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真我探求

真理を悟るとどうなるのか?【悟りに対する3つのイメージ】

今回は、「真理を悟るとどうなるのか?」ということについてお話したいと思います。

悟った後のことなんて悟った後に確認すればいいのですが、ついついイメージしてしまいたくなりますよね。

僕も、あれこれとイメージしてきましたし、多くのイメージが語られていることも知っています。

実際のところ、それらのイメージの中には答えはありません。

「悟ったらイメージ通りだった」なんてことはあり得ないんです。

仮に、イメージ通りだったのだとするならば、その状態は変化していくものであって、不変の悟りではないんじゃないかと思います。

というわけで、悟るとどうなるのかという、3つのイメージを参考に挙げながらお話したいと思います。

【1】世界が自分であるかのように感じられるのか?

よくあるのは、世界が自分であるかのように感じられることが悟りだというイメージじゃないかと思います。

「世界は私である」と表現されることもあると思います。

(関連記事:「私の中に世界がある」ってどういうこと?

僕自身、「悟るということはそういうことなのかな?」と思っていた時期もあります。

「段々と、自分だと思える範囲が広がっていくのかな?」と思っていた時期もあります。

「この意識が拡大して、宇宙そのものを認識できるようになるのかな?(そんなこと不可能のように思えるけど)」とか思っていた時期もあります。

なので、霊性に興味を持った時期も少しだけありました。

(関連記事:真理を悟るには、霊性を高めなければならない?

はたまた、仏教の「空」の思想を、「世界は私である」と感じることだと思う人もいるかもしれません。

(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】

世界が自分である必要がありません

実際のところ、世界を自分であるかのように感じるのは、神秘体験の一種だと思います。

そのことを一瞥体験とも呼ぶのかもしれません。

(関連記事:一瞥体験は必要でしょうか?それとも不要?

人は、なんらかの知識を得るとバイアスがかかりやすくなります。

バイアスというのは、無意識にそちらの方に向かっていってしまうという感じの意味ですね。

「悟るとは世界を自分であるかのように感じることだ」というバイアスがかかるなら、そのことを無意識にイメージするようになるかもしれません。

仏教には一境性(いっきょうしょう)という言葉があるそうです。

瞑想対象と一体化したように感じることをそう呼ぶそうです。

例えば、炎との一体化ですね。

真言宗の護摩行ではこの現象が起こりやすいのかもしれません。

この現象は仏教に限らず様々なところで聞くことができます。

世界を自分であるかのように感じることがあるのは、この一境性が関係しているのかもしれません。

ちなみに、僕は小さい時にゲームボーイと一体化したことがあります。

薄暗いところでゲームボーイに熱中していたら、自分自身がゲームボーイのディスプレイになってしまったかのような感覚になりました。

その状態は長くは続きませんでしたが、不思議な現象だったなという記憶として残っています。

でも、当然のことながら、当時はそれが一境性だということは知りませんでした。

そして、それが悟りだとも思いませんでした。

それは単なる不思議な現象です。

今、意図的にその状態になることはできませんし、その状態になりたいとも思いません。

むしろ、それは悟りから遠ざかることのようにも感じます。

意識というのは、対象に流れていく性質を持っています。

意志、感情、心、体といった対象に流れていきます。

そして、その対象を自分自身だと感じるようになります。

瞑想対象を自分だと感じるようになるのは、その延長線上なんじゃないかと思います。

世界を自分であるかのように感じるのも、同じようなものかもしれません。

であるなら、それは意識そのものからは、離れてしまうことなんじゃないでしょうか?

それは一体化のように見えて分離なんじゃないかと思います。

悟りとはそうなのではなく、むしろ、何ものとも一体化する必要がない状態にとどまることです。

世界、体、心、感情、意志との一体化を解いていくことが大事なのではないかと思います。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

【2】思い通りの人生を送れるようになるのか?

悟ったら思い通りの人生を送れるようになるというイメージも根強い人気があるように思います。

悟るということは、人格的な向上、集中力の向上、あらゆる能力の向上だと思っているのであれば、結果的に、そういったイメージが生まれやすいのかもしれません。

思い通りである必要がありません

悟るなら人生が思い通りである必要はなくなります。

これはなかなか理解されないかもしれません。

「であるなら悟りを求めることに何の意味が?」と思う人もいるかもしれません。

「世界は私である」と思っている人であれば、世界は思い通りになって当然と思うかもしれません。

でも、実際のところは、世界は観照対象なのであって、コントロール対象ではないんです。

世界を思い通りに動かせている人がどこにいるでしょうか?

この地球上で最も権力がある1人と思われるアメリカ大統領だって世界を思い通りにコントロールすることはできていないでしょう。

天気だってコントロールすることはできません。

台風が上陸するのを止めることが出来る人がいるでしょうか?

もし、止めることができないのなら、それは信念が足りないんでしょうか?

世界と本当に一体化するなら、いつかは天気すらコントロールできるようになるんでしょうか?

そうじゃないんです。

世界をコントロールする必要なんてないんです。

むしろ、「コントロールしたい」と思うその人が悟りを遠ざけてしまうんです。

【3】常に、至福を感じていられるのか?

常に至福を感じていられるようになるというのも、悟りに対する人気のあるイメージなんじゃないかと思います。

今まで苦しみを感じていたような事であっても、悟ったなら苦しみを感じることが無くなり、むしろ、常に至福を感じながら行動できるようになると思うかもしれません。

僕も、そういったイメージを抱いていたことがありました。

でも、そんなことはありません。

常に至福でいる必要がありません

常に至福でいる必要はないんです。

生きている限りは、目の前の状況によって感情は様々に移り変わることになります。

悟りが起ころうが起こらなかろうが、それは同じなんです。

例えば、頭痛になれば、常に至福でいることなんてできませんよね。

真理を悟るということは、頭痛にならなくなるということではありませんし、病気にならないということでもありません。

何も変わらないと言っても良いかもしれません。

ただ、足りない何かを求めて、行動し続けようという衝動が無くなるだけです。

その衝動から解放されることが至福なんです。

行動する必要がない解放感に浸っていることが至福です。

なので、「至福を感じながら行動できるようになる」というイメージは、そもそも、至福とは何かということを勘違いしているんです。

至福というのは、世界をコントロールしたがる意志にとって都合の良いものではなくて、世界をコントロールしたがる意志が消えているときに現れるものです。

(関連記事:真我探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する

それは両立しません。

さきほど、世界は思い通りになる必要がないと言いました。

それは、これが理由です。

心地よい感情を求めて生きているうちは、世界と関わらずにはいられません。

とはいえ、世界と関わってはいけないというわけじゃないんです。

そんなことは無理ですし、真理を悟ったとしても、体が死ぬまでは世界と関わり続けるんです。

ただ、「起きている間、ずっと切れ目なく世界と関わり続ける必要はないんじゃない?」というだけなんです。

行動する必要がない時には、何もせずに至福にとどまっていればいいんです。

でも、真理を悟るまでは、何もせずにいる時間というのは退屈に感じられるはずです。

真理を悟ることによって大きく変わるのはそこだと言っても良いかもしれません。

退屈な時間だと感じていたのが、至福に変わるんです。

(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと

世界をコントロールし続けようとする必要はあるでしょうか?

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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