カテゴリー
探求

一瞥体験は必要でしょうか?それとも不要?

このブログで、「一瞥体験(いちべつたいけん)」という言葉を使うのは初めてだと思います。

僕は、この言葉をほとんどといってもいいほど使いません。

あまり、その重要性を感じないからです。

後でもお話しますが、僕は一瞥体験をしていないと思います。

でも、真理の探求においては、一瞥体験が起こることが、とても重要なこととして位置づけられているような気もしています。

「まずは、一瞥体験しなきゃいけないのでは?」と思っている人も少なくないかもしれません。

そこで、今回は、一瞥体験は必要か不要かということについて、お話してみたいと思います。

そもそも、一瞥体験って何なのか?

一瞥体験についてお話するのであれば、まず、「そもそも、一瞥体験ってなんぞや?」というところから始めないといけませんよね。

一般的には、一瞥体験というのは「悟りの状態を一瞥すること」ということになるんでしょうか?

一時的ではあれ、「これが悟った状態なのかな?」ということを、体験することだと思います。

もちろん、その確信の度合いは人それぞれ違うと思いますし、その体験を特徴づける感覚も違うと思います。

人によっては、至福感をメインに感じるかもしれません。

はたまた、人によっては、すべてはひとつ、という一体感をメインに感じるかもしれません。

ともあれ、一瞥体験は、記憶に残る形で、体験されます。

そして、その人なりの言葉で表現されることになります。

僕は、一瞥体験をしていません。

ちなみに、僕は、一瞥体験をしていないと思います。

このブログを良く読んで頂いている方なら、僕が「ハート」とか「私は在る」ということを、語っていることを知っているかもしれません。

でも、それは一瞥体験じゃないんです。

というのも、「ハート」を理解しても、「私は在る」を理解しても、分離感は残り続けたからです。

確かに、何かに気づいた、という体験ではあるのですが、「これが悟った状態か。。」とは思うことはできませんでした。

満足することはできませんでした。

死の恐怖は消滅しませんでした。

であるなら、それは一瞥体験ではないでしょう。

本当に、分離感が消えるのは、この世界が実在しているという認識が崩壊した時です。

その体験は、一瞥体験と呼べるかもしれません。

でも、その体験は一時的なものではありませんでした。

なので、それも、一瞥体験ではないんです。

なので、僕の経験で言うのであれば、一瞥体験は必須ではありません。

もちろん、不要と言い切る気はありませんが、もし、一瞥体験をする必要があると思っている人がいるのであれば、その考えは、捨ててしまっても良いと思います。

なぜ、その体験が一時的だったのかを理解するほうが大事。

一瞥体験をしようが、しまいが、大事なのは、「なぜ、一瞥体験は一時的なのか?」ということを理解することだと思います。

一瞥体験をしていない人からすると、「そもそも、一瞥体験をしていないから分からないよ!」と思うかもしれません。

でも、一瞥体験をしていなくても、その感覚はわかるはずです。

今まで生きてきた中で、楽しい経験というのは、いくつか経験してきていると思います。

今、その楽しい感覚はそこにあるでしょうか?

感じているでしょうか?

もし、その楽しい感覚が、今、そこにないのであれば、その楽しい経験は一時的だったということです。

一瞥体験が一時的なのも、それと同じようなものです。

そして、それが一時的なのには理由があります。

目の前の世界の状態と、自分の感情を、連動させてしまっているからです。

一瞥体験をしたとしても、心地よい感情を世界に求めるのであれば、その一瞥体験は失われるのは当然のことです。

悟りの状態というのは、世界の状態と関係がないからです。

一瞥体験を経験する瞬間というのは、多くの場合、空を見上げた時とか、散歩中とか、家の中を移動してる時とか、特に、何の意味もないシチュエーションの場合が多いように思います。

だからといって、そういったシチュエーションを経験しても、一瞥体験が起こるとは限りません。

多くの場合、起こらないでしょう。

悟りの状態というのは、世界の状態とは、何の関係もないからです。

この関係性を理解していない限り、一瞥体験が起こったとしても、それは、まさしく一時的な体験にしかなりません。

もし、一瞥体験が未知の体験だったのなら、それは単なる神秘体験です。

そして、一瞥体験で気をつけたほうが良いと思うのは、神秘体験とごっちゃになることです。

一瞥体験というのは、未知の体験ではあり得ないはずです。

よく、「人は生まれながらにして、すでに悟っている」と言いますよね。

それは、確かにその通りで、悟っている存在は、常にここに在ります。

なので、悟りの状態というのは、非常に懐かしいような、馴染み深いものなんです。

なので、もし、一瞥体験が、今まで体験したことがないような、未知の体験として経験されるのだとしたら、それは、一瞥体験ではなく、単なる神秘体験の可能性が高いです。

何かを期待することと、精神集中が重なると、神秘体験が起こる可能性は高くなります。

例えば、禅では、「瞑想中にブッダが現れたなら、ブッダを殺せ」と言ったりします。

例えば、仏像を瞑想対象にするなら、仏像がまるで生きて動いているかのように感じる神秘体験をする可能性が高くなります。

なので、「それは、単なる神秘体験であって、本当のブッダではないのだから、それを殺せ」と戒めるんですね。

そうであるなら、一瞥体験への期待と、精神集中が重なるなら、どうなるのかは、想像に硬くないんじゃないでしょうか?

神秘体験としての一瞥体験を経験する可能性が高くなります。

そして、その体験が、本当に一瞥体験なのか、それとも、単なる神秘体験なのかを判断することは、とても難しいはずです。

なので、一瞥体験をしたとか、していないとか、あまり気にする必要はないんです。

どっちにしろ、それは一時的なんですから。

それよりも、今、この瞬間、感じていることに気づいていることの方が重要です。

今、感じているこの感覚は、ずっと続くものなんでしょうか?

それとも、一時的なものでしょうか?

【関連記事】探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する