「すべてはひとつ」という言葉は、とても響きの良い言葉です。
この言葉を聞くと、なんとなく「そんなものかなあ」と納得してしまう人も少なくないと思います。
でも、多くの人は見落としていると思います。
「すべてはひとつ」の「すべて」って一体、何を指すんでしょうか?
「宇宙」や「世界」のことでしょうか?
実は、違うんです。
未知のモノを「すべて」と認識できるか?
そもそも、「すべて」という言葉には限界があります。
未知のモノに対しては、「すべて」という言葉が使えないからです。
例えば、小惑星リュウグウ。
去年、2019年に、ニュースになりました。
宇宙探査機「はやぶさ2」が小惑星リュウグウに到着して、岩石標本の採取に成功した、というニュースがありました。
このニュースを知る前に、小惑星リュウグウについて知っていた人はどれだけいるでしょうか?
ほとんどいないと思います。
もちろん、僕だって知りませんでした。
ニュースをほとんど見ないという人は「小惑星リュウグウ?何それ?」と思うんじゃないでしょうか。
現代においては、地球上のことは、ある程度は知られるようになっているかもしれません。
グーグルマップで衛星写真だって見ることができます。
でも、宇宙については、まだまだ分からないことだらけだと思います。
宇宙には、どれだけの星があるんでしょうか?
宇宙は、膨張していると言われています。
膨張しているといっても、一体、どうやって膨張しているんでしょうか?
宇宙と、宇宙の外に、境目なんていうものがあるんでしょうか?
そして、この宇宙は、やがて、膨張から収縮に転じるといわれています。
一体、どうやって収縮していくんでしょうか?
そして、収縮しきったら、一体、宇宙はどうなるんでしょうか?
「宇宙のすべて」と言葉では簡単に言うことができます。
でも、その言葉には実態がともないません。
そもそも、ほとんどなにも知らないからです。
「すべて」を知ることは不可能です。
「すべてはひとつ」と、言葉では簡単に言うことができますが、そもそも、その「すべて」を知ることはできません。
世界や宇宙の「すべて」を知ることは不可能です。
せいぜい、自分が知っていることの「すべて」を知ることができるだけです。
そして、人それぞれ、その「すべて」は違います。
例えば、小惑星リュウグウを知らない人にとって、小惑星リュウグウは、存在するんでしょうか?
存在しないに等しいんじゃないでしょうか?
「いやいや、知っていようが知っていまいが、物理的に存在するのであれば、存在するでしょう!」って思う人もいると思います。
でも、その考え方であれば、いつ、「すべて」を知ることができるんでしょうか?
この世は、未知のモノだらけです。
未知のモノは、いつ、既知になるんでしょうか?
「すべてはひとつ」という言葉は、「世界や宇宙を理解することで、ひとつとは何かが分かる」というニュアンスを含んでいるように思います。
でも、「すべて」を理解する時は、永遠にやってきません。
であるなら、「ひとつ」とは何かを理解する時も、永遠にやってこないんじゃないでしょうか?
「すべて」とは、宇宙や世界ではなく、記憶のこと。
本当のところは、逆なんです。
「ひとつ」とは何かを理解する時に、「すべて」とは何かを理解できるようになります。
世界や、宇宙は、実在しているわけじゃないということを理解します。
それまでは、「すべて」という言葉が指す意味を、誤解し続けるはずです。
「すべて」を知るために、未知の何かを追い求め続けるはずです。
未知のモノだったり、未知の人だったり、未知のシチュエーションだったり、未知の感情だったり、何かしらを追い求め続けるはずです。
でも、そうすると、余計に「ひとつ」とは何かということを見失うことになります。
多くの人にとって、「すべて」というのは、記憶のことを指すからです。
記憶に頼ることなく、世界や、宇宙を、イメージすることはできるでしょうか?
もし、記憶に頼るのであれば、それは「すべて」でもなければ「ひとつ」でもないんです。
それは、単なる記憶です。
例えば、小惑星リュウグウ。
僕は、小惑星リュウグウを、記憶としてしか知りません。
ニュースを見たから、小惑星リュウグウの存在を知っています。
でも、それは記憶です。
僕は、宇宙空間に出たこともありませんし、小惑星リュウグウに降り立ったこともありません。
なので、小惑星リュウグウの存在を、確認することができません。
ただ、存在していると仮定して、生きているだけです。
それは、小惑星リュウグウに限らずに、すべてのものがそうです。
ここに在るものが「すべて」であり「ひとつ」です。
であるなら、もし、今この瞬間、記憶喪失になったとしたら、「すべて」とは一体何を指すんでしょうか?
もし、記憶がないのだとしたら、知ることができるのは、5感覚を通して、今、感じられることだけです。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、を通して、今、知ることができることだけです。
実は、それが「すべて」です。
もし、視覚が無かったとするなら、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を通して知ることができるものが「すべて」です。
そして、記憶がないなら、感情はどうでしょうか?
無感情になるでしょうか?
それとも、退屈を感じるでしょうか?
無感情や退屈といったものも、記憶から引き起こされる、感情的な反応です。
もし、記憶がないのであれば、そこには何者にも縛られない、至福感だけがあるはずです。
それは「すべて」の中心であり、「ひとつ」ということを感じる場所です。
それは、ハート、生命、平和、安らぎ、解放、など色々な呼ばれ方をします。
ただ、もちろん、生きている限り、記憶は蓄積されていきます。
記憶をもとに作られる、世界というイメージや、感情の反応などはあります。
それがなければ、社会生活は送れません。
でも、そういったものは、この「すべて」の中で、シミュレーションされているだけです。
宇宙をイメージする時、必ず、この「すべて」の中に、イメージが投影されます。
この「すべて」の外で、何かが起こるということはありません。
何かが起こる時は、必ず、この「すべて」の内側で起こります。
この「すべて」が、唯一「ひとつ」の存在だからです。
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