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只管打坐(しかんたざ)にこだわるなかれ【禅病とは?】

禅の曹洞宗では只管打坐(しかんたざ)が重要視されているのではないかと思います。

只管打坐とは、ただ、ひたすらに坐ることです。

あれこれと考えずに、ただ、坐禅し続けることです。

禅には禅問答という言葉もあります。

言葉を使ったやり取りですね。

でも、曹洞宗では言葉を使ったやり取りよりも、只管打坐が重要視されるのではないかと思います。

禅宗の中でも、ひときわストイックな宗派とも言えると思います。

ただ、その反面、禅病と呼ばれる症状が現れることも少なくないようです。

躁うつ病のような症状が現れることもあるようです。

曹洞宗では、只管打坐には終わりがないとしています。

ただ、ひたすらに坐禅し続けることが重要なのであって、坐る姿そのものが悟りであるとしています。

でも、そのことを信じてしまうなら、禅病になってしまうのも無理もないのではないかと思います。

曹洞宗の開祖と呼ばれる道元は、本当に只管打坐を重要視していたんでしょうか?

只管打坐は見性に至るための一番の早道かもしれません

僕自身は、只管打坐は、見性に至るための一番の早道かもしれないとも思っています。

見性というのは、仏性を発見することです。

それは悟りの入り口です。

ただ、只管打坐は誰にでも勧められるわけでもないとも思っています。

そうするだけの強い意志が求められるのではないかと思います。

なにしろ、ただ、ひたすらに坐り続けるんですから。

30分だけ坐禅をして、「ハイ、終わり」というわけにはいきません。

もちろん、曹洞宗の門を叩く人には、そうするだけの強い意志を持った人も多いのではないかと思います。

「悟るまで、ずっと坐り続ける」という強い決意で曹洞宗の門を叩くのではないかと思います。

実際のところ、只管打坐を実践することで、見性する人も少なくはないと思います。

もちろん、すべての人が見性するとは限りません。

ある意味では、違う意味での禅病にかかってしまう人もいるかもしれません。

坐禅中に、幻想や幻聴にとらわれてしまう人もいるかもしれません。

幻想や幻聴にとらわれるということは、本質的には、只管打坐を実践することへの無意識的な抵抗でもあります。

体には坐る気があるれども、心は坐る気がないということです。

でも、心にも坐る気があるのなら、只管打坐は、見性するための一番の早道にもなり得るかもしれません。

見性した後も、ずっと只管打坐を続けるべきか?

見性というのは、何か特別な出来事が起こるというようなものでもありません。

仏性を発見すると言うと、何かすごいことなんじゃないかと思うかもしれませんが、そうでもないんです。

熟睡中の心地よさを、起きながらにして体験するというような感覚に近いです。

なので、見性したとしても、何か知的な理解が起きるということはないと思います。

何か言葉にしようとしても、どこかから借りてきたような表現になってしまうことがほとんどなのではないかと思います。

独自の視点で語れるほどに目が覚めるわけでもありません。

そして、曹洞宗では、見性することを、大して重要視していないのではないかと思います。

それはなぜなのかと言えば、「坐る姿そのものが悟りである」としているからなのではないかと思います。

坐る姿そのものが悟りなので、「只管打坐には終わりがない」ということにもなります。

でも、本当にそうなんでしょうか?

僕にとっては、それは宗教的な都合のようにも感じられたりします。

見性していなかろうが、修行中の身であろうが、只管打坐を実践するのであれば、それはすでに悟っているということになるからです。

「自分は悟っている」と思いたい人にとっては、それでも良いかもしれません。

でも、本当の意味で悟りとは何かを求めている人は、それでは満足できないのではないかと思います。

「私は悟っていない」と自覚しているにも関わらず、「坐っている自分はすでに悟っているのだ」と信じようとすることは自分自身を欺くことなんじゃないでしょうか?

それは、只管打坐を実践することによって見性したとしてもそうでしょう。

見性したからといって目が覚めるわけでもないんです。

そのジレンマを覆い隠すように、「坐る姿そのものが悟りなのだ」と信じこもうとするなら、禅病にかかってしまうのも無理もないのではないかと思います。

道元が本当に重要視していたのは法華経を読むことです

曹洞宗で只管打坐が重要視されるのは、道元が只管打坐を説いたとされているからなのではないかと思います。

確かに、道元はその著書『正法眼蔵』の中で、坐ることの重要性を説いています。

でも、道元がもっとも重要視していたのは『法華経』を読むことです。

このことが指摘されることは少ないのではないかと思います。

正法眼蔵は文字数が100万文字以上にもなる超大作です。

しかも、その内容は難解です。

禅に関わる人の中でも、正法眼蔵を読み通したことがある人は少ないとも聞きます。

なので、読まなくてもその内容が分かるように、重要な部分が抜粋されて伝えられているのではないかと思います。

只管打坐はそのひとつでしょう。

ただ、道元がもっとも重要視していた法華経を読むということは伝えられていないようにも思えます。

それは結構不思議なことです。

正法眼蔵を実際に読んでみるなら、道元が法華経を絶対視していたことは明らかだからです。

道元が坐ることの重要性を説いたのも、法華経の中に、「仏祖達はひたすらに坐っていた」ということが書かれているからです。

法華経が創作なのであれば、只管打坐の重要性も創作なのでは?

現代においては、法華経というのは創作された仏典であるという見解が通説になっているようです。

ブッダの直接の言葉ではない可能性が結構高いということですね。

でも、道元は正法眼蔵の中で、法華経を絶対的な仏典として扱っています。

只管打坐の重要性の根拠にもしています。

もし仮に、法華経が創作なのであれば、それを根拠にした只管打坐の重要性も創作ということになります。

もし、そうであったとしても、只管打坐は実践し続けるべきなんでしょうか?

こういった矛盾は、曹洞宗にとっても悩ましい問題になっているのではないかと思います。

もちろん、科学的に、もしくは文献学的に法華経の真偽が疑われようとも、「それが何か?」というのが宗教というものでもあります。

曹洞宗も、「それが何か?」という姿勢なのかもしれません。

ただ、僕は禅は宗教であって宗教ではないとも思っています。

「禅は宗教ではない」という禅の関係者も少なくないのではないかと思います。

であるなら、そのことはハッキリとさせておくべきなのではないかとも思います。

もちろん、僕は宗教を否定するつもりはないんです。

多くの人にとってはこのブログも宗教的に感じられるはずです。

何かを信じたいという人に、「いやいや、それは違うよ」だなんておせっかいをしたいとは思いません。

ただ、もし、禅病に悩んでいる人や、只管打坐を続けるべきかどうか気になっている人がいるならば、疑ってみてもいいのではないかと思います。

道元は、本当に只管打坐を最重要なものとして説いたんでしょうか?

『正法眼蔵』についてわかりやすく解説した記事も書いているので、気になる人は読んでみてください。

(関連記事:道元の「正法眼蔵」をわかりやすく解説【心とは何か?】