィカルパ〟と〝サヴィカルパ〟はどう違うのか?【サマーディ】

「私−私」とサハジャは、どうつながるのか?

ラマナ・マハルシは、「私−私」を真我実現の前兆だと語っています。そして、それが不変のサハジャ(自然な状態)となったとき、真我実現であり、解脱だと述べています。意識としての「私」が、ハートとしての「私」に気づいている状態が、一時的に現れる段階から途切れなく続く段階へ。ニルヴィカルパ・サマーディと自我の逆説的な関係性を、自我自身が理解して、その主導権を放棄している時、ニルヴィカルパ・サマーディは「サハジャ」となります。

→個別記事:「私−私」と「私は在る」は違う意味なのか?【ラマナ・マハルシ】

サハジャの状態でも、喜怒哀楽は起こるのか?

「サハジャの状態になると、感情が起こらなくなる」と思われがちです。でも、そうではないんです。ハートの解放的な自然な状態は継続的なものですが、その上に、重層的に、喜怒哀楽の感情は一時的には起こります。ただ、怒ることも悲しむこともあるけれど、感情に執着しないので、時が経てば自然な状態へ戻ります。例えば、ラマナ・マハルシが嘆き悲しむ探求者を前に、目をうるませたり、母親が亡くなったときに泣いたといわれていたりするエピソードもあります。

→個別記事:ラマナ・マハルシの「至高の力にすべてを任せる」とはどういうことか?【Q&A】


他の覚者・教えとの違い

ラマナ・マハルシの教えは、ほかの覚者や教えと並べて読むと、その特徴がはっきりします。

ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジは、どう違うのか?

ニサルガダッタ・マハラジは、ラマナ・マハルシの弟子だと思われがちですが、実際は違うようです。両者が対面したのは一度きりで、ニサルガダッタ・マハラジが師事したのは、シッダラメシュワル・マハラジという人でした。「私は誰か?」のラマナ・マハルシは智慧の道、「私は在る」のニサルガダッタ・マハラジは帰依の道と、通ってきた道は真逆です。それでも、「私は在る=ハート」という確信に至る過程は同じです。

→個別記事:ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジの違いについて

仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは、同じなのか?

「仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じなのか?」と聞かれたら、僕は、同じとも言えるし、違うとも言えると答えます。そもそも「仏教の悟り」の定義が、あいまいだからです。最古の仏典『スッタニパータ』に出てくるゴータマ・ブッダの「ニルヴァーナ」は、ラマナ・マハルシの言う「ハート」と同じだと僕は認識しています。一方、龍樹の「空」の思想は、ハートも空と見るので、ラマナ・マハルシの悟りとは別のものです。また、法華経の考え方になると、まったくの別物となります。

→個別記事:仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じなのか?

サーンキヤ哲学とアドヴァイタは、どう違うのか?

サーンキヤ哲学とアドヴァイタの違いは、アートマン(個人の主体)とブラフマン(宇宙の主体)の関係性に現れます。両方とも実在すると考えるのがサーンキヤ哲学で、ブラフマンは実在せずアートマンだけが実在するというのがアドヴァイタ(ラマナ・マハルシの教え)です。根源的には、サーンキヤ哲学とアドヴァイタの違いは、自由意志の有無に現れていると言ってもいいかもしれません。そのため、サーンキヤ哲学ではアートマンとしてブラフマンと合一するということが目的となっており(自由意志の肯定)、それを実現した人は歴史上現れてはいません。ラマナ・マハルシとヨガナンダの対話が噛み合わなかったのも、サーンキヤとアドヴァイタという立場の違いから見ると、納得できます。

→個別記事:アートマンとブラフマンを巡る4つの思想パターン feat.ブッダ

→個別記事:ラマナ・マハルシとパラマハンサ・ヨガナンダとの対話

空白JPの教えは、ラマナ・マハルシの教えと同じなのか?

僕にとっての心の師はラマナ・マハルシです。ただ、空白JPで話していることは、ラマナ・マハルシの教えとは結構違っていて、どちらかというと、ゴータマ・ブッダの教えに近いと思っています。苦しみをテーマにした四諦や八正道は、僕が言う「苦しみと退屈を避けないこと」や〝瞑想的な日常生活〟という考え方とも重なります。ただ、真我(ハート)のみが実在するという結論はラマナ・マハルシと同じです。

→個別記事:ラマナ・マハルシとゴータマ・ブッダ


ラマナ・マハルシの言葉(名言)

ラマナ・マハルシの言葉は、どう受け取るかで意味が大きく変わります。ここでは、空白JPで取り上げてきた代表的な言葉を、僕の解釈とあわせて一覧にしました。気になる言葉があれば、記事を読んでみてください。

私は身体でも心でもない

「私は誰か?」という探求の出発点。身体や感覚器官、心を「これではない」と否定していき(それはとても難しいことでもありますが)、最後に残る覚醒が「私」だと語られています。

→個別記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】

ハートが唯一の実在です

「私は誰か?」の答えとして語られるのがハートです。ブッダの言う「ニルヴァーナ」と同じであり、その他にも、真我、存在などがそれにあたります。世界が存在する原因となりうる究極のものです。

→個別記事:仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じなのか?

瞑想は自我を保たなければできません

対象に集中する瞑想は、観察する人である自我が残ります。一方、ハートにとどまる真我探求では、自我が存在し続ける(主導権を持ち続ける)ことはできません。ハートにとどまることと、自我が存在することはトレードオフの関係であり、向く方向が真逆です。

→個別記事:ラマナ・マハルシの言葉【瞑想は自我を保たなければできません】

眠りのない眠り

熟睡中に意識を保つことを目指すものではなく(そんなことは不可能)、日常生活の中で、自我だけが眠っている状態のことです。そんなことはあり得ないと思うかもしれませんが、映画を観ている間とか、それは自覚なしに頻繁に起きていることです。

→個別記事:ラマナ・マハルシの名言【眠りのない眠り】


よくある疑問

ラマナ・マハルシについて、ここまで触れきれなかったよくある疑問に、短くお答えします。

ラマナ・マハルシの教えは、ヒンドゥー教徒でなければ実践できないのか?

そんなことはありません。ラマナ・マハルシのもとには、ヒンドゥー教徒だけでなく、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、パールシー教徒も訪れましたが、宗教を変えるように求めたことは、一度もなかったそうです。僕は、ラマナ・マハルシは、表面的にはヒンドゥー教に見えても、無宗教なのではないかと思っています。

→個別記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】

→個別記事:仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じなのか?

出家しないと悟れないのか?

出家は必須ではない、というのが僕の考えです。ラマナ・マハルシの16歳での覚醒体験は、家を出る前、叔父の家で起こりました。ブッダも、出家して苦行に励んだものの、その苦行を断念したあとに悟りが起こっています。真我探求を実践するうえで障害になりやすいのは、仕事そのものというよりも、忙しく働くことの高揚感に依存してしまうことです。なので、在家で悟りを目指すなら、ほどほどに働くのがいいのではないかと僕は考えています。

→個別記事:忙しく働きながら、ハートにとどまることはできるのか?

→個別記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】

→個別記事:アートマンとブラフマンを巡る4つの思想パターン feat.ブッダ

特定の師(グル)や組織に属さないと、ラマナの教えは実践できないのか?

特定の師や組織に属さなくても、実践はできると思います。僕には生きた師はいませんが、『ラマナ・マハルシとの対話』という本から、探求に大きな影響を受けました。ラマナ・マハルシの智慧の道は、古典や言葉を手がかりに、知的に「私は誰か?」と問い進めていく道です。一方、ニサルガダッタ・マハラジのような帰依の道は、師の言葉に忠実に従うことで進み、師との対面でのやりとりも重視されるようです。ただ、帰依の道は、方向性を間違えやすいという面もあります。

→個別記事:ラマナ・マハルシとゴータマ・ブッダ

→個別記事:ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジの違いについて

ラマナ・マハルシは、本当に悟っていたのか?

探求の初心者が、それを判断するのは難しい、というのが正直なところです。ただ、僕がラマナ・マハルシに惹かれたのは、真理を悟ったと言われている弟子や孫弟子が何人もいて、再現性の高い教えだと判断したからです。

→個別記事:ラマナ・マハルシとゴータマ・ブッダ

ラマナ・マハルシの帰依者は、みな真我探求を実践していたのか?

意外にも、真我探求を実践した帰依者は、ほんのわずかだったようです。ラマナアシュラムを訪れた人の多くは、アドヴァイタの教義や真我探求よりも、心の平和をもたらし人格を清めるための規律を求めていたようです。ラマナ・マハルシ自身、真我探求は成熟した魂のためのもので、それ以外の人は他の方法を採るべきだと語っています。

→個別記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】

世界が幻想なら、善行や仕事には意味がないのか?

意味がないとは言えません。というよりも、生きるための仕事は、幻想だとしても必要でしょう。善行も、悪行よりは好ましいです。ただ、世界には、どこかの時点で至ることができる、理想の完成形というものが存在しているんでしょうか? そこには際限がありません。パラマハンサ・ヨガナンダの「世界はこんなにも苦しみに満ちているのに、なぜ何もしようとしないのですか?」という質問に、ラマナ・マハルシは「どこに苦しみに満ちた世界が存在しているのですか? まずはあなた自身を救いなさい」と答えています。これは行為することを否定しているのではなく、「世界は実在しない」ということも、際限のない「世界を救う」ということへの一つの答えだということです。

→個別記事:世界を救うべきか? それとも世界は実在しないのか?

→個別記事:なぜ、ラマナ・マハルシは「すべては意識である」とは言わないのか?

→個別記事:忙しく働きながら、ハートにとどまることはできるのか?

ラマナ・マハルシは、超能力を使えたのか?

ラマナ・マハルシは、帰依者に超能力へ興味を持つことを勧めませんでした。超能力を得るのは自我であり、自我が苦しみの原因なら、苦しみは増すばかりだ、という趣旨のことを語っています。一方で、母親が扉にかんぬきを掛けて出かけたすきに、蝶番を抜いて扉ごと持ち上げて抜け出し、母親たちがシッディ(超能力)だと噂しても動じなかった、というユーモラスなエピソードが、伝記に出てきます。

→個別記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】