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ラマナ・マハルシ 真我探求

バーチャルリアリティの中心で、「私は誰か」をさけぶ

今回は、バーチャルリアリティの世界を舞台に、ちょっとした思考実験をしてみたいと思います。

「レディ・プレイヤー1」という映画があります。

スティーブン・スピルバーグ監督の作品で、荒廃した近未来(2045年)を舞台にしています。

多くの人がスラム街に暮らしていて、現実逃避のためにバーチャルリアリティの技術が発達しているという世界観になっています。

専用のボディスーツを着れば、触覚も再現されるようです。

実際に、今後、そういった技術は発達していくのかもしれません。

最近は、ユニバースという言葉から派生した、メタバース(仮想的な宇宙)という言葉も使われはじめていたりします。

もちろん、5感覚が完璧に再現されたバーチャルリアリティの開発は難しいと思います。

でも、仮に、完璧なバーチャルリアリティの世界が存在するとします。

その世界の中で、「私は誰か?」と問うなら、人はどのように感じるんでしょうか?

明らかに私は体では無い

まず、この体は私ではないですよね。

それは明らかだと思います。

バーチャルリアリティの世界自体が作り物なのであって、この体はその一部です。

データみたいなものです。

もちろん、完璧に5感覚が再現されるなら、感覚的には、それは自分の体であるかのように感じられるかもしれません。

なにしろ、自分の意志でこの体を動かせているように感じられるはずです。

そして、何か目の前のモノに手を触れると、その触覚を感じることになります。

その感覚があまりにもリアルだと、人は、この体をまるで私であるかのように感じるかもしれません。

現実と、バーチャルリアリティの境目が消えてしまっているんです。

でも、「この世界はバーチャルリアリティなんだ」ということを覚えているのであれば、そのことを否定することができると思います。

ここには空間が存在していない

この体が私ではないなら、私は誰なんでしょうか?

このバーチャルリアリティの世界はすべて作り物です。

であるなら、私はどこにも存在していないことになります。

にも関わらず、ここには私が存在するという感覚があるはずです。

それは、ここに意識があるからそう感じられるんでしょうか?

でも、バーチャルリアリティの世界において、意識とは一体何なんでしょうか?

5感覚のことでしょうか?

でも、バーチャルリアリティの世界において、5感覚というのは作り物です。

データみたいなものです。

目の前に見えるこの風景は意識なんでしょうか?

はたまた、意識とは空間みたいなものであると言われることもあると思います。

でも、バーチャルリアリティの世界において、空間というのは存在していません。

空間が存在しているかのように感じられるのですが、それが錯覚なのは明らかだと思います。

3D空間として感じられるように設計されたデータがあるだけです。

バーチャルリアリティの中心で、「私はこの宇宙すら超えた意識なんだ!」と叫んでみたところで、この宇宙は作り物なんです。

この宇宙と意識を対比させようとするなら、この意識も作り物なんじゃないでしょうか?

私はこの世界を超えたところにいる?

もし、この世界がバーチャルリアリティだということを覚えているならば、「私はこの世界を超えたところにいる」と思うんじゃないかと思います。

実際の私は、このバーチャルリアリティを体感できる装置の中にいるのであって、その体、その意識が、このバーチャルリアリティの世界を認識していると思うんじゃないかと思います。

確かにその通りです。

でも、そのことを、このバーチャルリアリティの世界の住人に証明することはできるでしょうか?

「私はね、実はこの世界の中には存在していなくて、この世界を超えたところにいるんだよ!」と話してみたところで、「……そうかもしれないけど、どうやってそれを証明するの? あなたは実は、AI(人工知能)なんじゃないの?」と言われてしまうかもしれません。

その証拠となるものは、このバーチャルリアリティの世界には存在していません。

ただ、その記憶があるだけです。

記憶というのは、私が存在するということの証拠になるんでしょうか?

おそらく、多くの人は、それは証拠になると考えるのではないかと思います。

記憶の中の自分を見て、「これが私だ」と感じるのではないかと思います。

でも、もしそうであるなら、私は記憶だと言っているようなものなんじゃないでしょうか?

それは明らかに記憶であるにも関わらず、それを現実であるかのように錯覚しているんです。

ラマナ・マハルシが「私は誰か?」と問いなさいと言うのは、私は記憶だということに気がついてもらうためなんでしょうか?

感情が記憶を現実にする

バーチャルリアリティの中で「私は誰か?」と問うならば、理性は記憶の中の自分をみて、「これが私だ」と結論づけるはずです。

「私はバーチャルリアリティを体感できる装置の中にいる」と結論づけるはずです。

それは理性の当然の働きと言えます。

ただ、理性は、なぜ、記憶を現実であるかのように認識するんでしょうか?

もちろん、世界中のほぼすべての人がそう認識するので、そこに違和感は感じないかもしれません。

でも、論理的に考える人であれば、その不思議さに気がつくんじゃないでしょうか。

記憶は明らかに現実ではないからです。

ただ、そのことを受け入れようとすると、ものすごい違和感を感じるかもしれません。

感情的な反発が起こるんじゃないかと思います。

「いやいや、”記憶の中の自分”は確かに記憶かもしれないけれど、単なる記憶じゃなくて、現実の記憶(ほぼ現実)なんだよ!」と思うかもしれません。

どんなに論理的な人であっても、ここでは感情的になることがほとんどです。

実のところ、記憶を現実であるかのように感じさせているのはこの感情なんです。

バーチャルリアリティの中でも、私は在る

5感覚や世界そのものは、バーチャルリアリティの技術で再現できるかもしれません。

でも、この感情を再現することはできるんでしょうか?

この感情を、バーチャルな感情に置き換えるなんてことはできるんでしょうか?

それは不可能です。

科学は、あらゆるものは素粒子でできていると言います。

でも、感情も素粒子でできているとは言いません。

感情を科学的に可視化することができていないからです。

科学的には、感情という存在は、まるでこの世界に存在していないかのようなんです。

どんな科学的な計測機器でもとらえられないからです。

にも関わらず、すべての人は感情の存在を認識しています。

バーチャルリアリティの世界の中ですら、この感情を認識するはずです。

でも、一体、誰がこの感情を認識しているんでしょうか?

この体でしょうか?

でも、科学によって可視化されるこの体が、科学でも可視化できない感情を認識できるなんてことがあるんでしょうか?

今のところ、脳がこの感情を認識していると思われることが多いかもしれません。

認識しているというよりも、脳がこの感情という存在を創造していると思われているかもしれません。

でも、素粒子で構成された脳という存在が、科学でも可視化することができない感情という存在を創造することはできるんでしょうか?

それは、テレビの中の映像が、テレビのディスプレイを創造することができると考えることに近いかもしれません。

そんなことは不可能ですよね。

でも、人はそう想像することができます。

そして、その想像にリアリティを感じることができます。

実のところ、その想像にリアリティを与えているのはこの感情であるにも関わらずです。

であるなら、現実の世界、バーチャルリアリティの世界を超えて、一体誰がこの感情を認識しているんでしょうか?

感情自身でしょうか?

消去法でいくと、そうなるかもしれません。

でも、感情というのは一定しませんよね。

喜怒哀楽と言われるように、感情というのはコロコロと変わっていくものです。

感情が無いという状態だってあるようにも思えます。

でも、感情が無いと言える時だって、そのことに気がついている人がここにいますよね?

それは一体誰なんでしょうか?

そんな人は存在していないんでしょうか?

感情というのは、何も無いところに突如として現れるんでしょうか?

それとも、ここには何かが有るんでしょうか?

「私は誰か?」

バーチャルリアリティの世界であれ、その答えは、ここに在るのかもしれません。

(関連記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】

作成者: 山家直生

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