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真我探求

悟った人の行動を真似するべきか?【自分を他人だと悟る】

子どもってよく親の真似をしますよね。

それは人間に限らずに、あらゆる動物に言えるかもしれません。

毛づくろいをする親猫を見て、子猫も毛づくろいを始めたりします。

まるで、DNAレベルで真似する働きが組み込まれているかのようです。

なので、真似するという働きは、真理の探求においても当然でてくるわけです。

「悟ったと言われる人の行動を真似をすれば、自分も悟れるのではないか?」と思うのはとても自然なことだと思います。

ただ、真似することで悟れるのであれば、今頃、もっと多くの人が悟っていてもおかしくはないんじゃないでしょうか。

でも、実際のところは、悟ったと言われる人の行動を真似することで、悟ったという人はいないようにも思えます。

悟った人が、「私の行動を真似しなさい」と言うこともないんじゃないでしょうか。

であるなら、悟った人の行動を真似することには、意味はないんでしょうか?

悟った人は、この体が他人みたいなものだと知っている

悟っている人は、「この体は他人みたいなものだ」ということを悟っています。

この理解は、悟りのひとつの側面です。

探求の世界では、「私は体ではない」とよく言われます。

なので、「私は体じゃなくて、意識なんでしょ?」と思う人もいるかもしれません。

でも、そのことを本当の意味で理解することは難しいです。

私が意識であるなら、一体、誰がこの体を動かしているんでしょうか?

例えば、散歩をしている時、この体は勝手に動いているようにも思えます。

意識せずとも、勝手に呼吸も起こっていますよね。

なので、この体は自分ではないと言うこともできます。

でも、「悟った人の行動を真似すれば、自分も悟れるのでは?」と自発的に考えるのは、一体、誰なんでしょうか?

それは、体が勝手にそう考えているんでしょうか?

それとも、意識としてのあなたが、自分の意志でそう考えているんでしょうか?

悟ったと言われる人は、このことに対して明確に答えることができます。

でも、多くの人は、その区別ができないのではないかと思います。

「悟った人の行動を真似すれば、自分も悟れるのでは?」と自発的に考えることには、自由意志の感覚がともないます。

なので、そう考えるのはこの自分だという感覚が強いです。

意識としての自分が、自分の意志でそう考えていると感じます。

でも、悟っている人は、自由意志の感覚さえ、他人みたいなものだということを知っています。

他人に、他人を真似させるべきか?

悟っている人が、「私の行動を真似しなさい」と言わないのは、他人が他人を真似したって意味がないということを知っているからです。

例えば、他人に対して「私の代わりに、あの悟っている人の行動を真似してもらってもいい?」とか言いませんよね。

意味不明です。

言ったとしても「……なんでそんなことしなきゃいけないんだよ?」と拒否される可能性も高いでしょう。

他人がどう反応するかをコントロールすることはできません。

でも、多くの人は、この自分の体であればコントロールすることができると思うんじゃないでしょうか?

悟ったと言われる人の行動を、真似することができると思うんじゃないでしょうか?

そして、それは悟ることに繋がると思うかもしれません。

一方では、「私はこの体ではない」としながらも、一方では、「私はこの体をコントロールすることができる」と思うわけです。

矛盾しているのですが、これを矛盾だと感じない人は多いのではないかと思います。

でも、悟っている人は、この矛盾を良く理解しています。

実のところ、「私はこの体をコントロールすることができる」と思うことは、自分ではコントロールすることができないんです。

次の瞬間、自分が何を考えるのかを知ることができる人はいません。

思考が現れることによって、始めて、その思考の内容に気がつくことができます。

そして、多くの人は、「それは私の思考だ」と認識します。

そこには自由意志の感覚があるからです。

でも、悟っている人は、それも他人の思考のようなものだということに気がついています。

真似しようとする自分自身をよく観察する

悟ったと言われる人は、意識を外側にではなく、内側に向けさせようとすることが多いです。

「私の行動を真似しなさい」と言うことは、意識を外側に向けさせてしまうことになります。

なので、悟ったと言われる人はそうは言いません。

むしろ、「『私は誰か?』と問いなさい」とか、「『私は在る』という感覚にしがみつきなさい」とか言います。

意識を、自分の内側に向けさせようとします。

でも、相手を真似しようとすることは、DNAレベルであらゆる動物に備わった癖みたいなものでもあります。

真似するつもりはなくとも、結果的には真似しているようになることもあると思います。

例えば、悟ったと言われる人が瞑想ばかりしている人であれば、自分も瞑想ばかりしようと思うかもしれません。

悟ったと言われる人の喋り方や、性格をも真似しようとするかもしれません。

それでもいいと思います。

ただ、大事なのは、真似をしようとする自分自身をもよく観察することだと思います。

真似をしようとしているのは、自分自身でしょうか?

それとも、それは他人みたいなものでしょうか?

もちろん、最初のうちは「それは自分自身だよ」と感じるのではないかと思います。

もちろん、そうであって当然です。

でも、自分自身を観察することを続けていると、真似をしようとする自分自身がまるで他人であるかのように感じる時がやってくるかもしれません。

その時、あなたは一体誰なんでしょうか?

そのことに気づくなら、逆説的に、悟ったと言われる人を真似することをやめてしまうかもしれません。

(関連記事:真理を悟るとどうなるのか?【悟りに対する3つのイメージ】

作成者: 山家直生

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